まだ
初恋は、もっと静かに始まるものだと思っていた。
例えば、春の風とか。
校舎裏で偶然目が合うとか。
胸の奥が少しだけ温かくなる、そんな程度のもの。
少なくとも、こんなふうに日常を壊すものだとは思っていなかった。
私の毎日は、驚くほど単調だった。
同じ時間に起きて、同じ道を歩いて、同じ席に座る。
クラスにいても、そこに「いる」だけ。
話しかけられれば返事はするし、必要なら笑うけれど、それ以上は踏み込まない。
深く関わらなければ、傷つくこともない。
期待しなければ、裏切られることもない。
そうやって、私は自分の世界を必要最低限の広さに保ってきた。
友達はいる。
でも、依存するほど近くはない。
クラスの誰かと帰ることもあるけれど、毎日一緒ではない。
その距離感が心地よかった。
だから、あの日もただの「いつも通り」だった。
朝のホームルームが終わって、教室がざわつき始めた頃。
私は窓際の席で、ノートの端に意味のない線を引いていた。
次の授業までの、どうでもいい空白の時間。
「消しゴム、落としたよ」
そう言われて顔を上げた瞬間、
少しだけ、時間が遅くなった気がした。
声の主は、悠人だった。
同じクラスだけど、特別話したことはない。
目立つタイプでもないし、かといって影が薄いわけでもない。
誰とでも自然に会話ができて、誰からも嫌われない人。
机の下に転がっていた消しゴムを差し出されて、
私は一拍遅れて受け取った。
「……ありがとう」
それだけのやりとり。
それだけのはずだった。
なのに、心臓が一度、変な音を立てた。
理由は分からない。
見つめ合ったわけでもないし、特別な言葉をかけられたわけでもない。
ただ、近かった。
それだけ。
「じゃ」
悠人はそれだけ言って、自分の席に戻っていった。
それなのに、私の視線はしばらく彼の背中から離れなかった。
おかしい。
ただのクラスメイトだ。
今まで何とも思ったことはない。
そう言い聞かせながら、ノートを閉じる。
胸の奥に残った違和感を、無理やり無視した。
その日の帰り道、
夕焼けの色がやけに濃く見えた。
風がぬるくて、
踏み切りの音が少しうるさくて、
全部が少しずつ、普段より主張してくる。
それが全部、悠人のせいだなんて、
その時の私は思いもしなかった。
「まだ、大丈夫」
家の玄関を開けながら、小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく、自分に向けて。
これはきっと、気のせいだ。
一瞬の違和感。
たまたま。
まだ、好きじゃない。
まだ、何も始まっていない。
そうやって、
この気持ちに名前をつけないまま、
私はその日を終わらせた。
その選択が、
あとから一番、私を苦しめることになるとも知らずに。




