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臭う女【中編】


 結局のところ彼女からの電話はなく、コンビニでの一件は報告しないまま忙しい日が続いた。

 彼女のこともすっかり頭の片隅へ追いやられていたある夜だった。

 学校から自宅アパートにつき、二階に続く古びた鉄製階段を上っていた時だった。

 クサい。

 なんだかにおうな……

 腐臭に似た奇妙な匂いに気付いて、俺はぎくりと足を止めた。

 刹那、ぞわりと全身に戦慄が走った。

 それは彼女が漂わせていた匂いに違いなかった。

 気のせい? いや、この匂いはコンビニで嗅いだものだ……!

 部屋に続く外廊下が見えはじめるところで俺は硬直したまま立ち竦んだ。

 もしかして彼女がここに!?

 どうして俺の家が分かったんだ……?

 嫌な汗がつうっと脇の下を伝うのが分かった。はっとなって階下に視線をやるが、人気はなかった。

 俺の住む部屋は一番奥にあり、ドアの前に誰かいるかここからだと目視できない。俺は覚悟をきめて気配を殺しながら階段を上った。

 薄暗い外廊下に人気はなかった。

 しかし、ドアのノブに白いなにかが掛けられているのが目に入る。

 目を凝らすとそれはビニールの買い物袋のようで、妙な胸騒ぎを感じながら自室のドアへと向かった。

 ノブに掛けられていたビニール袋が暗がりのなかでいやに浮いて見える。

 屋外灯がジジッと微かな音をたて、俺はそれを手に取った。

 周囲に目を走らせるが、彼女はおろか俺以外に誰もいない。

 ガサリと妙に大きく音が響き、そうっと覗きこむ。

 中にはタッパーがあり、半透明の蓋越しにそれが乱切りされたニンジンや里芋だと分かった。


「煮物……?」


 手作りらしき煮物のほかに、焼きそばパンも入っていた。

 個包装された総菜パンには、いつも行くコンビニのマークのシールが貼られている。

 最近、俺があのコンビニでよく買うパンだった。

 おまけに正方形のメモが同封されており、ミミズがのたくったような字で『焼きそばパンが好きなの? カワイイ。でも、コンビニ飯ばっかりじゃダメよ』とあった。

 やっぱり、あの女だ……!だが、どうして……? 彼女に話しかけられたあの日、パンは買っていないのだ。

 あの女がどうして、俺が好んで買っているものを知っているんだ?

 途端にあの悪臭が甦って、俺は感電したようにビニール袋から手を離す。

 タッパーがゴトンと音を立てて落ち、その直後にカンコンカンと階段を上ってくる足音がし、俺は息を呑んだ。

 あいつか――!? 身構えていると、作業着に身を包んだ男性が姿をみせる。

 一つ部屋を挟んだ住人だった。

 男性は、微動だにしない俺に訝るような目を向けたが「……こんばんは」と会釈する。

 俺は強張った顔の筋肉を動かして挨拶を返し、そそくさと足元に落ちたビニール袋を引っ掴んで、部屋の鍵を開けた。

 そのままキッチンにあるゴミ箱へ持っていたビニール袋を叩きつけるように投げ込んだ。


「なんなんだよ、あの女は……!」


 俺がなにをしたっていうんだ……!?

 激しい苛立ちが腹の底から噴き上がり、両手で髪を掻き混ぜるようにして頭を抱えてしまった。

 


 翌日、俺は出勤してすぐに茂木先生に、彼女のことを報告した。

 すると彼は困ったように後ろ首を掻いて「マジかあ」と呟く。

 それから、じっとこちらを見つめて言った。


「実はさ、その人……この学校の生徒の保護者じゃないんだよ。卒業生の親でもないらしくてね。まったく無関係の人なんだわ」


 すぐさま意味が理解できずに俺は「えっ?」と間抜けな声を上げてしまった。

「ど、どういうことです? だって、南雲先生あてに電話が……」

「うん、彼が丁寧に対応しちゃったからさ、いまは南雲先生あてに掛かってくるんだよ。ちょっと前までは他の先生をご指名してたのよ」


 すうっと全身から血の気が引くのが分かった。


「じゃあ……彼女は誰なんですか?」

 そういえば、電話を取った時に彼女の氏名を聞いていなかったのを思い出して、彼に名前を聞く。

「ある時はスズキと名乗って、最近はタナカと言ってたなあ」


 茂木先生の話から察するに、もしかしたら子供が引きこもっているというのも嘘かもしれない。

 そもそも、コンビニで声を掛けてきた時、どうして俺が見神だと分かったのだろう? おかしいじゃないか。

 喘ぐように呟くと、南雲先生は筋肉質な腕を胸の前で組んで「つきまとい行為となると……まずいよな」と顔を顰めた。


「見神先生、イケメンだからなあ。狙われちゃったのかねえ」


 揶揄いが滲んだ声で言われ、カッとなって「冗談じゃない!」と言い返しそうになるのをなんとか堪えた。

 南雲先生が学年主任に報告し、校長の判断で警察に届けることになった。

 当時、ストーカーによる殺人事件が発生し、警察の不手際があったと報道機関で取り沙汰されていた。

 それもあってか、警察署では担当部署の警察官が丁寧に対応してくれた。

 しかし相手の本名など分からず、覚えている限り彼女の見た目など特徴を伝える。


「あと……ちょっと変な匂いがするんです」


 ためらいがちに伝えると、ベテランの風格のある男性警察官の灰島さんが不思議そうな顔をし、俺は彼女が漂わせている腐臭のような匂いのことを話す。

 彼は真剣に耳を傾けてくれたが、独特の悪臭がするというだけでは彼女の身元などは突きとめることは出来ないだろう。

 アパート周辺のパトロールをしてくれることになったが、灰島さんから同情的な目を向けられた。


「もし可能でしたら、実家から職場に通う……もしくは引っ越しも検討されることをお薦めします」


 被害といっても買い物袋がぶら下げられていただけで、警察としては大きく動くことはできない。灰島さんの言外に滲ませた返答に、俺は目の前が一瞬、暗くなってしまった。

 実家は県外にあり、出勤は不可能であった。

 おまけに引っ越しといっても、教師になったばかりの給与では引っ越し費用だっておいそれと出せない。

 なので、俺は市内に住む同じ大学出身の友人、音濱おとはまりつを頼ることにした。

 彼は教員資格を取得したものの教鞭はとらず、職につかずにフラフラとしている。バックパック一つで海外を放浪し、一ケ月ほど前に帰国していた。

 ちょっと変わった男だが、妙に気が合って卒業後も付き合いが続いていた。

 事情を説明すると、彼は快く「今夜から来れば」と言ってくれた。

 泣きそうな声で礼を言う俺に、彼は「大変だったな。暇だから車で迎えに行ってやろう」と明るく返した。

 俺の部屋で落ち合うことになり、アパートに着いたのは夜の八時を過ぎた頃だった。

 まだ音濱は来ていない。彼が到着する前に荷物をまとめておこうと、急いで二階に向かう。

 またドアの前になにか置かれていないかと戦々恐々としてしまったが、今日はなにもなかった。

 念のために、アパートの周囲も見回ってみたがあの女の姿はなかった。

 いそいそと部屋に入って、電気をつけた瞬間だった。

 俺はぎくりと身体を強張らせた。

 くさい。

 あの妙な臭いが部屋の中に濃く充満していたのだ。

 1LDKの室内に籠った不快な匂いに吐き気を催して、とっさに口元を押さえる。

 なんで……? どうしてあの女の匂いが部屋の中でするんだ――!?

 いる……! あの女がこの家のなかにいるんだ!

 でも、どこに……!?

心臓がドッドッドッと乱暴に鼓動する。

 狭い部屋のなかをきょろきょろと目を走らせる。

 隠れるところ……ベッドの下……いや、狭くて無理だ。

 だとすると――俺は息を呑んで備え付けのクローゼットを凝視した。

 クローゼットの扉……少し、開いていないか?

 咄嗟にキッチンにあるフライパンを掴んで、クローゼットの前で構えた。

 ふざけるな! ストーカー女め!

 こういう場合、部屋からすぐに離れて警察を呼ぶのが正しい行動だろう。

 しかし、その時の俺はすっかり冷静さを欠いていた。


「お、おい! 出てこい!」


 俺は震えそうになる声を振り絞って、勢いよく折れ戸タイプの扉を引いた。

 しかし、クローゼットの中にはあの女の姿はなかった。


「気のせいか……」


 ほうっと吐息が漏れた直後、背後で「くひゅー」と空気の抜けるような音がしたのは同時だった。

 反射的に振り返った俺の視界に、髪の長い女の姿が飛び込んできた。

 彼女がこちらに飛びかからんとして、俺は叫び声をあげて握っていたフライパンを滅茶苦茶に振り回した。

 ゴン! という鈍い音がし、女の側頭部にフライパンが当たった感触がする。

 女は殴打された勢いでよろめいたが「どおしてぇえ!?」と絶叫しながら、再び体当たりしてきた。

 その素早い動きに避けることができずに、俺は床にひっくり返った。

 馬乗りになった女はパサついた黒髪を振り乱して、こちらの首に手を伸ばした。


「ひどいじゃないのぉぉ!」


 女が金切り声をあげ、こめかみから血をだらだらと流しながら俺の首を絞めはじめた。

 容赦ない締め付けに目の前が霞んでいく。苦しさにもがきながら握っていたフライパンを真一文字に振った。

 再びゴッ! という鈍い音が響き「へけっ」と女が間抜けな声を上げた。

 次の瞬間、俺の視界はスイッチを切ったように真っ暗になった。



〔つづく〕



最後までお読みくださりありがとうございます。

連載となりますので、ラストまでお付き合いいただけましたら嬉しいです!



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