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時間と空間の関係性と定理否定

作者: 羽柴

脳に頼って情報に生きる現代だからこそあらゆる方向に疑いの目を持つことは大切

とりわけ他者と自己が相互関係社会になっている現代ではストレスも多いから、あくまで当該ストレスを緩和することから研究を始めました。

研究の途中経過報告

 時間は人間が観測できない概念。特に光の計測に用いた相対性理論では面白い結果が出ている。『運動する物体は時間がゆっくり進み、停止する物体は時間が早く進む』。この研究では砂時計を飛行機に乗せたと聴いたことがある。飛行機に乗せた砂時計と地上の砂時計に齟齬が生じた。飛行機に乗せた砂時計と地上の砂時計では砂の回転率が違うというもの。無視できるレベルの範囲であるため日常生活で人間が認識することはない。そしてこの理論には欠陥がある。光を測ることに時間を使ったというのは、時間以外に信頼できる物質、概念が存在しなかったから。逆に言えば時間が古くから人間に信頼されている証拠。ガリレオ、ニュートンが行った地動、重力を証明するのも時間が必要。空気の証明にも燃焼実験に時間を要した。当たり前のことを言っている。時間は当たり前の概念になっている。誰も疑わない。つまり時間は人間より先に存在したことになっている。なぜなら時間を証明した人間はいない。

時間は物質か人為的形成概念なのか定かではない。時間が物事を腐敗、劣化、分裂させる促進的物質なのか進みゆく日々に時間という概念を人間が後から付加させたものなのか定かではない。地球上にあるもの、宇宙で観測されたものは全て最終的に消滅する。これが時間の分裂性質による作用だとすれば時間とは物質に分類される。証明するには時間の解剖が必要。現状で時間を解剖するには停滞する物質、物体が必要。胎動する物質と停滞する物質を揃えて比較しなければ証明できない。私は停滞する不滅物質を探している。時間についての研究は本題ではないが、時間と人間の空間認識には大きな接点がある。

人間は空間を認識する時に視覚などの五感を使っている。感覚的に空間認識をすることを覚えて生きてきた人類は空間を疑わない。空間が三次元的に展開し、継続していると考えている。歩いている時もどこを歩いているのか疑わない。窓を見た時に移り行く景色を疑わない。人間は情報化された認識のみで空間を把握しているから人間が空間を疑うには情報をシャットアウトする必要がある。まず時間と空間を切り離す必要がある。

空間が常に継続した平面だと人間に教えているのは時間。時間が人間に空間を認識させるプロセス例は以下。

物体の動き、方向、スピード。対面から来る人間の表情、音。他には他生物の観測、認識。風、太陽の光など自然統括概念。

様々な『運動体』を媒介にして時間は人間に空間を認識させる。時間を疑わない人間は空間を疑う事もない。先程も述べたように時間には確固たる証明がなく精神的概念に留まっている。そんな曖昧で一見信頼できない概念を人間は原始生活から内面に取り込み信頼してしまった。文明は語り継がれて、時間という名前をつけられて現在時計となって視認できるまでに出世した。より一層空間への疑念はなくなり空間が一面的継続性を持っていると内面認識しながら生活するようになった。天動説もそうだが、人間は情報に縛られて生きている分、一度信頼した情報に疑いをかけない。空間は本当に一面的継続性があるのだろうか。このような疑問を持つと堪らず『常識派』の人間に叩かれるのだが。

時間が証明できない以上空間も証明できない。人間の五感は周知の通り脳が処理している。その脳とは非常に曖昧な機関だと最近明らかになってきた。

例にペンキの死刑を挙げる。死刑囚に自分の首から下を見えなくする。麻酔をかけて死刑囚Aの腹部を切り開き、血をペンキだと偽り報告。死刑囚Bには麻酔をかけて腹部には何もせずペンキを大量に見せつけ、血だと報告する。結果的に死んだのは死刑囚B。死因はショック死。この実験からわかる事は人間の脳は『その程度の認識力しかない』ということ。たしかに人間は情報を統括する脳への信頼性に重きを置くしかないが、脳は別段卓越した機関ではない。例外なしに『バグ』『エラー』も多発する。幻覚や幻聴はその例でしかない。情報を疑わない人間は自分で物事を思考しない傀儡になってしまう。時間を疑い空間を疑わなければ人間が四次元的性質を発見することはないだろう。

空間の三次元的一面継続性を疑うということはすなわち、空間と空間が個に存在している、分割していると主張していることになる。つまりその主張は。人間が視界に入れた景色は断片的に切り取られた空間か二次元的平面が断続的に切り替わっているというもの。遠くまで見渡す事ができる場所ではその最深部、遠方景色までが断片空間。または絵画のように貼り付けられた景色がアニメーションのように断続的に動いているか。ここで議論すべきは時間の存在。断片空間であれば時間は空間内を介在する物質か概念になる。しかし二次元的平面空間であれば時間は存在しない。

断片空間では他者と自己の空間は別離しているため時間の流れが違うのも納得がいく。相対性理論でいう飛行機内空間と地上の砂時計がある空間では別離した断片空間であるため時間の流れは変わる。しかし二次元的平面空間ではそう簡単に時間と関連性をつけられない。断続的に繰り返される平面空間は時間が動かすわけではなく空間そのものが移り変わっているため時間が介入する余地はない。空間の移動で、時間は関与していないことになる。時間が空間を動かしているならば時空が存在することになり、矛盾が生じる。三次元的空間がないのだから時空もない。あるのは人間が認識する空間移動だけ。この理論だともう一つ議論せねばならない事がある。他者の存在。

断片空間では他者と自己の空間が重なることは多分にあり得る。だから他者が自己を認識するのは普遍的。しかし二次元的平面空間=断続的空間では他者ごと空間が移動しているので他者の存在は意識内に留まる。つまり他者は空間に存在せず、平面に描き出された景色の一つに過ぎないということ。そして他者は自己が想像する範疇でしか生きていないということ。この理論(二次元的平面空間)の証明は時代風潮が鍵になる。自己が想像する範疇でしか現れない『他者』は当たり前だが自己が想像できる姿にしかなれない。この理論は現実世界(五感認識世界)に空想世界(フィクション作品などの世界)のような特異例が存在しないことが証拠に繋がる。例にフィクション世界のような『特別能力』などを持っている人間がいるとする。しかしそのような特異人物を自己が具現化できないのは自己に同等の力がないが故に想像できないか、信じていないからだ。だからフィクションだと割り切って信じていないので特異他者を具現化できず現実世界の断続的空間にはいつも同じような分類の人間(時代風潮的な外見)しかいなくなる。髪型から服装まで外見は統一されてしまう。空間が移動しているから時代風潮は他者(存在しない偶像認識)と自己では異なる。つまり生きている世界そのものが違う。この理論の異質性はこの世は自分しか生きていないというところにある。証明は難しい。第一理論の断片空間理論の証明は時間の解剖で達成される。時間が停滞している物体を見つければ時間を物質だと特定し、概念を空間に適用。断片空間では自己空間に時間が感じられる。しかし他者と時間の進行が違うので空間が分離していることが証明できる。だが、時間が概念上の物でしかないと証明は困難。空間が分断されていることを証明するには自己と他者の空間内変化を証明しなければならないからだ。そして第二理論である断続的空間理論では時間を証明に使えない。つまり理論証明するには空間内でエラーが生じてくれることを願うしかなく。またエラーを他者という偶像認識が理解できる可能性も少ない。というより、証明そのものができたら他者という偶像認識に証明する必要性がなくなる。ゆえに第二理論は証明できない。あくまで妄想、机上の空論に留まってしまう。第二理論は可能性の話。

第一も第二も両理論どちらか証明できれば感情を否定する事ができる。例えば会社や学校などの人間社会でのストレス。社会性ストレスは断片空間さえ証明できれば脳の思い込みだと認識可能。なぜなら他者と違う時間軸に生きる断片空間内で他者から攻撃されるのは物理的にありえない事だからだ。他者からの攻撃は『被害妄想』に留まり、実害は皆無。第二理論だと尚更で、他者という偶像に攻撃されることはすなわち自己が自己を自動攻撃しているだけで苦しみ損。所詮は自己しか存在しない空間なのだから他者の攻撃に『見える(思える)』物全ては自己が自己を戒めているだけ。自分で自分の首を絞めていることになる。ここでペンキの死刑をもう一度想起してほしい。全く同じ、脳が『攻撃されている』とエラーを出したからストレスが溜まってしまう。

最後に、私はこれからも時間の証明に取り組みたい。時間が証明できれば空間も否定できる。空間が継続する一面空間ではないと証明できれば感情の起伏も意味がなくなる。また課題として生存と死亡状態の違いも解明しなければならない。なぜなら第一理論の場合死亡した自己意識と肉体は空間ごと抹消するから。空間の断片である自己空間は自己の意識がなくなれば共に空間消滅か空間凍結(認識できない生命体が存在しない空間)される。よって断片空間理論では死亡の確認は他者にはほぼ不可能。たまたま重複した断片空間で他者が死ぬしか自己が他者を死亡したと確認する方法はない。だから生存している証拠もなくなる。シュレディンガーの猫と同様にいない人間=別離空間内の認識不可にある人間は自己世界(自己空間世界)から抹消しており、生きても死んでもいない。存在しないことになる。脳内記録はされている場合記憶情報として生きてはいるが。倫理学的にも死亡、生存という従来の一般認識を大きく変革させる研究になる。第二理論の場合死亡や生存どころか自己しかいないのだから、まずどうやって空間が形成されたのかを調べなければならない。無から有がというフィクションが現実になってしまうのが第二理論であるから時間を完全否定する第二理論はとりわけ研鑽しなければならない。

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