第三章 「いいよ、言わなくて」
目を覚ましたとき、真っ先に視界に飛び込んできたのは、白に染まった天井。
既視感と違和感を同時に覚えたのは、そこが病院ではなかったからだ。
知っている消毒液の香りよりも薄い。天井以外に目に映るものも、どこかから聞こえてくる物音も、なにもかも私の知っているものとはズレていた。
自身と隔絶されかけた意識だけ、まだ水のなかにどっぷりと沈んでいるかのようで。
「……私、なにしてたんだっけ……」
ぼんやりとつぶやいた直後、「姉ちゃん」と聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。
あれ、と目線だけであたりを見回して、ようやく感覚がはっきりしてくる。
「愁……?」
まくられたカーテンの間からひょこりと出ていたのは、よく知る弟の顔だった。
「目、覚めたんだ。おはよう」
「お、おはよ、う? 今って、朝なの?」
「いや、夕方だけど」
手伝われながら上体を起こして、ようやくここが保健室だと思い至る。
けれど、なぜここにいるのだろう。
ああ──眠る前の記憶が、ひどく曖昧だ。
まるで深い霧に包まれているように脳内が霞みがかって、上手く思い出せない。
「愁、私のノート……」
「はい。これね」
そう言いだすことがわかっていたのか、すぐさま一冊のノートが差し出される。
ほっとしながら受け取るけれど、次いだ愁の言葉に息が詰まった。
「でもさ。たぶん姉ちゃん、まだ今日のこと記録してないと思うよ。まず体育祭だったってこと、ちゃんと覚えてる?」
「……え?」
体育祭。頭のなかで噛みしめるように反芻して、より困惑する。
「今日は月ヶ丘高校の体育祭で、姉ちゃんは救護室があるテントで見学してた。だけど、午後になって体調崩したみたいでさ。誰だか知らないけど、それに気づいた親切な人が保健室に連れてきてくれたんだって」
「そう、なの?」
「らしいよ、先生から聞いた話だけど」
淡々と説明する愁は、ポスッとベッドの端に腰掛けて肩をすくめる。
「おれは母さんから連絡受けて、迎えに来た」
「わざわざ? ごめん、手間かけさせたね」
「今さらでしょ、そんなん。学校終わってから来たから遅くなったし。ああ、今日は母さん夜勤だからね。迎えに行けなくてごめんって謝ってたよ」
黒い学ランを身に着けている弟の愁は、現在中学二年生だ。私の三つ下。月ヶ丘高校から歩いて十分くらいのところにある、東雲中学校に通っている。
「んま、少しずつ思い出せば大丈夫でしょ」
中学生とは思えない落ち着きと、大人びた雰囲気。
共働きの両親に代わり、いつもこうして私を支えてくれるできた子だ。
けれど、それはきっと、私が病気になったから。
無理にでも大人にならなければならない環境を作ってしまったから、愁はしっかり者に成長するしかなかったのだと思う。
「……うん、ありがと。だいぶ思い出した」
──病気の影響で、私はたまに記憶が飛ぶ。
とくに眠ったあとが顕著だ。
人は眠ると、脳に蓄積された情報が整理されるという。
私の場合はそれが上手く定着しないのか、前後の記憶の曖昧さに加え、細かい内容を思い出せなくなってしまう。
なんとなく全貌は覚えていても、記憶に留めておく必要がない些細な出来事はなかなか覚えていられない。
だからこそ、私はいつも寝る前に、その日の出来事をこと細やかに日記に記すようにしていた。思い出せる限り、会話の一言一句まで。
それはもう、記憶が飛ぶようになった三年前からの日課だった。
こうしておけば仮に忘れてしまっても思い出せるし、周囲に余計な気を遣わせずに済む。持ち歩いてつねに見返すことで、私の記憶喪失を隠すこともできる。
「ごめんね、愁。また心配かけたね」
「べつに。……病院は、行かなくていいの?」
「うん。たぶん、そこまでじゃない。ちょっと張り切って応援しすぎちゃったかも」
誰がどの競技に出ていたのか、上手く思い出せない。お昼休みに屋上庭園でみんなでご飯を食べたことは覚えているけれど、そのとき私はなにを話したのだろうか。
……ユイ先輩は、どんな表情をしていたのかな。
「やっちゃったなあ。こうならないよう、細心の注意を払ってたのに」
そこまで大事になっている気配はないし、おそらくまだ意識のある状態で保健室までやってきたのだろう。いまいち覚えていないけれど、きっとそうだと信じたい。
「……?」
ふと、ノートの上部から顔を覗かせている付箋が目に留まった。自分がつけたものかも定かではないものの、引き寄せられるようにそのページを開いてみる。
日付は六月二十八日だ。上から順に一日の出来事を追っていく。とくに代わり映えのしない一日だと思った矢先、中盤辺りで、ある部分にマーカーが引かれていた。
「……徒競走」
「なに、なんか見つけた?」
愁が身を乗り出して覗き込んでくる。
「先輩、徒競走に出てたんだって。そういえば私、すごく楽しみにしてた気がする」
「ああうん。言ってたね。今日の朝も」
「なんで忘れてたのかなあ。きっと見れてないよね」
不意に、沙那先輩の姿が頭によぎった。そういえば、眠る前に沙那先輩と話したような気がする。ということは、沙那先輩がここへ連れてきてくれたのか。
ひとつ思い出すと、雲隠れしていた記憶が徐々に紐解かれていく。
よかった。今回は完全に忘れてしまったわけではなさそうだ。
それでもたぶん、徒競走は見れていないけど。
だって、もしユイ先輩の競技を見ていたら、きっと忘れないから。
「愁、保健室に来たとき、誰かと会った?」
「いや、会ってない。保健室の先生には話を聞いてきたけど、まだ体育祭の後片付け中だから誰もいないよ」
「そっか」
仕方ない、と私は息をつく。
──自分のなかでなにかがはっきりと変わっている。
それを自覚できるようになったのは、一年ほど前からだ。記憶というわかりやすいものではなく、単純に日常生活において『あれ?』と思うことが増えた。
夜はしっかり寝ているのに、授業中信じられないくらいに眠いとか。
一階ぶん階段を上っただけで、全速力で走った後のような息切れを覚えたりとか。
とりわけ、食生活は顕著に変化していた。視覚や聴覚には今のところ大きな支障は現れていないものの、味覚はほとんど失われてしまっている。
最近は胃の消化機能の衰えも激しいらしく、油ものなどの負担のかかるものは食べられなくなった。消化しきれなくて、具合が悪くなってしまうのだ。
だから基本的には、ゼリーやスープなどの吸収しやすく食べやすいものが主食で、香りだけで食事を楽しむようにしている。
そんな、ちょっとしたことの積み重ね。
それが、だんだん、本当に少しずつ重くなっていく。
蝕まれていく身体は、まるで水面に垂らした墨が水と混ざり合って広がる様に似ていた。やがてはすべて、黒一色に染まるのかもしれない。
それはきっと、ユイ先輩が描くモノクロの世界よりも、ずっとずっと深い黒。
光のない、真っ暗な闇の世界──。
「姉ちゃん?」
「え、あ、なに?」
「大丈夫? やっぱり病院行った方がいいんじゃ……」
愁の心配と不安が綯い交ぜになった表情にハッとする。
なるべく前向きに、ポジティブにいようと心がけているけれど、たまにどうしても囚われてしまいそうになるのだ。己が抱える運命の終着点を。
「だいじょーぶ! 元気元気」
深海にずぶずぶと沈みかけた思考を勢いよく引き戻して、私は笑みを取り繕う。
「……カラ元気っていうんじゃないの? それ」
「うわあ。なんか愁、ユイ先輩に似てきたね。もともと似てるとこあるけど」
「は?」
虚を衝かれたように、愁が男子にしては丸みを帯びた目をひん剥いた。
「やめてよ。おれ、その先輩ってやつ嫌いなんだから」
「会ったことないでしょ、愁」
「ないけど嫌い。姉ちゃんが先輩先輩ってうるさいから」
ふん、と不機嫌に顔を背けて愁が立ち上がったそのとき、扉が開く音がした。
先生が帰ってきたのかな、と愁と目配せしあう。しかし、こちらへ向かってくる足音に聞き覚えがあった私は、思わず「えっ」と戸惑いの声をあげた。
「……小鳥遊さん、起きてる?」
「ユイ、先輩?」
やっぱりそうだ。カーテンの向こうでユイ先輩がホッと息を吐いた気配がした。
「入ってもいい?」
「も、もちろんです」
愁があからさまに嫌そうな顔をしたけれど、まさか断るわけにもいかない。
ゆっくりとカーテンを引き開けた先輩は、私を見てわかりやすく目元を和らげた。
かと思ったら、隣にいる愁へまじまじと視線を移し、
「……中、学生?」
ユイ先輩にしては非常に珍しく、動転した表情で尋ねる。
「っ、中学生で悪かったな!」
「あっこら! 出会い頭に噛みつかないの、愁!」
「……愁?」
私と愁を交互に見比べて、先輩はさらに混乱したような顔をする。
無理もない。高校に中学生がいるだけでも目立つのに、いきなりこんな嫌悪感まるだしな態度を取られたら、誰だって面食らう。
「あの、すみません先輩。この子、私の弟なんです」
「おとうと」
「はい。三つ下の中学二年生で……。今日は私のことを迎えに来てくれたんですよ」
へえ、そう、弟……とぼそりとつぶやき、ユイ先輩は愁を頭の先から足の先まで食い入るように見た。
まるで珍妙な生き物でも見つけたような反応に、私の方が困ってしまう。
というか、ユイ先輩がこんなに他人を意識するのを初めて見たかもしれない。
それから安堵したように胸を撫でおろして「なるほど」とうなずいた。
今の視線でいったいなにに納得したのか気になったが、次の瞬間にはもうユイ先輩の興味はこちらに移っていた。
「体調、どう?」
「あ、え、大丈夫です! なんかぐっすり寝てたみたいで」
「そっか。ならよかった」
先輩がいつになくわかりやすく微笑んだのを見て、私はつい感動を覚える。
「せ、先輩が成長してる……」
そんな私を見て、愁が早くもしびれを切らしたように渋面を向けてきた。
「もういいから帰るよ、姉ちゃん」
「あ、うん。そうだね」
しかしベッドから降りようとすると、なぜかがっくりと体から力が抜けた。
あやうく顔面から倒れこみそうになったところを、過去一で素早い動きをしたユイ先輩が受け止めてくれる。ひゅっ、と息が詰まり、私は思わず先輩の腕に縋った。
「あっぶな……」
「っ、姉ちゃん!」
そのままぺたりと地面に座り込んだ私の隣に、愁が慌ててしゃがみこんだ。その顔はいつになく焦燥感が滲み、その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
一方のユイ先輩も、私の肩を支えながら「小鳥遊さん?」と床に膝をつく。
「……どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「い、いえ……なんか、力が、入らなくて」
あはは、と曖昧に笑ってみる。
けれど、自分が笑えていないことなんて明白だった。さすがの私も、突然のことに少なからず動揺してしまっているらしい。
ぎゅっと眉根を寄せた愁は、なにを思ったか私に向かって背中を向けてくる。
「乗って」
「え」
「背負って帰るから」
愁は中二にしてすでに私より背が高い。
とはいえ、さすがにここから家まではきついだろう。歩いて通うことが可能な距離ではあるが、それでも軽く二十分ほどは歩くことになる。
「……弟くん。それより、タクシーの方がいいよ」
そう告げるや否や、ユイ先輩は私をひょいっと抱き上げた。突然ふわりと体が宙に浮いて驚いている間に、ふたたびベッドの上におろされる。
内心、大パニックだ。
ユイ先輩に私を持ちあげられるほどの筋力があるなんて聞いていない。
「あ、あの、えっ、えっ?」
おろおろとユイ先輩を見上げて、さらに困惑する。
私を見下ろす先輩は、見たこともないくらい真剣な表情をしていた。
「具合が悪いなら、早く家に着いた方がいいし。今呼んでくるから、待ってて」
「は、え、でも」
「待ってて。弟くんは小鳥遊さんについててあげてね」
ユイ先輩は有無も言わさず踵を返した。とんでもなく機敏な動きだ。
普段ののんびりとした先輩は見る影もなく、私も愁も呆気に取られるしかない。
やがて電話を終えて戻ってきたユイ先輩は、かたわらに置いてあった私の鞄を持つと「荷物これだけ?」と訊いてくる。
いつにも増して無表情なのに、不思議と怖いとは感じない。
「あ、はい。でも、教室に画材が……」
「その調子じゃ絵も描けない、というか、描かないで休まないとだめでしょ。すぐタクシー来るはずだから、とりあえず校門まで行くよ」
心なしか早い口調で言い切り、ちらりと棒立ちしている愁を見る。
「……小鳥遊さん、弟くんが背負っていく? 俺でもいいけど」
「っ、おれが背負う!」
「わかった。じゃあ、俺は荷物持つから。弟くんのも貸して」
ユイ先輩は素早く二人分の荷物を取り上げる。
指示されるままわたわたと私を背負った愁は、しかしすぐさま我に返ったように動きを止め、憎々し気に先輩を見上げた。
「あんた、なんで……」
「ん?」
「なんでそんなに、姉ちゃんに構うんだよ」
ユイ先輩は突然の敵意にも動じず、わずかに眉をひそめただけだった。
「……理由が必要?」
「っ、なんも知らないくせに……!」
「こら、愁! いい加減にしなさい!」
私は思わず声を荒らげる。
耳元で叫んだせいか、愁はビクッと肩を揺らして黙り込んだ。やりきれないように唇を引き結ぶ様子は胸が痛むけれど、今のはあきらかに愁が悪い。
「謝って、愁。そういうのはよくないよ」
「……嫌だ。絶対、謝んない」
「愁……!」
ユイ先輩は険悪な雰囲気に包まれる私と愁を見比べて、すっと目を細めた。
「……君は、俺のことが嫌い、なのかな」
「っ、嫌いだよ! 嫌いに決まってるだろ! おまえが姉ちゃんを取ったんだから!」
「愁っ!」
ふたたび声を荒らげたそのとき。
ドクンッ、と心臓がひどく歪で嫌な音を立てて、強く胸を突いた。
形容しがたい衝撃が走り、全身が大きく揺らいだ。
中心から外側へ、激しく波渡るように感覚が鈍っていく。同時に襲ってきたのは、各所の痺れ。まずい、と思う間もなく、愁の背中から滑り落ちそうになる。
「あ、ぐ……っ」
そんな私をまたもや受け止めてくれたのは、ユイ先輩だった。
「姉ちゃん!?」
「っ、小鳥遊さん?」
息が堰き止められたように詰まり、私は胸を押さえながら喘ぐしかできない。
視界が霞む。意識が混濁して、自分がどこを向いているのかすらわからなくなる。
なにこれ。知らない。こんなの、なったことない。
「ね、姉ちゃ……っ! あ、あんた! 救急車呼んで、早く!」
「救急、車……わかった。小鳥遊さん頑張って、今呼ぶから」
私をふたたびベッドに寝かせた愁に、手を握られたのがわかった。
薄れゆく意識のなか、大粒の涙を溜めて私の名前を呼ぶ、愁の姿が見えた。
その先には、ユイ先輩がいる。
銀が、脳裏に焼きついた。
それはまるで、水のなかから遥か遠くの月を見上げているみたいで。
「──……小鳥遊さん! しっかり……鈴っ……」
幻聴だろうか。ユイ先輩に、名前を呼ばれたような気がした。
「姉ちゃん、しっかりして。死なないでよ、ねえ、姉ちゃん……!」
声が次第に遠のいていく。
ごめんね、とつぶやけたのかどうかも、わからない。
──死にたいなんて、思っていない。
一度も思ったことはない。
私は、死にたくない。
本当はもっと、もっと、もっと、生きていたい。
もうずっと、生きたいと願って、死を受け入れながら、生きてきた。
けれど、こうして周りの人の心に傷をつけていくのなら、せめてひと思いに死んでしまった方がいいのではないかと、そんな馬鹿げたことを考えたりもする。
枝を離れた花弁の散り行く先など──。
枯れた桜の末路など、きっと、はなから決まっているというのに。
◇
ピコン、ピコン。
規則正しく鳴り続ける音に引き寄せられて目が覚めた。深い海の底から浮き上がった意識は、しばらく水面をゆらゆらと揺蕩ってから、ようやく光を浴びる。
「……小鳥遊さん?」
なによりも先に視界に映りこんだのは、銀。
ゆっくりと睫毛を伏せて、ふたたび開けてみる。そうして幻覚でないことを確認した私は、ひどく不思議な気持ちで、まだ痺れの後味を引きずる唇を動かす。
「……せん、ぱい?」
「うん。目、覚めたんだ。よかった」
「ここは……」
「病院だよ。君、学校で倒れて救急車で運ばれたの。そこまで時間は経ってないけど」
病院。倒れた。救急車。
ひとつひとつの単語をたっぷりと咀嚼し、やがて私は顔を青褪めさせた。なによりもここに、病院にユイ先輩がいるという事実が、私を動揺させる。
「あ、の……先輩……」
「さっきご両親が来られてね。今、先生と話してるよ。弟くんは……その、結構取り乱してて。でも、たぶん廊下にいるから、呼んでこようか」
「っ、待って、ください」
どうしてなにも聞かないのか。もう知ってしまったのか。尋ねたいことはたくさんあるのに、上手く声が出てこない。言葉もなにもかも、不安に押し流されそうだ。
すると先輩は、そんな私を落ち着かせるように頭をそっと撫でてくる。
「いいよ、言わなくて」
「っ、え……?」
「君が言いたくないなら、聞かない。君が俺に話したいって思ったときでいい」
「なん、で……」
「ああ、勘違いしないで。どうでもいいからじゃない。君が大切だから、泣いてほしくないから、そう言ってるだけ」
ユイ先輩が慈しむような優しさを孕んで、私の目尻を指先で拭う。
そこでやっと、自分が泣いているのだと気づいた。
「でも、これだけは言っておく。俺はね、小鳥遊さん。今こうして、君のそばにいれてよかったって、心の底から思ってるよ」
ユイ先輩の瞳の色は、相変わらず静かな夜の空のようで。けれど、そのなかには言い表しようのない切なさが滲んでおり、私は返す言葉を失ってしまう。
ユイ先輩の方が、泣きそうだ。
胸の奥深くを引っかかれたような痛みを覚えながら、くしゃりと顔を歪める。
こんな顔をさせたくないから、今まで黙っていたのに。
ああもう、本当に、私はいったい、なにをやっているんだろう。
「じゃあ、弟くん呼んでくるから」
「っ……は、い」
最後に小さく微笑んだユイ先輩は、そのまま静かに病室を出ていった。
ひとり残された私は、腕から伸びる点滴の管を見る。見慣れた光景のはずなのに、今すぐ引き抜きたい衝動に襲われた。嫌だ。こんなものがあるから、私は──。
「……っ」
こんなはずじゃなかった、なんて後悔したところで無意味だとわかっている。わかってはいるけれど、まだ、先輩の前ではただただ弱い私の姿を見せたくはなかった。
──私に残された時間は、もう、そう長くはない。
自分でそれが嫌というほど感じられるからこそ、どうしようもなく胸が痛かった。
泣きたくもないのに、涙が溢れ出してくる。
ああ、嫌だ。私は、死にたくない。
死にたくないのに。
「……っ、姉ちゃん!」
病室に飛び込んできた愁は、泣いている私を見て悲鳴じみた声を上げた。派手に足を縺れさせて、あやうく転びかけながら、ベッドに縋りついてくる。
「どうしたの、まだ、どっか痛いんじゃ……っ」
「ちが、ちがうの。ごめんね、愁」
弟は、私よりもよっぽど泣き腫らした目をしていた。
不意に小さい頃のことを思いだした。
いつ、どんなときも、私の後を追いかけてきていた愁。自分が一緒に行けないとわかると、こんなふうに目と鼻が真っ赤になるまで泣いていた。
いつまでも小さいままだと思っていた弟が、あっという間に私を追い越して、知らぬ間に大人になってゆく。それをずっと、寂しく感じていた。
でも、やっぱり、愁は愁だ。
どれだけ身体が大人になっても、たったひとりの弟であることに変わりはない。
「痛くない。平気だよ、愁」
そもそも私は、もうほぼ『痛覚』がなくなっている。どれだけ苦しくとも、そこに痛みは感じない。それをあえて伝えることはしないけれど。
「で、でも……っ」
「心配かけてごめんね。大丈夫、お姉ちゃんはちゃんと生きてるよ」
自分の涙を拭ってから、安心させるように愁に微笑みかける。その瞬間、愁は濡れそぼった瞳から、ふたたび大粒の涙を溢れさせた。
そんな愁を撫でたくても、肝心な体が起き上がらない。
まるで重力が倍になったみたいだ。
泣いている弟の涙も掬ってやれないなんて──なんて、情けないんだろう。
やりきれない思いを奥歯でぐっと噛みしめたそのとき、ノックと同時に病室の扉が開いた。
「鈴ちゃん」
入ってきたのは、発病以来ずっとお世話になっている、主治医の伊藤先生だった。
まだ三十代という若さで枯桜病の研究の第一線に携わっている研究者であり、聞いた話、この界隈ではとても名の知れている人らしい。
伊藤先生は泣いている愁に驚いたような顔をしながらも、素早く目で心電図を確認しながら「びっくりしたねえ」と存外のんびりとした声をかけてくる。
「せん、せい……」
「うん。どこか気になる不調とかある?」
私は首を横に振る。
体が重いことくらい、先生もわかっているだろうと思ったから。
「そう、よかった」
先生は安堵したようにうなずき、神妙な面持ちでベッドの傍らにしゃがみこんだ。
「……あのね、ちょっと鈴ちゃんの心臓、動きが悪くなってるみたいなの」
隣で立ったまま泣き続ける愁の腰に手を添えているあたり、とても優しい。
伊藤先生は、なによりも患者のことを第一に考えて、なるべくこちらの要望に沿う治療をしてくれる人だ。こうしてベッドから起き上がれない私に視線を合わせるのも、医者としての威圧を与えないためだと前に言っていた。
私が学校に通えているのも、間違いなく先生のおかげだった。
そんな先生だから、冗談を言ったりする人ではないと私もわかっている。
「このあいだ検査したときは、目立つ異常は見られなかったんだけどね。ただ少し、進行が早まってるのかな。心臓の血液の循環が悪くて、いわゆる不整脈を起こしちゃったのよ」
「……不整脈……」
「もう落ち着いてるけど、今日はこのまま入院してもらうね。今後のことはまたゆっくり考えていこうか。ちょうど来月検査期間だったし、ほんの少し予定を早めて──」
「ま、待って、先生」
話の雲行きが怪しくなってきて、私は申し訳ないと思いながらも口を挟む。
「予定は早めないでください。夏休みに入ってからで大丈夫です。来週には定期テストがあるし、それに」
まだ、ユイ先輩にもきちんと話せていないのだ。
なんとなく、わかる。
きっと次に入院したら、私はもう退院できなくなるだろう。この五年間、入退院を繰り返してきた感覚的にも、先生の態度を見ても、ほぼ確実に。
「……でもねえ、鈴ちゃん。あなたの体は……」
「お願い、先生。どちらにしても治らないなら、私は最期まで悔いなく生きたいの」
主治医としての気持ちも、理解はできる。
いつどうなるかわからない患者を、なるべく外に出したくない気持ちは。
たとえ治らなくとも、病院にいれば延命治療ができる。なにかあったときはすぐに処置できるし、今日のように突然の体の変化にも対応が可能だ。
少しでも長く生きたいと願うのなら、今すぐにでも入院して、命を引き延ばすための治療に専念するのが最適解なのだろう。
けれど、それでも、嫌だった。
ここに──病院にいると、ひどく孤独を感じるのだ。
生きているのに生きていない。
毎日が、日々が、まるで年季を帯びた紙のように黄色く色褪せていく。
そういう場所だと、私はもう嫌というほど知っている。
「先生。もう少しだけでいいんです。八月からにしてください」
「……わかったわ。じゃあ予定通り八月からにする。でも、もしそれまでにまた今回みたいなことがあったら、そのときは折れないからね」
「っ、はい。ありがとう、先生!」
仕方なさそうに、けれどしっかりと了承してくれた先生は、かたわらでしゃくりあげている愁の頭を撫でた。この構図も、初めて見る光景ではない。
「愁くんもびっくりしたよね。でも、本当にひとりのときじゃなくてよかったよ。あのすごく綺麗な彼も……」
ふと思い出したように、ちらりと私を見て、先生がいたずらに口角を上げる。
「彼、例の子でしょう。鈴ちゃんの好きな子」
「っ……う、バレた」
「小学生のときから熱く聞かされてきた鈴ちゃん憧れの彼と、まさか会えるなんて思ってなかったわ。予想以上にイケメンでびっくりしちゃった」
さきほどの神妙さはどこへやら、隅に置けないわね、と私をくいくい小突く先生。
五年もの付き合いにもなれば、主治医とはいえ友だちのような親しさだ。
私が属しているのが小児科だというのもあるだろうけど、こういう話題は伊藤先生に限らず看護師さんたちも大好きだった。
聞かされてきた、ではなく、聞き出されてきたの方が正しい。
「せ、先輩のことはいいですから……!」
「ふふっ初心ねえ、鈴ちゃん。じゃあ先生、さっきのことも含めてもう少しご両親とお話してくるから。なにかあったらナースコール押してね」
「は、はあい」
伊藤先生が出ていった後、入れ違いにユイ先輩が戻ってくる。
「あ、先輩……」
「話、終わったみたいだから。……でもまだ、入ってこない方がよかったね」
どうやら気を遣って外にいてくれたらしい。
ユイ先輩は相変わらず泣き続けている愁を見て、しゅんと眉尻を垂らした。どう接するべきか悩んでいるようだけれど、そんな様子を見せる先輩もまた珍しい。
「ごめ……ごめん、姉ちゃん……っ」
「え?」
突然謝り始めた弟に狼狽えて、私はおろおろと愁へ手を伸ばす。
それに応えるようにしゃがみこんだ愁は、そのままベッドに顔を埋める。その肩は、いっそ気の毒なくらいに震えていた。小さい頃と変わらない、とまたも思う。
私と同じ色の髪を梳くと、愁はなおのこと強い嗚咽を漏らした。
「お、おれが、おれが姉ちゃんのこと、興奮させたりしたからっ」
「ち、違うよ、愁。なに言ってるの。愁のせいなわけないでしょ」
なんとなくだけれど、覚えている。
私が意識を失う前、頭に血が上った愁が、ユイ先輩へ堪えきれない鬱憤をぶつけていたこと。
たしかに愁は、前々からユイ先輩のことを嫌っていた節があった。
しかしそれはあくまで私との会話上で毒づくくらいだったし、そもそも愁と先輩が知り合いなわけでもなかったから、大して気にはしていなくて。
けれど、愁は──取られた、と言っていた。
ユイ先輩が、私を取ったのだと。
その言葉の真意は定かではない。ただ、なんとなく、私の意識がいつも先輩へ向かっていたことに対する不満から来るものなのではないかと、そう思った。
「……ねえ、愁。愁は小さい頃から優しくていい子だから、私のこといつも心配してくれるけど。もっと、わがまま言っていいんだからね」
「っ、え……?」
「たしかに、私にとってユイ先輩は大切な人だよ。生きる指針で、道標で、理由だから。でも、だからって、他のことをどうでもいいなんて思ってないの。とくに家族に関しては、ないがしろにするつもりはないよ」
なんと言葉を紡いだら、この気持ちが嘘偽りなく伝わるのだろう。
言いようのないやるせなさに苛まれながら、私は小さく息を吐いた。
「……きっと私にできることなんて、限られてるんだろうけどね」
私がいなくなった後も、愁やお父さん、お母さんはこの世界で生きていく。
そんな家族に、今の私が残せるものなんて、そう多くはない。
それでも、ばらばらにならないように──ちゃんと家族のまま、みんながこれからも生きていけるように、私はその根っこの部分をしっかり作っておきたいと思う。
どうしたらいいかなんてわからなくても、そう願ってしまう。
「愁は、私になにをしてほしい?」
「っ……おれ、は」
「なんでも聞くし、なんでもするよ。我慢しないでちゃんと言っていいんだよ、愁」
ちがう、ちがう、と愁は幼い子どもがイヤイヤするように首を振る。
「なにかしてほしいわけじゃない。おれは、姉ちゃんがいなくなるのが嫌なんだ」
「……うん」
「おれの姉ちゃんは、姉ちゃんだけなのにっ……勝手に、いなくなるとか、ふざけんなよぉ……っ」
ベッドに顔を押しつけながら、押し殺すように啜り泣く愁の頭を撫でる。
「ごめんね」
痛覚はなくなっても心の痛みだけはなくならないのだな、と。
謝ることしかできなくて、私は軋む胸を押さえながら、ユイ先輩を見た。
うしろで戸惑ったように立ち尽くし、瞳を揺らす先輩。いくら先輩だって、こんな状況に遭遇したことはないだろう。本来はここにいるはずのない人なのだから。
人の生死に対面する。そんなときに上手い言葉をかけられる人なんていない。それが身近な人間であればなおさら、現実感はますます遠のいてしまうものだ。
だからこそ、いつか訪れる別れのときまで、周囲とどう接するのが正解なのか、私はずっとわからずにいる。
「──先輩。定期テストが終わって夏休みに入ったらすぐ、絵を描きに行きませんか」
「……っ、え?」
「どこでもいいんです。ふたりで、課外活動をしませんか」
しっとりとした夜空の瞳を向けながら、ユイ先輩が唇を引き結んだ。
見つめ合う静寂が、なんだか初めて先輩と出会った日に似ているような気がした。
私に『誰?』と言ったときの先輩は、今と同じような顔をしていた。
困惑。衝撃。戸惑い。
そんないくつもの感情が綯い交ぜになった、私が描く水彩画のような色。
ああ描きたい、と。あのとき私は、強く、強く思った。だからなのか、不思議とあの日のことは忘れない。いつだって鮮明に脳裏に浮かんでくる。
「課外活動、ね」
ほんの数秒が何分、何十分の感覚で。やがてゆっくりとうなずいたユイ先輩は、絵を描いているときと同じ瞳の色をしていた。
「……いいよ。でも、場所は俺が決めていい?」
「はい、ありがとうございます。ふふ、楽しみだなあ」
──本当は、ずっと言わずにいたかった。
苦しみも悲しみもつらさも、現実の非道さも、なにもかも、いつもの笑顔の裏に隠したままでいたかった。
追いかけ続けてきた私の夢が、儚くも桜のように散っていったように。
それでも、きっと優しい先輩は、暗れ惑う私に言うのだろう。
たとえ自分の感情を押し殺しても、大丈夫だ、と。
◇
そうして翌日、私は退院した。
しかし、さすがに三日間は自宅療養で様子を見るように指示され、私はしぶしぶ家でテスト勉強に勤しむ羽目になった。
七月の下旬。
今年の夏は梅雨が短かったこともあり、湿気が少ない。風が爽やかに感じられるくらいカラリとした暑さで、体力減退中の私には幾分か過ごしやすい気候だった。
体調は、とりわけよくも悪くもない。
以前と変わったことといえば、体重は減っているはずなのに、体が重く感じられるようになったこと。それから、眠りがより深くなったくらいだ。
深く、深く、誰も到達したことがないような海底に沈んでいくように眠る。
きっとこうして水底に着いたとき、私は死ぬんだろうなと毎朝起きる度に考える。
眠っている間は夢もいっさい見ることなく熟睡しているから、不快感はない。
むしろ不思議なくらい心地がよくて、いっそこのまま眠ったままでもいっか、と思ってしまったりもする。
けれど、いざ目覚めたとき、生きていることを実感するとホッとしてしまうのだ。
そんな不安定さを、私は誰にも見せないようにしてきた。
家族にも、もちろん友だちや、ユイ先輩にも。
「やっほー、鈴。意外と元気そうじゃん?」
「よかったぁ。救急車で運ばれたって聞いたときは心臓止まるかと思ったよ」
自宅療養三日目。
夕間暮れになって家にやってきたのは、円香とかえちんだった。学校帰りで制服姿のふたりは、もう勝手知ったる様子で私の部屋に入ってくる。
「へへ、ごめんごめん。私も自分でびっくりしたよ」
部屋の中心に置いているテーブルを囲んで、三人で座った。
試験前のため、美術部は元より、円香の所属する料理部やかなちんのバレー部も休止期間に入っている。普段はなかなか学校以外で会う時間を作れないから、この機に三人で集まって試験勉強をしようという話になったのだ。
「ここ二日の授業ノートも持ってきたからね。わたしが文系科目、楓ちゃんが理系科目って分担して取っておいたんだ」
「選択授業だけは三人ともバラバラだから、ちょっとわかんないけどね」
「うわ、ふたりともホントありがと。わざわざごめんね」
ふたりとも高校からの友だちだ。高一のときにたまたま同じクラスになって、席が近かったことから一緒にいるようになった。
円香は見た目通りの、大人しくてほんわかとした女の子。
お菓子作りの腕前は一級品で、実家は洋菓子屋を営んでいるらしい。
かえちんはとにかくスポーツ万能で、バレー部のエースだったりする。
そんな彼女たちに私の病気のことを打ち明けたのは、去年の秋頃だった。
「なんか思い出すよねぇ。ふたりの前で倒れて救急車で運ばれたときのこと」
「笑いごとじゃないよ! あのときは、ほんっとにびっくりしたんだから!」
「んねー。まあでも、あれがあったから、あたしたちは鈴の病気を知ることができたわけだし。今となってはよかったなって思うよ。その場に居合わせてて」
かえちんの飾らない素直な言葉に、私は思わずくすりと笑った。
見た目も中身もボーイッシュな性格のかえちんは、一見冷たい印象を覚えられがちだけれど、意外と優しさの塊だったりする。
そんなツンデレなところが私と円香のつぼに入り、ここまで仲良くなった。
なんというか、バランスがいいのだ。私たちは。
「……私も、ふたりに話せてよかったって思ってるよ」
発病してから高校に入学するまで、私は病気のことをひた隠しにし続けてきた。
もちろん学校の先生は知っていたし、相応の配慮はしてもらっていたけれど、中学の頃はそれを知られるのがひどく怖かった記憶がある。
多感な時期だから、というのもあるだろう。
なんとなく、自分が異質な存在として扱われるのが我慢ならなかった。
知られてしまったら、友だちがいなくなるんじゃないか。腫れ物のように扱われるんじゃないか。そんな恐怖が、いつも心のどこかを巣食っていた。
でも、実際にこうして打ち明けてしまえば、なんとも気楽なものだった。
もちろん相手がふたりだから、というのもある。このふたりなら話しても大丈夫だと思うことができたから、私は病気のことを包み隠さず打ち明けた。
きっと傷になってしまうだろうと、そういう躊躇は、いまだにあるけれど。
一方で、今は変に隠してしまう方がふたりを傷つけるとわかっている。
だから、ちゃんと話さなければならない。今の状態も、これからのことも。
ふたりはきっと、気にしているだろうから。
「──あのね、円香、かえちん」
私は広げていたノートの上にシャーペンを置いて、ゆっくりと切り出した。
試験勉強の準備をしていたふたりも、その神妙な空気を察したのか、手を止めて聞く体勢を取ってくれる。
ほんの少し顔が強張っているものの、聞かないという選択肢はないようだった。
「私、八月からまた入院するんだけど」
「検査のだよね? 前に言ってた……」
「うん、そう。でもたぶん、もう戻ってこられないと思うんだ」
ふたりがひゅっと息を詰めた。
心なしか青褪めながら、円香が胸の前で手を組んで俯く。
「退院できないってこと?」
「うん。先生に言われたんだ。……このまま病状が進行すれば、年は越せないかもしれないって。きっとそうだろうなって私も思ってたし、覚悟はしてたんだけどね」
「っ……!」
円香が瞬く間に眦に涙を溜めて、両手で口を覆った。
かえちんも聞いていられないといわんばかりに顔を背ける。
そんなふたりに曖昧な笑みを向けながら、私はそっと睫毛を伏せた。
「それに、さすがにもう私のわがままは終わりにしなきゃなとも思ったの」
「……わがまま?」
「ぎりぎりまで入院はせずに、学校に通わせてほしいっていうわがまま」
本当なら、高校も行かないはずだった。枯桜病を抱えた体で、他のみんなと同じように学校生活を送るのは、絶対的にリスクが高すぎるから。
それでも、先生や家族の反対を押し切ってまで、私が進学を決意したのは。
「──私ね。どうしても、ユイ先輩に会いたかったの」
──二年前。
中学三年生のときの絵画コンクールで、私は一度だけ金賞を獲ったことがある。
けれどもそれは、いつも私の上に太陽のごとく咲いていたユイ先輩が、中学を卒業して高校部門へ移ったからという明確な理由があってのことだった。
高校部門でも変わらず金賞を受賞したユイ先輩の作品を見て、私は心の底から敵わないと思ってしまった。もしも例年通り同じ部門に応募されていたら、自分は間違いなく銀賞だと確信できるほど、私とユイ先輩の間には形容しがたい差があった。
……目標だった金賞を得ても満足できなかったのは、私が金賞を目指していたわけではなく、ユイ先輩を越えることを念頭に置いていたからで。
とても、わがままだなあ、とは思う。
贅沢な望みだと。
それでも私は、先輩が見ているあの世界を見てみたかった。
だから、どれだけ滑稽でも、がむしゃらに追いかけていた。ずっとずっと、ユイ先輩の背中だけをひたすらに追い続けて生きてきた。
恋焦がれるほど憧れた彼と同じ立場で、同じ世界を共有してみたかった。
その先に、なにがあるのかなんて予想もできないけれど。
──そして私はその年、展示会場でひときわ目立つ人を見つけたのだ。
明らかに異質だった。
会場にいるくせにまったく展示絵に興味を示さず、壁に背を預けて、ただただ眠そうに舟をこいでいる男の人。
そこだけ空間が切り取られているような、独特な空気感。精巧な人形を彷彿とさせる彼の容姿を見た私は、すぐに彼が『春永結生』だと気づいて。
その月明りのような銀髪に、一瞬で目を奪われた。
前にテレビ局のインタビューで見たときは普通の黒髪だったはずなのに、という疑問よりも、そんな奇抜な髪色が彼らしいと感じたことに拍子抜けした。
銀。ともすれば、灰。黒と白の中間色。
鉛筆画家。否、モノクロ画家そのものだと感じた。
ああ、この人自身もついに染まってしまったんだと。あの色のない世界に生きているんだと。なんだかとても、寂しく思った。
「憧れの先輩がびっくりするほど近くにいたっていう幸運もあるけどね。私的には運命なんじゃないかって思うほど衝撃で、行かないっていう選択肢がなかったんだ」
たぶんあのとき、ユイ先輩へ抱く気持ちが塗り変わったのだ。
いつかこの人を越えたいという憧れや尊敬から、この人に近づきたいという好きの気持ちへ。一目惚れ、と言ってもいいかもしれない。
それだけ、ユイ先輩は強烈に私を惹き寄せた。
いつも絵だけを見てきた自分を後悔するくらい、強く、強く。
ただただ死を待つばかりだった私に、希望を芽生えさせてくれたのは──高校に行きたいと思わせてくれたのは、他でもないユイ先輩だった。
「本当にね、進学したのは正解だった。いいことばっかだったもん。本来の目的である先輩に会えたのももちろんだけど、ふたりとも仲良くなれたし」
家族を巻き込み、わざわざ月ヶ丘高校の近くに引っ越してまで叶えたわがままは、それだけの価値があるものだった。
「……鈴ちゃん……」
「っ、なんでそんなお別れみたいなこと言うのさ!」
かえちんは堪らないというように身を乗り出してくる。
むぎゅ、と顔を両手で包まれた。口がタコのように尖るのを感じながら、私は上目遣いでかえちんを見上げる。
深い皺が刻み込まれた眉、震える唇、濡れた瞳。
「あたしはずっと、この先もずっと鈴の友だちで、親友なんだから! 学校に来れなくなるくらいで終わるような関係じゃないんだからね!」
「か、かえちん……」
「そうだよ、鈴ちゃん。入院しててもわたしたち鈴ちゃんに会いに行くし、今日みたいに一緒に勉強会とかもしよう? 大丈夫、なにも変わらないよ」
「円香も……なんれそんらこと言っへふれるの」
口が潰されているせいで、上手く発音ができない。
そんな私にふたりは思わず、といったようにぷっと吹き出しながら、それでも隠しきれず涙を溜めて、両側から私をぎゅっと抱きしめてくる。
「鈴ちゃんが大好きだからに決まってるよ」
「どんな病気だろうが鈴は鈴じゃん。突き放そうとしないでよ、お願いだからさ」
「っ……ふたりとも……」
無性に、泣きたくなった。というか泣いていた。
ふたりの涙につられて、頬に数粒、まるで朝露みたいに雫が伝う。
心配をかけるから、なるべく泣かないようにしてきたのに。
どうも最近は、泣いてばっかりだ。
「ありがとう……私も、大好きだよ」
──私には、傷つかずに死を迎える方法なんてわからない。
残していく側も、残されていく側も、きっとすごくつらい思いをする。
深い深い、一生拭いきれない傷を刻むことになる。
人の死、とはそういうものだ。
だけど、どんなに傷ついても、今この瞬間がなかったことになるのは嫌だった。
私のわがままを貫き通してまで通った学校で、こうして大好きだと言えるふたりと出会えたことは、きっと私にとっての宝物のひとつだから。
それを、後悔なんて、したくなかった。