大人の夜
はち切れそうになっていた汽車がようやく積みものを全部放出させた。僕らも駅で降りて改札を抜けて行った。
赤と青の格子柄をした旗がどこでも風になびいている。大きな街で、たくさんの人が行き来する場所だ。僕は初めてこんなところに来た。
電灯に灯りがついている。夜でも明るい街だけど、それでも昼間と違って僕には少し怖い。大人が笑顔でいると、何か悪いことを企んで笑っているんじゃないかって思えるばかりだ。
とにかくミュンヘンにぴったりと付いて歩く。彼女は嫌がらずに歩幅を合わせてくれた。それに目的地はすぐ近くだったみたい。自然の成り行きで高級そうな建物のエントランスに入って行ってしまった。
「お客様」
もちろん僕らはたちまち大人に囲まれる。眩しいくらいに電気で照らされた場所だからそんなに怖くなかった。きっとこの建物で働く人で、僕らにも上品だったからでもある。
「私の絵を見てもらいたくて。ガーデン伯爵のオークション会場は何階?」
子供の目線に合わせて腰を屈ませていた男の人だったけど。えっ、という顔をしてから一旦背筋を伸ばしていた。その高い位置から僕のこともちょっと見た。
カウンターから別の男の人もやってくる。
「失礼ですが。今夜開催のオークションに出展されるご家族の方ですか?」
ミュンヘンが怯まずに答えた。
「ううん。でも私の絵はきっとガーデン伯爵が気に入るはず」
「……」
その後も大人が集まってくるけど、みんな困った顔をしている。僕は大人が困るところが苦手だ。今にも飛び出したいくらいになった。でもミュンヘンが、いつの間にか僕の手を強く握っていて、全然離してくれない。
「ガーデン伯爵に私が来たって知らせて」
「じゃあ君のお名前はなんて言うのかな?」
「うーん。教えない。アーティストは名前よりも作品で名乗るべきじゃない?」
困り切っているところ。僕が目線を動かしてカウンターのところを見ると、何やら受話器を当てて僕らのことを話しているみたいだ。
もしかして。あれが警察や僕の家族に繋がっていたらどうしよう。
「ね、ねえ。もう帰ろうよ」
痛いくらいに握られている手を僕から引いた。ミュンヘンは「ダメだよ」と拒んでいる。
受話器を置いた女の人がカウンターから抜けてこっちに来る。
「君たち、ちょっとお菓子でも食べる? ゆっくりお話聞かせてもらおっかな」
名案だったみたいで、男の人たちの顔が救われたみたいに晴れていた。でもミュンヘンはより地団駄を踏む。
「ゆっくりしている時間なんてない! 私の絵をひと目見てもらうだけで良いから!」
また大人全員の顔が曇った。まるで海のように押したり引いたりするけど、ミュンヘンの船はどの波に当たっても方向を変えないみたいだ。
「何を揉めているんだ。そんなエントランスで」
また大人が増えた。でもここでやってきたおじさんは「支配人」と呼ばれている。もしもこのにこやかに話しかけてくる大人たちが悪を支配する組織だったら……と、僕には浮かんだ。
大人たちで話が進んで、ミュンヘンの絵はこの場で少し見せることになった。色んな色で塗りたくった酷いキャンバス。三つほど並べてミュンヘンがタイトルと説明を一生懸命に伝えている。
「そっちのものも君の作品かね」
僕を指さされるからドキリとした。僕が持っているもう半分のキャンバスのことを指していた。
「うん。全部私が描いたの。見てみる?」
「いや、結構だ。ありがとう」
支配人は腕時計を見てからちょっとだけ唸った。
「残念ながらオークションは昼開催だったんだ。だからもう終わっていてね。また出直してくれるかい?」
「そうだったんだ。分かった、そうするね。じゃあこの絵はおじさんが全部買い取ってくれるの?」
全員が驚いた。ミュンヘン以外。僕も驚いた。
呆気に取られているところにさっきの女の人がやって来る。「警察の方が到着されました」と聞こえたから僕は少し寒気がした。
「よし。良いだろう」
支配人が急に僕を指をさしたことで、今すぐ帰るようにと怒るんだと思った。だけど柔らかな表情でいて、指し示しているのはミュンヘンのキャンバスだ。
「私が全部買い取ってあげよう。でもこんな時間に子供達だけで出掛けているのは頂けない。価格交渉は後日でもいいかな? 小さなアーティストさん」
「よかった! じゃあ後日ね。手紙を書いて送って? あと、おじさんは見る目があるね」
ミュンヘン強気な態度は大人も顔負けといった感じ。対して支配人が困り顔で笑っているけど、僕を嫌な気持ちにするものじゃなかった。だってなんだか嬉しそうに見える。
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