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モノクロに君が咲く  作者: 琴織ゆき
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第四章 「臆病だね、君は」


 なんとか無事に定期テストを終え、雪崩れ込むように夏休みへ突入した七月末。

 気温三十六度。相変わらず身をこんがりと焼き尽くすような暑さではあるものの、風があるぶん、いくらかはマシだと思えるような晴天の日。


 ──ユイ先輩との約束の日だ。

 薄青の空には、スポンジを叩いたような霞んだ雲がまばらに広がっている。

 絵として表現しやすくはありそうだけど、もう少し情緒的な写実さがほしいな、と生粋の絵描き脳が訴える。

 外を歩いていると、どうしても絵のことばかり考えてしまうのは悪い癖だ。

 先輩と待ち合わせをした学校の最寄り駅へ向かう最中、うーんと頭を悩ませていた私を横目で見ながら、隣を歩く愁が「姉ちゃんさあ」とぼそぼそ口を開く。


「本当に大丈夫なの」


「もー、大丈夫だって。朝からそれ八回目だよ、愁」


 同じく夏休み期間中の愁は、私がユイ先輩と出かけると知ると、わざわざ早起きして駅まで送りに来てくれた。

 それは素直にありがたいとして、この仏頂面はどうしたものか。

 おおかた、私と先輩がこうして時間を共にするのが気に食わないのだろうけれど。


「今日で最後だからね」


「え?」


「私が先輩を追いかけるの。今日で全部おしまいだから、今日だけは許して」


 はっきりとそう告げると、思いのほか愁は動揺したように目を泳がせた。


「……おれ、は」


「あっ、せんぱーい!」


 そのとき、待ち合わせ場所にすでにユイ先輩が立っているのに気づいた。

 私は思わず大きく手を振って、先輩を呼ぶ。

 あたりをきょろきょろと見回してこちらに気づいた先輩は、一瞬だけ目をゆっくりと瞬かせてから歩いてくる。愁も一緒だったことに驚いたのかもしれない。


「……おはよ、小鳥遊さん。弟くんも」


「おはようございます、ユイ先輩」


 無地の白Tシャツに黒のサマージャケット。下は黒のスキニーパンツというシンプルな服装をしているユイ先輩。学校でも基本的に黒のベストを着用しているし、やはり私服も一貫してモノクロコーデらしい。

 ふたつしか色味がないのに、ユイ先輩が着るとただのオシャレ上級者だ。

 顔か、スタイルか。いや、どちらもか。

 好きな人の私服を見れたことにドキドキしながら、私は口を開く。


「愁、心配して送ってくれたんです。ほら、ご挨拶」


「…………おはよう、ございます」


 むううう、と心の声が聞こえてきそうなほど、愁の顔に暗雲が広がっていく。けれど、一応返してくれたことにほっとして、私は宥めるように愁の頭を撫でた。


「見送りありがとうね」


「っ、軽率に撫でるなよ。おれだって、もう子どもじゃないんだから」


「はいはい。じゃあ行ってくる。なにかお土産買ってくるから、楽しみにしててね」


「べつに、いらないし。……帰りも迎えに来るから、ちゃんと連絡してよ」


 素直なのか素直じゃないのかわからないな、と私は苦笑する。

 姉バカとしては、こういうところも可愛いとしか思えないから困ったものだ。


「あと、あんた」


「……ん? 俺?」


「そうだよ。あんた……えっと、春永、先輩。一緒に出掛けるんだから、責任持って姉ちゃんのこと見ててよ。一瞬でも目ぇ離したら、なにするかわかんないからな」


 ん!? と私は仰天しながら愁を凝視する。

 今、サラッととんでもない子ども扱いをされた気がした。

 よりにもよって、三つ下の弟に。

 いつにも増して真面目な顔で深くうなずいている先輩も先輩だけれど、私だって一応もう高校二年生だ。手を繋いでいないと危ない小さな子どもではない。


「あと、あんまり連れ回すなよ。姉ちゃん体力ないし、すぐバテるからな」


「わかった」


「ちょ、っとストップ! 過保護すぎだよ、愁!」


 私を心配してのことだろうが、さすがにこれは居心地が悪い。

 今回誘ったのは私の方だし、必要以上に気を遣わせたくはないのに。


「だいたい今日は、絵を描きに行くわけで、べつに動き回るわけじゃ……」


「ああ、ごめん。今日は絵は描かないよ」


「えっ」


 さらりと否定してきた先輩。

 どういうことだ。話が違う。と、混乱しながら視線を遣れば、ユイ先輩はなんてことないように朗らかな──わずかにそうとわかるほどの微笑を浮かべて告げた。


「今日は、絵を描くための素材を見に行く」


「そざい?」


「ええと……対象、の方がいいかな。今日見たものを夏休み中に描くんだ。美術部の活動の一環としてね」


 つまり、夏休み中の課題ということだろうか。


「ち、ちなみに、どこへ?」


「水族館」


「水族館!?」


 またしても、思いもよらない返答だった。

 ポカンとする私に、隣の愁がどういうことだと言わんばかりの視線を向けてくる。

 知らない。私の方が聞きたい。本当に、どういうことなんだろう。

 立ち尽くす私の手を、まるで当然のように取ったユイ先輩は、細身の腕時計で時刻を確認する。それもやはり銀製のもので、改めて先輩のこだわりが窺い知れた。


「二駅だからそこまで遠くないし、駅と水族館も直通してる。館内をのんびり見て回るくらいなら、問題ないよね……?」


「……まあ……」


「よかった。ちゃんと手は繋いでおくから、安心して」


 いやいやいやいや、と内心大パニックになっている私を差し置いて、愁は苦々しい顔をしながらも首肯した。そこで納得するのはおかしいのではないだろうか。


「せ、せんぱ……手、手は、大丈夫ですから!」


「なんで」


「なんで!?」


「嫌?」


 さすがに狼狽えて、金魚のように口をパクパクさせてしまう。

 そんなわけがない。嫌なわけがない。

 好きな人と手を繋げるなんて美味しい状況、いっそ土下座してでも続けたい。それほど夢にまで見たし、本心のところでは拝んででも甘えてしまいたいと思う。


「嫌じゃないなら、このまま繋がせて。俺はわりと……その、結構ぼーっとするときがあるでしょ。こうして手を繋いでいた方が、君を見失わなくて安心する」


 ああ……と、なんとも納得してしまう理由だった。

 たしかにユイ先輩は、とりわけ絵が関することになると、意識が四方八方に散在しがちになる。むしろ自覚があったという方が驚きだ。


「まあ、なんかいろいろ不服ではあるけど、そっちのが安心ならそうすれば」


「しゅ、愁」


「ほら早く行きなよ。おれは本屋寄って帰るからさ」


 じゃあね、とひらひら手を振って、自分の役目は終えたとばかりに元来た道を戻っていく愁。

 あんなに不機嫌そうだったくせに引き際は弁えているあたり、まったくもって中学生らしくない。行かないでと泣き喚いてくれた方が安心するくらいだ。


「優しい弟くんだね」


「え、あ、はい。本当、私の弟とは思えないほどいい子なんですよ」


「君の弟だから、いい子なんでしょ」


 え、と聞き返す間もなく、ユイ先輩が私と手を繋いだまま駅に向かって歩き出す。

 引かれて踏み出した足のまま、私はおずおずとその横顔を見上げた。


 シミひとつない陶器のように綺麗な肌。けれど、左の目元に小さく置かれた黒子がどこか色っぽさを醸し出している。影を落とすほどの長い睫毛も、薄い唇も、癖のない銀色の髪も、筆舌に尽くしがたいほど魅力に溢れていた。


 この人を描いたらどんなに楽しいだろう、と血が騒ぐ。

 いったいどう趣向を凝らしたら、私の世界に映る先輩を表現できるのか。

 正直、この見たままの姿を、一枚の写真のように描き起こすことは容易い。

 でも、それではだめなのだと本能が言っている。

 足りないのだ。なにかが、決定的に。私はずっと、そのなにかがわからない。


「具合が悪くなったりしたら、すぐに言って。我慢とかしないでいいから」


「は、はい」


 本当のところ、ユイ先輩はどこまで知っているのだろうと考える。

 あれほど派手に倒れて、病院まで付き添ってくれたのだ。先生から直接話を聞いていないにしても、なにかしらは耳にしてしまっている可能性の方が高い。

 それでもなおこうして一緒に出かけてくれているのなら、少なくとも今の時点で私と距離を置こうとは思っていないと考えてもいいだろうか。

 なら、と、私はひとり顔を綻ばせた。


 ──どうせなら、最後を満喫しよう、と。


 ユイ先輩と、好きな人とふたりきりで出掛けられるなんて、滅多にないチャンスなのだから。


「先輩、今日楽しみましょうね」


「ん」


 なぜか少し照れたようにうなずいたユイ先輩に、くすりと笑う。

 先輩の隣に並びながら、ふと、まるで夢のなかみたいだなと思いながら。

 だって、こうして手を繋いで歩いていると、まるで本当のカップルみたいだ。

 けれど、今日が終わってしまえば、きっと夢は覚めるのだろう。

 ならば覚める前に、この非現実的な一日を心ゆくまで謳歌しなくては。


「足元、気をつけて」


「はい。先輩もですよ。ぼーっとしてたら、転んじゃいますからね」


「さすがに君の前では転ばないよ。俺、かっこよくいたいから」


 えー、なんて。先輩はいつでもカッコいいですよ、なんて。

 いつも通り他愛もない話をしながら、私たちは水族館行きの電車へ乗り込んだ。


 ──まだ、確信には触れないままで。



 広海水族館は、地元民に愛される小さな地域型水族館だ。

 外から観光に訪れるほどの魅力はなくとも、展示されている海生物はそれなりに充実しているし、園内には子どもが遊べるようなアトラクションエリアもある。

 地元割もあるため、気軽に立ち寄れる遊び場として親しまれていた。

 しかし数年前、隣町に大規模のエンターテインメント施設ができた影響で、一気に観覧客が激減してしまったらしい。この世知辛い情勢では、もう遠くない未来に閉館してしまうのではないかと風の噂で聞いていた。


 実際、夏休み期間にもかかわらず、広海水族館の人はまばらだった。

 外のアトラクションエリアの方からは、いくらか楽しそうな子どもの声が聞こえてくるものの、主役である館内はほぼ無人と言っても過言ではない。

 近頃は子どもの数も減っているし、閉館の噂もあながち嘘ではないのかもしれない。

 まあ個人的には、先輩とふたりきりになることができて嬉しいのだけれど。


「……疲れてない?」


「大丈夫です。ふふ、先輩もたいがい心配性ですね」


 あっけらかんと返しながらも、ついこの間倒れたばかりであることを考えると無理もないな、と思う。

 もし逆の立場だったら、たぶん私はまともに鑑賞もできなかっただろう。


「先輩。この水族館の生き物から描くものを決めるんですか?」


「そう。小鳥遊さん、基本的に水彩画でしょ。とくに水の表現が上手いから」


 思いがけない言葉に、私は目を丸くした。

 ユイ先輩が鉛筆画専門であるように、私の専門は水彩画だ。部活中も好んで水彩を用いるし、よほどのことがなければ油絵には手を出さない。


「私が水彩画好きって先輩が知っていたことに驚きです」


「そりゃあ……毎日のように隣で描いてればね。言っておくけど、美術部の部費管理してるの俺だよ。つまり、画材注文してるのも俺なの」


「あ、そっか。言われてみれば」


 水彩画に用いる水彩紙の在庫が切れたことは、一度もない。

 美術室に保管されている紙も素材も種類が豊富で、充実している印象にある。


「なるほど……。紙とか補充してくれてるの、先生だと思ってました」


 美術部の部員は、美術室にある画材を好きなだけ拝借が許可されている。

 その恩恵は意外と馬鹿にならない。毎日のように絵を描いていると、いくら画材があっても足りないし、私費でやりくりするには限界があるのだ。


「うち、ほとんど活動部員いないでしょ。だから、部費には多少余裕あってさ。俺と君が使う画材を中心に注文してるけど、俺は実質、鉛筆一本で事足りるし。小鳥遊さんも、もしなにか気になる画材があるなら、注文してあげるよ」


「ほわー。先輩、私の知らないところでちゃんと部長やってたんですね」


「えらいでしょ、俺」


 ユイ先輩は基本的に、絵を描く行為以外に関心がない。

 さらに、一度描き上げてしまえば、自分の絵でさえも興味を失う。それどころか、自分がなにを描いたのかすら覚えていないことも多いくらいだ。

 そんな先輩が、私の得意分野が水彩で、しかも好んで水を描いていることを知っていてくれたなんて。なんだか、とても胸の奥がこそばゆい。


「あの、でも……先輩はあんまり描きませんよね? 水とか」


 そわそわとする気持ちを誤魔化すように、話の方向性を変えてみる。


「ん、そうだね。俺はどちらかというと、日常的な風景とか、自然……とりわけ緑を描くことが多いから。水を絵に取り込むこともあるけど、相対的には少ないかな」


「ああ、たしかに。先輩の絵って、モノクロなのに緑が緑に見えるから不思議なんですよね。色の濃淡だけで木々を表現するのって、すごく難しいのに」


「まあでも、俺は人や動物は描かないし。メインに据えるものが生物でないぶん、むしろ表現域は広いと思ってるけどね」


「そういえば、先輩が生き物の絵を描いてるの見たことないかも。なにか理由があるんですか? こだわりとか?」


 興味本位で尋ねると、ユイ先輩は顎に指を添えて虚空を見つめた。

 それからわずかに「んん」と唸り、ゆらゆらと視線を泳がせる。


「……そう言われると、明確に考えたことないかも。なんとなく避けがち。たぶん、鉛筆で生命力を表現するのはあまり向いてないんだよ」


「ああ、なるほど。感覚的なものだけどわかる気がします。瑞々しさというか、こう内から湧き上がってくる命の煌めきみたいなものですね」


「うん。あくまで形取っただけのスケッチみたいなのはべつなんだけど、俺が描くと、過不足になるというか……どこかで描いちゃいけないかなって思ってる」


 先輩は思案気に「たぶんね」と独り言のようにつぶやく。


「描いちゃいけない……?」


 どういう意味だろう。

 さすがに汲み取れなくて繰り返した私に、ユイ先輩は少し困ったような顔をした。

 視線を三点ほど空中で動かしながら、「ええと」と頬を掻く。


「そもそも、俺が色を使わずに絵を描くのは、俺自身がそう見えてるからでさ」


「見えてる……色がない、てことですか?」


「こういう色って認識はしてるよ。それを写実的に描き起こすのは容易いし、たぶんできるんだけど、それは俺の描きたい絵じゃないし。まあ、昔は──幼い頃は、俺も色を持った絵を描いてたんだけどね」


 え、と。私は思わず瞠目して立ち止まった。

 ユイ先輩が色のある絵を描いていたことがあるなんて、聞いたことがない。少なくとも五年前、先輩が中一だった頃には、すでにモノクロ絵を描いていたはずだ。

 つまりそれ以前、ということだろうか。


「──……俺ね。中学に上がる前に、母を亡くしたんだ」


「……っ」


 ユイ先輩は立ち止まった私の手を引いて、歩くよう促しながら続ける。

 ちょうど深海魚エリアに到達したところだった。

 海の奥深く、人の手が及ばない場所で生きている海洋生物たちに配慮してか、いっそう照明が暗い。それがなおのこと、ユイ先輩の発言を縁取って動揺を誘う。


「それから、色味のある絵を描けなくなった。なにひとつ」


「……お母さまの、ショックですか?」


「どうなんだろう。正直よくわからないけど……うん。でも、そうなのかもね」


 ユイ先輩は、ふっと自嘲気味に息を吐いて、水槽に目を遣る。


「うちは家系的に好きなことをできる雰囲気ではなくて。父も、長男も、いまだにいい顔はしてないんだ。そんななか、母は俺が絵を描くことを唯一応援してくれていた人だったから。肯定してくれる人がいなくなったのは、大きいかな」


 たしか春永家は、由緒正しい華道のお家元だと聞いたことがある。

 ユイ先輩が華道をやっているところは一度も見たことがないし、花を生けているイメージもないけれど、そうか。裏側では、そんな家の問題を抱えていたのか。


「まあ、だからね。今の俺って、ただのでき損ないなんだよ」


「っ、そんなこと」


「あるよ。モノクロ画家、なんて言われてるけど、実際はそうじゃない。俺の世界は黒でも白でもなく、いつも灰色で。それしか描けないだけだから」


 淡々と言葉を紡ぐ先輩は、不思議なほど落ち着き払っているように見えた。

 悲しい話なのに、こちらにまったくそう感じさせない。それはきっと、先輩自身がその悲しさを自覚していないからだ、と私はひそやかに息を呑む。


「でもね、俺はこの灰色の世界、わりと嫌いじゃないんだ」


 自分の前髪をちょんと指先で摘んで、ユイ先輩は肩をすくめた。


「この髪も、本当はずっとこの色にしたかった。俺の見えている世界に、俺自身が浮かないように。まあ、中学のときは頭髪制限があって染められなかったんだけど」


 そのとき、ちらりと視界に飛び込んできたチョウチンアンコウ。ぎょろりとした目と視線がかち合って、思わずビクッとしてしまう。 

 私と手を繋ぎながらも一歩ほど前を歩く先輩には、幸いにも気づかれていないようだった。美しい緩急を描く横顔からは、むしろなんの感情も読み取れない。


「実際、そうして廻る世界が俺には嵌まるんだと思う。俺が画家として評価されるようになったのって、皮肉にもモノクロの世界を描き始めてからだし」


「っ……」


「それまでは、少し上手い程度で誰からも意識されなかったのに。本当、この世って結構むごいよね。ときどき、馬鹿らしく思えるよ」


 脳裏に、一枚の絵が過ぎる。

 それは何度も何度も繰り返し目に焼き付けた、私にとって特別な絵。

 けれど、その絵を描いた本人は、きっと私が今どんな思いでユイ先輩の言葉を聞いているのか考えもしないのだろうな、と思う。


「だから、正直、今の俺の立場って複雑で。死んだ母からの贈り物だと思うべきか、一種の呪いだと思うべきか、当時はわりと悩んでたはずなんだけどね。答えが見つからないうちに、なんかどうでもよくなっちゃった」


「……両極端、ですね。贈り物と呪いなんて」


 ユイ先輩にとっては、他人から評価されることも、さして重要ではないのだろう。

 それは私がこの一年半の間、時間が許す限り、先輩の隣で絵を描き続けて感じたことだった。先輩は、第三者の目なんて意にも介していないのだ。

 コンクールで金賞を受賞することにこだわってきた私とは、根本的に違う。


「……でも、やっぱり、ユイ先輩はすごいです。本当に、いつだって絵に対して真摯で。だからこそ、先輩の絵はあんなにも綺麗で確立されているんでしょうね」


 おそらくユイ先輩は、金賞自体になんの価値も見出していない。先生から促されて出していただけで、そこで結果を残そうとは、はなから望んでいなかった。

 それゆえに、私は、いつまでもユイ先輩に追いつけない。

 そしてきっと一生、同じ世界を見ることは叶わない。

 どれだけ恋焦がれようとも、欲にまみれた私は、彼の隣には並べない。


「君も絵を描く人だから、わかると思うけど。俺たちは結局、どんな境地に立たされても、そのとき見えているものしか描けないでしょ」


「……視覚的なことじゃなくて、内的なことですよね?」


「そう。心で見えているものの話」


 視覚で捉えたものを写実的に描き起こす画家も、もちろん少なくない。同じ色、同じ形を辿り、それを写真のように残す。無論それも幾多ある描き方のひとつだ。

 けれど、たとえ同じ対象を描いていても、まったく表現が異なる場合がある。水彩画や鉛筆画、という区分の問題ではなく、そもそも描かれているものが違う場合だ。


 それは決して、捏造や妄想という言葉で片付けられるものではない。

 本当にそう見えているのだ。心の目で写し取ったものを描いているだけの話。そこに差異が生まれるのは当然で、むしろだからこそ『画家』という。


「だから俺は、鉛筆画を描いてる。見えてるものを、ただ描いてるだけなんだ」


「っ……もしかして本当は、色彩画を描きたいんですか?」


「どうだろう。わからない。でも、見えているものは描きたいと思うよ」


 後半は少し意味深につぶやいてから、ユイ先輩はこちらを振り返った。

 いつの間にか深海魚エリアが終わり、次のエリアへ移っていた。わずかに明るさを取り戻した館内は、しっとりとした閑散さを孕んで、静かに私たちを包みこむ。


「まあこの水族館と一緒で、鑑賞側には正直こっちの心情なんて関係ないからさ。人の目に触れるコンクールとかに限っては、たんに学生の鉛筆画が珍しいっていうのもあるんだよ。技術的な面の評価はあるかもしれないけどね」


「そんなこと……っ、そんなことないです!」


 思わず私は声を張り上げていた。

 拒絶するようにユイ先輩の手を離して、胸の前でぎゅうっと強く握る。爪が手のひらを裂きそうなくらい食い込むけれど、痛みは感じない。

 痛いのは、心だ。

 痛覚が完全になくなりかけていることを忘れてしまいそうなくらい、痛い。


「色があろうがなかろうが、関係ありません。ユイ先輩の絵はそれ以上の……なんというか、上手く言えないけどっ、先輩にしか表せない世界があるんですよ」


 写真でもなく、自らの手で描き残すことにこだわるのは、その世界を自分しか描き出すことができないから。世界中、他の誰にも真似ができないものだからだ。


「……俺にしか、表せない?」


「そうです。先輩の世界は──あの、泡沫みたいな。この世のなによりも澄んでいて、まるで浄化されるような美しさを孕んでいるのに、なぜか消えてしまいそうで目が離せない。そんな世界なんです」


 初めてユイ先輩の絵を見たときに受けたあの衝撃は、忘れられない。

 この世のすべてを涙で飲み込んでしまいそうなくらい、それは悲しさで溢れていた。

 にもかかわらず、あんなにも淡く儚く美しく生きている色のない絵を、私は見たことがなかった。惹き込まれて、囚われて、叶いようのない夢を与えられた。


「贈り物でも呪いでも、色があってもなくても、ユイ先輩が見えているものなら、それがすべてなんです。先輩の絵ならなんでも好きな私の前で、そんなこと言わないでください。先輩の絵は、珍しいとか技術とかで片付けられるほど、安くない」


 ユイ先輩を初めて見たときも、同じ衝撃を受けたのだ。

 ああ、あの絵は、この人そのものなんだと。


「っ……」


 ユイ先輩がわかりやすく狼狽えた。夜色の瞳で私をじっと見つめたまま、しかし言葉が見つからないのか、口を開けては閉めを繰り返す。

 やがて喉の奥から絞り出すように零れ落ちたのは、また予想を反した言葉だった。


「本当、小鳥遊さんて……なんか真っ直ぐ、だよね」


「え?」


「それがすごく、眩しい。だから、いつも君の周りだけは──」


 先輩は途中で口を噤んだ。

 ゆらゆらと視線を彷徨わせたかと思えば、おずおずと私の手を取っておもむろに歩き出す。明らかに様子がおかしい。


「せ、先輩?」


「……あ、あまり遅くなってもいけないから。次、行こう」


 ──今、なんて言おうとしたんだろう。

 私の周りは、私は、ユイ先輩にどう見えているんだろう。

 忙しなく音を鳴らす心臓がやっぱり痛い。

 この痛みがなにから来る痛みなのか、私にはどうしても図りかねてしまう。

 けれど今は、不思議と追及したいとは思えなかった。




 しばらくは気まずい雰囲気が流れていたものの、そこはやはりユイ先輩。

 鑑賞コースもゴールに近づき、そろそろ最終エリアという頃には、もういつも通りに戻っていた。

 このあたりはおもに小さな海洋生物が集められているらしい。

 クマノミやエビ、タコなどの私でも知っているような生き物から、触ることも可能なネコザメまで、多種多様の生物が展示されていた。

 そのうちのひとつ、天井を突き抜けるように設置された円柱型の水槽の前で立ち止まっていた私は、隣のユイ先輩を見上げながら告げる。


「先輩はクラゲみたいですよね」


 クラゲ、海月。海の月。ユイ先輩そのものだ。


「……俺が?」


「はい。いつもゆらゆらふわふわしてて、どうも掴みきれないところとか」


 そうかな、と先輩が不思議そうに小首を傾げた。吸い込まれるようにクラゲが揺蕩う水槽を見つめる立ち姿は、なんともまた絵になる光景で。

 ついくすりと笑みを誘われながら、私はひっそりとこれを描こうと決めた。

 しばらくクラゲを見ていたかと思ったら、先輩はふいに顔を上げた。

 なにかを探すようにあたりをきょろきょろと見回して、ユイ先輩は「こっち」と私の手を引いて歩き始める。


「これ」


「……チンアナゴ? ですか?」


 また海洋生物のなかでもマイナーな生き物の前で立ち止まったユイ先輩は、ふたたびじっとチンアナゴを見つめる。絵描きの観察眼がフル稼働しているような目だ。

 そんなにこの子たちが気になるのか、と不思議に思っていると、ユイ先輩はふと満足そうに深くうなずいた。そして、ひとこと。


「君に似てる」


「え。こ、この子たちがですか」


「うん。ほら、ひょっこり出てくるところとか。そっくり」


 ええ、と私はなんとも複雑極まりない心境でチンアナゴを見つめた。

 くねくねと珍妙な動きをしながら、ときおり砂の底にもぐっては、気まぐれに顔を覗かせている。よくよく見たら可愛い……かもしれない。

 わからないけど、そう思うことにしておいた。


「……ユイ先輩、水族館よく来るんですか?」


 先ほどから思っていたことだった。館内はさして複雑な構造をしているわけではないものの、それにしたって先輩は迷うことなく歩いていく。

 勝手知ったる様子、というか、とても慣れているように見える。


「うん、まあ。たまに来るよ。行き詰まったときとか、気分転換したいときとか」


「せ、先輩でも行き詰まることが……!?」


「俺のことなんだと思ってるの。むしろ、行き詰まってばかりだよ。絵に関しても、他のことに関してもね。いつも溺れそうになってる」


 なんだか、意外だった。ユイ先輩は、どこまで沈んでも平気で息をしていそうなくらい絵を描くことに囚われている人だと思っていたから。

 どこに行ってもあのクラゲのように自由気まま、ゆらりゆらりと泳いでいそうだ。

 溺れるなんて印象とは程遠い。けれど、なぜか気持ちはわかるような気がした。


「これだって確信して描いている絵でも、途中で見えていたものの輪郭がぼやけたりね。そうすると、ああでもないこうでもない、って底のない沼に嵌っていく。そのまま溺れそうになって、絵自体を破り捨てることもしょっちゅうあるし」


「先輩が荒々しいところとか想像つかないんですけど……。へえ、見てみたいなあ」


「なんで」


「どんな先輩でも興味があるんですよ、私」


 ふふ、といたずらに笑って見せれば、先輩は面食らったように押し黙った。

 そしてクラゲやチンアナゴを見ていたときと同じ瞳で、私をじっと見つめてくる。

 さすがに自分が対象となれば『絵になる』なんて呑気に思っていられない。好きな人に見つめられて平然といられるほど、私はまだ大人ではないのだ。


「せ、先輩? 私の顔、なんかついてます?」


「いや……」


 言葉を濁らせながら憂いをまぶせた瞼を伏せて、ユイ先輩は息を吐いた。


「本当にね、いつも溺れそうになる。君と一緒にいると、調子が狂ってさ」


「えっ」


 もしやこれは全力で呆れられているのだろうか、と血の気が引きかける。

 しかし後に続いた言葉は、私の予想していたものとはまったく違っていた。


「興味があるのは、俺の方だ。小鳥遊さんのことならなんでも知りたい。君が見ている世界を見たい。そんなふうに思えば思うほど、溺れていくんだよ」


 ユイ先輩は私と繋いだ手をきゅっと少し強く握った。

 その手はかすかに震えを伴っていて、私は戸惑いを隠せないまま視線を落とす。私よりもずっと大きな手なのに、真冬の海に浸けた後のようにひどく冷え切っていた。


「せんぱ……」


「──俺は、小鳥遊さんのことが好きだから」


 私とユイ先輩を取りこんだ、すべての時が止まったような気がした。

 呼吸すら忘れて、ユイ先輩に射すくめられる。

 さきほどの胸の痛みがふたたびぶり返し、心臓なのか、喉なのかはわからないけれど、灰を詰め込まれたような苦しさを覚えた。

 どこか切なげな色を灯しながら揺れる瞳は、決して人形のものではない。


「……この好きは、君が俺に言う好きと、同じ?」


 まるで迷子の子どものようだった。自分でそれがなんなのかもはっきりしなくて、今も答えを探している。不安のなかで執着地点を見つけようと足掻いている。


「俺の好きは、君と一緒にいたいっていう好きだよ」


 好き。もう何度、先輩に伝えたかわからない言葉なのに。

 そのはずなのに自分が言われる側になってみればどうだろう。

 身体が、心が、焼けるように熱い。溶けてしまいそうなくらい、熱い。

 けれどその一方で、私の頭のなかは氷水を浴びたみたいに冷えきっていく。


「……どうして、そんなに泣きそうなの」


 ユイ先輩の表情が痛みを堪えるように歪んで、私の頬に手が添えられる。


「俺の気持ちは、迷惑?」


 そうじゃない。そうじゃない、と言いたい。

 私も好きだって、同じ意味の好きだって、そう伝えたい。

 けれど、だめだ。

 なにも伝えていないのに、私にユイ先輩の気持ちを受け取る資格はない。


「……ユイ先輩」


 私は頬に触れる先輩の手に自分の手を重ねた。締まりきった喉から無理やり声を押し出せば、それはまるで自分のものではないように掠れていた。


「大事な話があるんです」



 広海水族館を後にした私とユイ先輩は、敷地内の穏やかな散歩コースを歩く。


 海沿いの並木道。耳朶をくすぐるのは、子どものはしゃいだ声。木々の葉が擦れるさざめき。それから、さざ波が堤防に打ちつけられる音。


 そのすべてが混ざり合って、ひどく優しい音色を紡ぎ奏でていた。

 もう手は繋いでいない。私が切り出すのを待っているのか、数歩うしろから距離を取ってついてくるユイ先輩は、さきほどからずっと黙り込んでしまっている。


「海が綺麗ですね、先輩」


「……うん、そうだね」


「真夏の海って、どうしてこうきらきらしてるんでしょうね。冬も澄んでいて綺麗だけど、やっぱり真夏は違った輝きがあるというか」


「…………」


 靴底がじゃりっと地面を掠めて、背後でユイ先輩が立ち止まる気配がした。

 さすがにもう伸ばせないか、と息を吐いて、ゆっくりと振り返る。

 ユイ先輩はときおり吹きぬける夏の爽やかな風に銀色の髪を揺らしながら、私を見ていた。あまりにも思い詰めた表情で。


「そんな顔、しないでください。話ができません」


「え……ごめん。俺、変な顔してた?」


 哀愁漂う眼差しにこちらまで切なさを募らせながら、私はゆるく首を振る。


「……あのね、先輩。私、もうすぐ死ぬんです」


「…………っ」


「枯桜病って、知ってますか?」


 息を詰めたユイ先輩は、その長い睫毛を伏せながら、わずかに顎を引く。


「……病院で、少しだけ聞いて。調べた」


「あぁ、やっぱり聞いちゃったんですね」


「救急車で運ばれるときに弟くんが救命士に言ってたのと……病院ついてから処置されるまで飛び交ってたから。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」


「いえいえ。それは致し方ありません。むしろごめんなさいっていうか」


 けれど、ならばユイ先輩は。

 ──私が枯桜病であることを知った上で、さっきの告白をしてくれたのだろうか。


「だけど、君の口から聞くまではって思ってた。これまでずっと隠してきた理由もわからなかったし。そもそも、俺なんかが聞いていい話なのかもわからなくて」


 ふう、と重々しく一呼吸置いたユイ先輩は、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。


「たくさん考えたよ。俺の気持ちを伝えるべきなのか、伝えず隠しておくべきなのか」


 でも、とユイ先輩は私の目の前で立ち止まり、思いのほか強い瞳を向けてきた。


「伝えなかったらきっと後悔する、と思った」


「後悔、ですか?」


「そう。……俺は、これから先のことよりも今を大事にしたい」


 私とユイ先輩を包みこむように風が髪を攫っていく。

 唐突に、もう夏なのかと思った。あと半年もすれば、今年は終わってしまうのかと。


「半年ですよ」


「え?」


「私に残された時間。半年、あるかないかです」


 伊藤先生に、年は越せないかもしれないと言われた。

 そうノートに書いてあった。付箋とマーカー付きで。

 なんとなく記憶はあるものの、どうにも夢の出来事のような曖昧さで判然としないから、きっと過去の私が忘れないように付けたものなのだろう。

 現実はここにあるよ、と毎日忘れず振り返れるように。


「それでも今と同じことを言えますか、ユイ先輩」


 私はあえて突き放すように問いかけた。

 今日、私は、すべてを打ち明けるつもりで会いに来た。

 打ち明けてお別れをして、もう二度と先輩とは会わない覚悟でいた。

 だから、好きな人とのふたりきりの時間を、心の底から楽しんで過ごしたかった。

 私にとっては、もう二度と、一生訪れないであろう夢の時間を。

 だというのに、まさかユイ先輩も私と同じ気持ちを抱いていてくれるなんて。

 まして、そのことに先輩自身が気がついて、告白してくれるなんて。


 ──ああ、嬉しくない。


「別れは必然。はなから運命が定められたお付き合いになるんですよ? そんなのあまりに残酷な話じゃないですか。お互いに、つらいだけです」


 私が抱える運命は、現実は、変わらずそこにある。

 なのにユイ先輩は、なぜか私の言葉に迷いのひとつも見せなかった。


「それでも。君の命が残り半年だとしても、俺は俺の答えを覆さない」


「……先輩。その意味、ちゃんとわかって言ってますか」


「もちろん。あのね、小鳥遊さん。たとえ俺と君が恋愛関係にならなくても、この答えは変わらないから。俺は今までと変わらず君のそばにいるよ」


 あんなに『好き』の気持ちに対して消極的だったユイ先輩。

 にもかかわらず、そばにいることだけは異常にこだわっているようだった。執着に似た、並々ならぬ頑固さを感じる。

 その確固たる意思を前に、私は二の句を継げなくなってしまった。

 どうして、とそれ以上追及できなかったのは、さきほど先輩のお母さんの話を聞いてしまったからだ。だって先輩は、もう『死』がどんなものか知っている。

 知っているうえで──否、知ってしまっているからこそ、なのか。


「さっきの君の言葉を借りるけど、たとえどんな病気を患っていようが小鳥遊さんは小鳥遊さんでしょ。変わりようがなく。そして、君は今、生きてる。生きて、俺の前にいる。なのに、どうして離れなきゃいけないの」


「っ、でも、私は……」


 そう遠くない未来で、この世界からいなくなってしまうのに。


「──……臆病だね、君は」


 仕方なさそうな、それでいて困ったような声音だった。

 けれどユイ先輩は、まるで駄々をこねる子どもを宥めるように私を優しく撫でて、ふわりと花笑む。皮肉にも、これまで見せた表情でいちばん穏やかな笑顔で。


「どうしてそんなに怖がるの?」


「い、いなくなるからに決まってるじゃないですか……っ」


「そうだね。でも、今じゃない」


「せ、先輩のそばにいれるのは、本当にあと少しだけなんですよ。そんな未来が決まってるのに……傷つけるってわかってるのに、そばになんかいられません!!」


 好きならば、なおのこと。

 一緒にいればいるほど、その時間が長引けば長引くほど、残されるユイ先輩の傷はより深いものになってしまう。

 もちろん私だってつらいけれど、これから先、何年何十年の時をこの世界で生きていかなければならないのは先輩の方なのだ。

 だから、先輩とはお別れしようと決めた。先輩がくれた思い出に浸りながら、ゆっくりと死を待つつもりでいた。それだけで充分、私は幸せに死ぬことができるから。

 ……できる、はずだったから。


「なるほど。俺を傷つけないために、言わなかったんだ」


「っ……それもあるけど、私が病気だって知ったら、優しい先輩は絶対に気にしてくれるでしょう? そういうのはいっさいなしでユイ先輩と話していたかったんです」


 私は、先輩に……ユイ先輩に会うために、月ヶ丘高校に入学した。

 もう自分が長くないとわかったうえで──否、だからこそ、死ぬ前に好きになってしまった人へ少しでも近づきたくて、わがままを言った。

 ただ、会いたかった。会って、彼の世界に触れたかった。

 でも、それだけ。

 付き合いたいとか、卒業したいとか、そんな大それた望みは抱いていない。

 ただユイ先輩の隣で、先輩と一緒に絵を描けるのなら、それでよかったのだ。


「小鳥遊さん。いや、──……ねえ、鈴」


 ドクン、と心臓が強く胸を打つ。

 初めて呼ばれた名前。

 ユイ先輩が私の名前を覚えていたことに驚いて、先輩のその口が私の名前を紡いだことに驚いて、ずるい、と喉の奥から震え切った声が漏れる。


「それでも俺は、鈴が好きだよ」


「ユイ、せんぱ……」


「知ってしまった以上は、今まで通りとはいかないけど。俺はきっと自然と鈴を甘やかしちゃうし。そばにいるからには、より大事にしたいと思うから」


 でもね、と。

 いつもよりワントーン低い声を落としたユイ先輩は、私をそっと抱き寄せた。


「……怖がらないでいい。傷つけるとか、そんなことを君が考える必要ないから。好きな子と一緒にいられるなら、未来のことなんて今はどうでもいいんだよ」


「な、んで……そんな……」


 残酷だと言ったのに、聞いていなかったのか。

 別れる未来が決まっている。傷つく運命が定められている。

 そんな双方ともに逃げ場のない状態で、それでもなお一緒にいる道を選ぶ?

 そんな綺麗事、私は望んでいない。

 残していく側も残される側も、きっと、いちばんつらく痛い思いをする道だ。

 だけど、もしかしたら。もしかしたら『幸せ』はあるのかもしれない。はかりしれない痛みを引き換えにして、かけがえのない思い出は作れるのかもしれない。

 贈り物か、呪いか。

 さきほどのユイ先輩の言葉が、不意に頭をよぎる。


「そこまでして私と一緒にいたいなんて、先輩やっぱり変ですよ……っ」


「知ってる。でも、いいんだよ。俺の世界を変えてくれた鈴に、俺は自分のでき得る限りのことをしてあげたいだけだから。それが、俺の望みで願いだから」


 ユイ先輩はゆっくりと体を引いて私を見下ろし、切なげな目元を和らげる。

 そして、こてん、と首を傾げた。


「鈴。──鈴は、俺が好き?」


「……好き、です。……これまでもずっと、これからもずっと、好きです」


「そっか。なら、今から鈴は俺の彼女ね」


 突拍子もなく宣言された言葉に、私は「えっ!?」と大いに狼狽える。

 かと思ったら、次の瞬間、先輩は私の額に掠めるような口付けを落としてきた。


「ひ、えっ……へぁっ……!?」


「うん。俺が切った前髪、いいデザインだよね。キスしやすくて」


「そっ、ういう目的だったんですか!?」


 いや? と、ユイ先輩はくすりといたずらに笑った。

 さらさらと凪ぐ白銀の下。いつになく強い意思の籠った先輩の瞳が私をなぞる。


「大丈夫。一緒にいよう、鈴」


「っ……先輩」


 ユイ先輩の言葉はやけに力強く、ともすればらしくないほど頼りがいがあるものなのに、どこか危うげに感じられた。

 目を離したら消えてしまいそうな儚さを孕んでいるのは相変わらずだけれど、そのさきには言いようのない仄暗さを纏っているようにも見える。

 怖い、と思うのはどうしてか。


 ──……ああそうか、と私はようやく気づく。

 私がユイ先輩に病気のことを打ち明けられなかったのは、他でもなく、そこに一抹の恐怖を覚えていたからだと。

 いずれやってくるそのとき、先輩が私と一緒に消えてしまいそうで。

 命の灯を消したクラゲのように溶けて消えてしまいそうで。

 私はそんな先輩を道連れにしてしまいそうで、とても恐ろしかったのだ。



「……あ、愁」


 最寄り駅まで帰り着くと、そこに電信柱に寄りかかる弟を見つけた。事前に帰ることを連絡していたとはいえ、なんと姉思いな弟だろうか。

 まだ夕方とも取れない時間帯だ。駅周辺も朝より人の数が飽和しており、当然、愁もなかなかこちらに気づく様子はない。

 声をかければいいのだろうけど、正直、愁とは顔を合わせづらかった。

 出かけにあんなことを宣言してしまったのに、まさかユイ先輩と恋人になって帰ってくるなんて自分でも驚くほかない。想定外も甚だしい。


「行くよ、鈴」


 言い訳を必死に思案していると、見かねたらしいユイ先輩に手を引かれた。

 ユイ先輩の声に気づき、弾かれるように顔を上げた愁。私の顔を見た瞬間、その顔に心底ほっとしたような表情が浮かんだ。ツクリ、と胸の芯が軋む。


「おかえり、姉ちゃん」


 ぽつぽつといじっていたスマホを仕舞いがてら、愁が駆けてくる。私の頭の先から足の先までじっくり観察するように視線を走らされて、さすがに面食らった。


「体調、大丈夫?」


「う、うん。なんともないよ。途中で体調悪くなることもなかったし」


「そ。ならよかった」


 素っ気ない返事にしては、あからさまな安堵を滲ませた声音。

 この様子では、今日一日、本当に気を揉ませてしまっていたのだろう。

 愁は昔から、心配性と過保護の度合いが強い傾向にある。ややもすれば両親より私の世話を焼きたがる節があり、自身の貴重な時間すら私に回してしまうことも多い。

 まだ中学生。遊びたい盛りだろうに、愁はいつだって姉を優先するのだ。


「弟くん」


 私のうしろからひょこりと顔を出したユイ先輩が、持っていた紙袋を愁へ手渡した。


「え、なにこれ……って重!」


「私と先輩からのお土産だよ。選んでたら、楽しくていっぱい買っちゃって」


「それにしても買いすぎだろ。なにこのサメ」


「あ、可愛いでしょ、コバンザメ。ジンベイザメもいたんだけど、こっちのが愁っぽくて。ちなみにキーホルダーバージョンも買ったよ」


「おれのどこにこれの要素を見つけたんだよ。……いやまぁ、嬉しいけどさ」


 ありがと、と仏頂面で言いつつも、愁はしげしげとコバンザメの顔を眺めてなんとも微妙な反応をする。

 私と愁の体格差を考えたらジンベイザメなのだけれど、私のなかの愁は、いつまでも可愛いコバンザメなのだ。そうであってほしい、という願望ありきで。

 言ったら怒りそうだから、絶対に言わないけど。


「……春永先輩も。その、ありがとう、ございます」


「いや、俺も楽しかったし。今日は疲れただろうから、ゆっくり休ませてあげて」


「はあ。言われなくてもそうしますけど」


 なにかを感じ取ったのか、訝しげにユイ先輩と私を交互に見る愁。その察しのよさに冷や汗をかきながら、私は慌てて「じゃあ!」と話に割って入った。


「そろそろ私たち行きますね。先輩、今日は本当にありがとうございました!」


「こちらこそ。また連絡するから」


「は、はい……!」


 じゃあね、と私の頭をひと撫でしてから、ユイ先輩は私たちの帰り道とは反対方向へと歩いていく。

 ……今日一日で、何度撫でられただろうか。

 もしかして癖なのか。あるいは、撫でるのが好きな人なのか。

 いつもはなにかと世話を焼かれている印象があるのに、ああ見えて意外と庇護欲があったりするのかもしれない。それは些か、気恥ずかしいのだけれど。

 呆然と立ち尽くしながらユイ先輩の背中を見送って、私は両手で顔を覆った。

 ああ、まずい。これはよろしくない傾向だ。

 先輩がとてつもなく甘やかしモードに突入してしまったような気がする。


「……愁」


「…………」


「ごめん。終わりにできなかった……」


「だろうね!」


 はぁあ、と聞いたこともない全力のため息と共に、愁が頭をがしがしと掻き乱す。


「……しかも付き合うことになっちゃった……」


「朝の言葉はなんだったんだよ!? 一日気にしてたおれの気苦労返せ、バカ!」


「ほんっと、うん、なんかよくわかんないけどごめん……」


 だって、まさか先輩があんな方向で攻めてくるとは思わなかったのだ。

 病気のことを知ってまで私のことを好きでいてくれて、あろうことか死ぬ未来がわかっていても共に居たいと──そんな危ういことを言われてしまったら、突き返すこともできなかった。当然だろう。私はユイ先輩が好きなのだから。

 私がずるずるとその場にしゃがみこむと、愁が一瞬たじろいだ気配がした。


「……ちょ、大丈夫? また具合悪くなったとか言わないよね?」


「うん、そうじゃなくて。なんかいろいろ、いっぱいいっぱいで……」


 はあ、とふたたび頭上で愁の嘆息が落ちた。

 そりゃそうだ。愁が安心できるようにユイ先輩から離れようと決意したはずが、むしろ状況をややこしくしてしまっている。

 しかも、わりと、取り返しのつかない方向へ。

 呆れられるか、はたまた怒られるか。なんにせよ降り注ぐだろう罵倒を覚悟していると、愁はなぜか私の前に視線を合わせるようにしゃがみ込んできた。


「……あのさ。おれはべつに、姉ちゃんから自由を奪おうとは思ってないんだよ」


「っ、え?」


「高校に通うのも、入院しないのも、たしかに反対したけど。でも、それで姉ちゃんが幸せになれるならそっちの方がいいのかなって……最近は思ってる」


 言いにくそうに言葉を濁らせる愁は、けれどもやっぱりつらそうで、まだどこか迷っているようにも見えた。

 言葉にして告げることで、自らを説得しているような響きすら孕んでいる。


「正直、正解がわからない。おれも、きっと母さんや父さんも、姉ちゃんがやりたいことはできる限りやらせてやりたいって思ってるんだ。でも、それと同じくらい心配で、少しでも長生きできるなら治療に専念してほしいとも思ってる」


「っ、うん。わかってるよ」


「けどさ。それで姉ちゃんから笑顔が消えるのは、また本末転倒なんだよ」


 自嘲に似た笑みを滲ませながら、私の視界の端で拳を握った。


「……私から、笑顔が?」


「うん。だって姉ちゃん、高校入ってからの二年がいちばんいい顔してんだもん。そんな姉ちゃん見てたらさ、なにがどう正しいのか、わからなくなるっていうか」


 ぐっと前髪をかきあげながら、愁はおもむろに立ち上がる。


「正確には、あの先輩と一緒にいるようになってから、かな。毎日楽しそうで、めちゃくちゃ幸せそうで……そんな姉ちゃん見てると、おれは弟のくせになにもできてないなって悔しくなってさ。それで先輩に当たった。ごめん」


「な、なにもできてないなんて、そんなこと……っ」


「ま、そりゃ、最大限サポートはしてるつもりだけど。そうじゃなくて、なんつーのかな。姉ちゃんを本当の意味で幸せにできんのは、結局のところ家族じゃないんだって実感したっていうか」


 ──私を、幸せにする。

 幸せ、という言葉に直結して真っ先に頭に浮かぶのは、ユイ先輩だ。

 つまり、そういうことか。

 私が心の底から幸せだと感じて、心の底から笑顔になれるのはユイ先輩がいるからだと、自他共に認めるほど赤裸々になってしまったのか。


「家族には、またべつの役割があんのかもな。姉ちゃんが安心して帰って来れる場所として、姉ちゃんの幸せを見守る役割みたいなのがさ」


「っ……愁」


「だから、いいよ。おれのことは気にしなくて。たとえどう転がったとしても、姉ちゃんが幸せになれるなら、それが正解なんだ。あの先輩も、姉ちゃんの病気のこと知ったうえで姉ちゃんと付き合うって言ったんだろ?」


 私は一瞬の間の後、こくりと顎を引いた。

 そうだ。先輩はすべてを知ったうえで、私と一緒に出かけてくれた。

 この間のように倒れてしまう可能性もあったし、ふたりきりで出かけるなんてきっと怖かったはずなのに、ちゃんと向き合ってくれた。きっとそこに嘘はない。


「なら、それなりの覚悟があるってことじゃないの。知らんけど。でもま、なんにせよそれを受け取っちまった姉ちゃんも、相応の覚悟を持つ必要があるんじゃない」


「う、ん……」


「まあもーすぐ入院だけど」


 ほら立って、と手を差し出された。

 ユイ先輩の繊細な白魚のような指先とは違う。幼かった頃の小さく柔い餅のような手でもなく、角ばっていて無骨な、大人になり始めた男の子の手。

 ──本当に、いつの間にこんなにも、大きくなってしまったのだろうか。

 私はおずおずとそれを掴んで立ち上がりながら、寂しい気持ちを押し隠す。


「先輩ね、お見舞い来るって言ってたよ」


「へえ。最悪」


「あ、そういうところは変わんないんだ」


 帰り際。言い忘れていた入院のことをユイ先輩に伝えたら、どうやらそのことすらも知っていたらしく「お見舞い行くから」と真顔で宣言されてしまった。

 正直なところ、入院中はあまり会いたくない。

 でも、いつ退院できるかわからない状態では断ることもできなかった。

 付き合った矢先に会うことすらも禁じてしまったら、さすがに報われない。

 いつもは病室のベッドでだらけきっているが、今回はなるべく身綺麗にしておく必要がありそうだ。そんなことを、明後日の方向を見つめながら、ぼうっと考える。


「まあ、入院まではのんびりするかなあ。ってことで帰ろうか、愁」


「……帰ったら、とりあえず母さんの手伝いさせられそうだけど。今日は姉ちゃんの好きなじゃがいものポタージュ作るって張り切ってたから」


「えっ、ほんと? 嬉しい!」


 食せるものが限られている今、とりわけスープ系はご褒美のようなもの。

 味はもう感じられない。嗅覚も、少しずつ鈍ってきている気がする。

 それでもお母さんのじゃがいものポタージュは、胸が温かくなるから好きだ。

 泣きそうになるほど愛情がたんまりと籠っているから、好きだ。


「ねえ、愁」


「なに?」


「いつも、ありがとうね」


 一拍遅れて、愁が振り返ることなく「べつに」とつぶやいた。

 その背中が震えているように見えたのは、きっと気のせいだと思うことにした。


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