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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 000: 処刑台で消されるはずだった名

 処刑台の板は、思っていたより低かった。


 帝都の広場に立つそれは、英雄譚に出てくるような大仰なものではなく、雨を吸い過ぎた荷車の荷台みたいに黒ずんでいた。乗せられた者を高く掲げるためではなく、足場ひとつ分だけ群衆より上に置き、よく見えるようにするためだけの高さだ。人が死ぬところを見るための工夫は、だいたい人が生きるための工夫よりずっと行き届いている。


 首の後ろで縄が擦れる。麻の繊維が汗で柔らかくなり、逆に皮膚へじっとり食い込んでくる。冬の朝だというのに、アシュレイ・ヴェルンの背中には嫌な汗が流れていた。もともと血の気の薄い顔色は寒さでなおさら白く見え、濃い灰色の髪は昨夜のまま乱れて額へ張りついている。


 朗読役の書記官が、罪状を読み上げている。徴発記録への不当な異議、保全計数の妨害、公文秩序の撹乱。どれも血の匂いがしない言葉だった。だがアシュレイは知っていた。その言葉の裏側で、誰の冬布が削られ、誰の薬包が遅らされ、誰の死が「転出」へ書き換えられたのかを。


 告発したのは、北方三州の徴発帳だった。州都へ届く前の控え帳に、同じ週の凍死者が二度「移住成功者」として再計上されていた。死んだ者を移したことにして、徴発達成率の穴を埋めていたのだ。見つけたときの吐き気を、アシュレイはまだ喉の奥に覚えている。


 その中には、名前を覚えている女が一人いた。塩運びの許可札を出しに来た、指先の荒れた未亡人だ。夫が冬の橋で落ちたあと、せめて埋葬許可だけは早く出してくれと窓口で頭を下げていた。数日後、その家の記録は「移住成功」に変わっていた。死者一名ではなく、労働人口一名として帳面に残されていたのだ。あのときから、アシュレイは紙の上の数字を見るたび、人の顔を先に思い出すようになった。


「最後に述べることは」


 監督補の男が書類から目を上げずに言った。儀礼として置かれた問いにすぎない。どうせ次の文句まで台本があるのだろう。


「記録は、人を残すためにあるべきです」


 自分でも驚くほど平坦な声だった。


「数を合わせるために使うなら、最初から刃物で数えた方が早い」


 ざわめきが起きた。監督補の眉がわずかに動く。怒りというより、整えた文面へ泥を落とされた苛立ちだった。


「処刑を執行しろ」


 背後で足音が鳴る。執行役が近づく。怖いのは死ぬことより、自分がここで帳面から消されることだった。死刑になるのではなく、何も残らない失敗例として処理されることが耐え難い。


 そのとき、処刑台の端に積まれた執行記録板が視界に入った。日付、罪状、執行時刻、立会人。そこに、赤い欠けが見えた。空欄ではない。書かれているはずのものが削り取られた痕だけが、ひびのように残っている。


 線は立会人欄の脇から、監督補の袖口と、台の下の黒い荷箱へ伸びていた。


 見たことのない現象だった。だが直感した。あれは書き損じではない。消されたのだ。


 次の瞬間、首に衝撃が走った。縄が締まり切るより前に、処刑台の継ぎ板が割れた。アシュレイの体は半ば台から滑り落ち、頸に食い込んだ縄が横へずれた。喉が裂けるように痛んだが、即死は免れた。


 悲鳴と怒号が広場をひっくり返す。執行役が何か叫び、監督補が「押さえろ」と叫び返す。その混乱の中で、アシュレイは割れた板の隙間から黒い荷箱の中身を見た。封緘のない控え帳。そこにも赤い欠けが走り、死んだはずの人間が別の欄へ移されている。


 処刑さえ、正しく記録されない。


 理解した瞬間、痛みより先に怒りが来た。


 気がつくと、アシュレイは石畳の上へ落ちていた。誰かが彼を引きずり、処刑台の裏手へ押し込んでいる。耳鳴りの向こうで、「失敗だ」「ここで始末するな」「北へ回せ」という声が飛び交った。北。それが左遷先の方向だと、半分意識のないまま理解した。


 死刑をやり直すより、辺境へ捨てる方が都合がいいのだろう。生き延びても、寒さと飢えと忘却が片づけてくれる場所へ。


 首の傷口から血が温かく伝い、すぐに冷えた。薄い冬空の下で、アシュレイはただ一つだけ確信した。消された名がある。なら、死んでも終わらない。


 石畳を掻く指先に力を込める。まだ生きている。生きてしまった以上、次に見るのは処刑台の帳面ではない。辺境の死簿だ。そこに何が消されているのか、自分の目で確かめるまで、消えるわけにはいかない。


 もし辺境が、処刑台の続きみたいな場所だったとしても構わない。少なくとも処刑台よりは、まだ帳面をめくれる。誰かが消した名前に、もう一度重さを戻せるかもしれない。それが一人分でもあるなら、自分はまだ処刑されきっていない。

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― 新着の感想 ―
硬派な文体で読み応えアリ!続きが気になります(╹◡╹)
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