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モノクロに君が咲く  作者: 琴織ゆき
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第二章 「わからなかったんだ」

 一年前の、春。まだ新学期が始まる前、一年生の入学式の日だった。

 いつものように屋上庭園でひとり絵を描いていた俺の前に、突如としてひとりの少女が現れたのは。いや、この場合、舞い降りた──と言った方が適切だろうか。


「こんにちは、春永結生先輩」


 風に凪ぐ新月の夜を映したような長い黒髪。陽を知らない真っ白な肌。細い足と華奢な肩。こちらを向く大きな黒曜石の瞳は、子どもが宝物を見つけたときのように嬉しそうで──同時に、この世のなによりも切ない色を灯しているように見えた。

 後ろ手を組んで柔らかく微笑む姿に、馬鹿らしくも天使を連想してしまったのはなぜなのか。それほど彼女の存在は、ひどく淡く、儚いものに感じたのかもしれない。


「…………。誰」


 まるで全身を雷で貫かれたような衝撃だった。あまりに茫然として、いつにも増して不愛想で素っ気ない態度になってしまったような気がする。

 木を離れた桜の花弁が嵐のように吹き荒ぶなか、俺はすぐさま後悔した。

 けれど彼女は、そんな俺の態度にも微動だにせず、むしろおかしそうに笑った。


「ふふ、ですよね。はじめまして、先輩。小鳥遊鈴です」


 たかなしすず。

 その名前がなんとも反響して、頭の隅々まで広がっていった。人を見て、直感的に描いてみたいと思ったのは、たぶん十八年の人生ではじめてのことだった。


「今日はこれを渡しにきました」


「……? 入部届?」


「はい。先輩が美術部の部長って聞いたので、どうしても直接渡したくて」


 拍子抜けした、とでも言えばいいだろうか。

 渡された紙には、たしかに『一年・小鳥遊鈴』と丁寧に記されていた。

 そういえば三年生が卒業してから部長を任されていたな、と今さらながら思い出す。


「……なるほど。わかった、受け取っておく。顧問に渡せばいいんだよね」


「はい、お願いします」


「じゃあ……」


「ところで、活動場所はここですか?」


 被せるように追従された質問。一瞬、思考が追いつかなかった。

 なにせ美術部の部員がはたして今何名いるのかすら、俺は把握していない。

 だが、少なくとも俺以外にまともに活動している生徒を、ここ二年見たことはなかった。うちは基本的に放任主義だし、個人創作に重きを置いているから。

 まあ、がちがちな運動部でもあるまいし、高校の部活なんてそんなものだろう。

 とりわけ美術部のような影が薄い文化部は、入部こそすれ幽霊部員上等だ。強制でもされない限り、実際に部活に顔を出す生徒なんてほとんどいない。

 当の俺だって、部活動を理由に絵を描いているわけではないし。

 しかし一応、表面上の決まりごとはあったはずだ。さて、なんだったか。

 ようやく思考が働くようになってきた俺は、遥か彼方に葬り去られた記憶の欠片からそれらしいものを引っ張り出しつつ、軽く捏造を交えて伝えることにした。


「……活動内容はとくに決まってないよ。描きたいものはみんな違うしね。場所も固定じゃない。時間も自由。好きなときに描いて、好きなときに切り上げればいい」


 実際口に出してみればただの願望で、まったくの捏造であるような気もした。

 だが、実際そんな感じで成り立ってきたのだから問題はないはずだ。仮に間違っていても今の部長は俺だし、それぐらい許されるはずだと都合よく思うことにする。


「ふむ、なるほど。先輩は? いつもどこで活動してます?」


「……俺は、基本的にここだけど」


「おお! じゃあ私も、ここに来ていいですか?」


 にこにこと屈託なく笑いながら、こてんと小首を傾げる小鳥遊さん。なんとも無邪気な反応に面食らって、しかし同時に、どこか落ち着かない気分になる。


「べ、つに、好きにすればいいんじゃない。俺専用の場所ってわけじゃないし」


「やった。ふふ、楽しみ」


「……画材とかは自分で美術室から持ってくる必要があるけど、いいの? 俺みたいに鉛筆一本で済むならまだしも、君は絵具いるでしょ。大変じゃないの」


「大丈夫ですよ。それくらい、どうってことないです」


「──……そう」


 まさか本当に来るつもりなのかと驚いて、けれどそのときはどうせそのうち来なくなるだろうと軽く捉えていた。これまでも何度かこういうことはあったから。

 なぜか、俺に関わった者は、遠からず離れていくのだ。

 怖い、とか。なにを考えているかわからない、とか。もう聞き飽きた言葉だ。


「集中切らしちゃってごめんなさい、ユイ先輩。ちょっと名残惜しいけど、私、戻りますね。入学式抜け出してきたので、そろそろ戻らないとバレて怒られそう」


「うん。……ん? は?」


 入学式を、抜け出してきた?

 頭のなかでゆっくりと反芻して、ふたたび「は?」と声が漏れる。

 タタッと跳ねるように踵を返した小鳥遊さんを、理解が追いつかないまま呆気に取られて見送る。しかし彼女は、唐突に立ち止まった。

 そしてなにやら慌てた様子でこちらへ戻ってくる。


「いちばん大事なことを言い忘れてました」


 なに、と問い返す間もなく、小鳥遊さんは俺の頬に顔を近づける。

 急激に縮まった距離にぎょっとする間もない。

 耳朶を桜の花弁が掠めるように、そっと囁かれた言葉。


「──……です」


 すぐさま離れた彼女の小ぶりな唇が、せんぱい、と動くのを見て。


「大好きです! ユイ先輩」


 ふたたび紡がれたその言葉に、幻聴ではなかったことを思い知らされた。


「それじゃあ、また明日」


 満面の笑みを浮かべて、とても満足そうに去っていった見知らぬ少女。

 突然の嵐に見舞われ呆気に取られるしかなかった俺は、まさかそのあと本当に彼女が屋上庭園に通い続けるなんて思いもしていなかった。


 そして、いつしかそんな彼女を待ちわびるようになる自分も。

 たった一ヶ月顔を見ないだけで、絵が描けなくなるほど惹かれてしまうことも。


 ──そのときの俺は、なにもかも想像していなかった。



「ユイ先輩、体育祭なに出るんですか?」


 当たり前のように俺を呼ぶ小鳥遊さんに、ほんの少し鼓動が早まった気がした。

 小鳥遊さんの前には、さまざまな色が円形に並べられたキャンバスがある。最近は筆で色を作って遊ぶ程度で、本格的に絵を描いているところを見ていない。

 気分ではないのか、スランプなのか。どちらにしても楽しそうではあるけれど。


「ユイ先輩?」


 黙り込んでいた俺を、小鳥遊さんが覗き込むようにして顔を出してきた。

 ハッと我に返り、その距離の近さにどきりとする。

 しかし努めて表情には出さず、平然と「まだいるよ」と返しておく。

 自分でも感情表現は下手くそだと思っているが、小鳥遊さんの前だとむしろ出過ぎそうになるから困る。彼女の行動は突拍子もないことが多くて、心臓に悪い。


「もしかして、もう沈んでました? 邪魔しちゃったかな」


「いや。平気」


 ちなみにこの『沈む』というのは、俺が集中して絵を描いているときに自分の世界へ入り込んでしまう状態を呼んでいるらしい。

 まるで深い海の底に沈んでいるみたいだから、と前に教えてくれた。


「なんだっけ」


「体育祭ですよ」


 ああ、と俺は虚空に入り、ただただ遠くの方を見つめる。


「……真夏の炎天下で無駄に汗をかきながら運動しなくちゃいけない意味ってなに」


「去年もそんなこと言ってましたね」


 くすくすと小鳥遊さんが駒鳥のように笑う。本当によく笑う子だ。


「で、なにに出るんですか」


「……徒競走」


「またハードな」


 自分で選んだわけではなく、気づいたらそれになっていた。どうやら競技決めをする際にぼうっとしていたら、勝手に決められてしまったらしい。最悪だ。


「もうすぐ七月ですもんね。体育祭の頃には太陽ギラギラ、グラウンドは干からびてカピカピになってますよ。今年はどうも例年に比べて気温が高いみたいですし」


「ほんと誰なの、真夏に体育祭やろうとか言い出したの」


 俺は基本的に省エネ体質だ。加えて最低限しか動かない生活を送っている。

 絵を描いている時間が長いからと言えば正当な理由になるだろうが、実際のところ、体力に関しては男として情けなくなるほど皆無と言っていい。

 つまり、限りなく運動不足の俺にとって、体育祭はただの暴挙。学校行事でやりたくないランキング不動の一位。あれは控えめに言っても地獄だ。


「……そっちはなにやるの」


「え?」


「だから、小鳥遊さんはなにやるのって」


 ふと気になったことを尋ねてみれば、小鳥遊さんは虚を衝かれたように目を瞬いた。


「珍しいですね、ユイ先輩が聞き返してくるの」


「…………」


 そんなことはない、と一概に否定することもできず、俺はふたたび黙りこくった。

 自分がコミュニケーション能力に乏しいことは自覚している。相手が小鳥遊さんでなければ、きっとこんな他愛もない会話すらしていないだろう。

 けれど、いざそう指摘されるとへこみそうになる。俺はもう少し、他人と関わる努力をした方がいいのかもしれない。小鳥遊さんに近づくためにも。


「私は応援団です」


「は?」


 素っ頓狂な返しがツボに入ったのか、小鳥遊さんがおかしそうに笑う。

 ほのかに吹いた風が小鳥遊さんの長いうしろ髪を攫い揺らした。

 以前切りすぎた前髪は、この二か月でちょうどいい長さになっていた。


「汗水垂らして奮闘する生徒たちを安全圏で全力で応援する係、ですかね」


「なにそれ、ずるい」


「ふふーん」


 しかし、体育祭の競技に応援団なんてあっただろうか。そもそもあれは、競技に換算されるものなのか。そうふと疑問に思いはしたものの追求はしない。

 そんなことは俺にとって、さして重要ではないのだ。小鳥遊さんがなにをやるにしても、この『見たい』という思いに変わりはないのだから。


「じゃあ当日は前に出て、あの……腕を動かすやつ、やるの?」


「言い方。まあ、残念ながらあれはやりませんけどね。自称応援団なので」


「……? どういう意味?」


「ふふ。当日はテントの下にいますよ、たぶん。体育祭本部の横のところです」


 さりげなく誤魔化された気がしたが、まあいい。わかりやすいに越したことはない。


「ユイ先輩の勇姿をしかと目に焼きつけますから!」


「…………」


 こう言ってはなんだが、絶対に最下位になる自信しかない。自分の情けない姿を小鳥遊さんに見られると思うと、ずんと心に重しを乗せられたような心地になる。

 変だ、本当に。彼女と一緒にいると、ずいぶん胸の奥が騒がしい。普段はいつだって最果ての海のごとく凪いでいるのに、これではまるで俺ではないみたいだ。


「あんま、見ないで」


「え?」


「かっこ悪い、でしょ。俺は走るのとか得意じゃないから」


 小鳥遊さんは長い睫毛に縁どられた双眸をぱちくり瞬かせる。それからひどく不安と怪訝を綯い交ぜにしたような表情をして、一歩大きく後ずさった。


「……今、私の隣にいるのって、本物のユイ先輩ですか?」


「なに言ってるの、どこかに頭ぶつけた?」


「あっ、ユイ先輩だ」


 いったい今のどこで俺だと判別したんだろう。


「先輩って普段口数少ないのに、私の前だとたまに別人みたいな鋭い切り返ししてくるじゃないですか。結構な切れ味でバッサリと。だからそうしおらしくされると、どうにも調子が狂っちゃいますね。あはは……」


「……そう?」


「自覚ないんですか。や、それもまた先輩らしいですけど」


 まあたしかに言われてみれば、小鳥遊さんの前では自然と言葉が出るかもしれない。

 他の女子やクラスメイトには、基本的に「うん」や「いや」しか返さないのに。

 例外なのは、幼なじみの隼と──ああ、榊原さんくらいか。我ながらわかりやすすぎるな、とは思うが、こればっかりは無自覚なのでどうしようもない。


「なんというか……小鳥遊さんは、たぶん、興味深いんだと思う」


「へ?」


「先が読めないから」


 人を見ると、大抵その人がどんな色かわかる。描くならこんな色かと、瞬時に変換される。あの色とあの色を混ぜこんだような人だなと、俺の他人に対しての第一印象はすべて『色』で定まっているのだ。

 そして頭のなかで変換された色味を、俺はこの六年、鉛筆一本で表現してきた。

 だが、小鳥遊さんは、そもそもの『色』がわからない。

 初めて会ったときから今日までずっと。

 描いてみたいと思うのに、どうにも嵌らない。一向に掴み切れずにいる。力量が足りないのかと疑ったりもしたが、きっとこれはそういう問題でもないのだろう。


「小鳥遊さんは、俺の常識に当てはまらない。それがすごく、面白いよ」


「え~……それ、褒めてます?」


「さあ、どうかな」


 きっと小鳥遊さんの色がわからないのは、彼女がモノクロの世界に似合わないからだ。白と黒、そしてその中間色ではとても表現しきれないほど、鮮やかだから。


「……うん。まあ、どっちでもいっか」


「そう。どっちでもいい。そこは重要じゃないからね」


「はい。それで話を戻しますけど……私、ユイ先輩が運動得意じゃないことくらい知ってますよ。知った上で見たいんです。むしろ、そんなユイ先輩が気になる」


「物好きだね」


「どんな過程でも結果でも、先輩は変わらず先輩でかっこいいから。それこそ私にとっては、徒競走のゴールの順番なんてさして重要じゃありません」


 なんてことないように言っているが、相当ハイレベルな口説き文句だ。

 思わず小鳥遊さんを凝視してしまいながら、俺は鈍った思考をフル回転させる。情けないことに、こういうとき、なんと返すのが正解なのかわからない。


『大好きです! ユイ先輩』


 ──初めて出会ったときから、小鳥遊さんは躊躇いもせずに好意を伝えてくる。

 だが、一方で『付き合ってほしい』とは一度も言われたことがない。まるで挨拶のように『好きだ』と伝えてくるばかりで、結局この一年、なんの発展もなかった。

 好きだから、付き合う。

 そのイコールが成立していなければ、気軽に付き合ってはならない。

 ──そう榊原さんで学んだ俺としては、正直この状況は甚だ疑問だった。

 残念なことに、彼女が望んでいることを正しく察する能力は俺にはない。

 けれど、俺の勘違いでなければ、おそらく小鳥遊さんは日々好きだと伝えてくるわりに、それ以上のことを望んでいるわけではないのだ。

 ましてやこちらの気持ちも、彼女はそこまで重要視していない。

 なんだったら嫌われてもいいと思っている節もある。こちらがなにか動けば、一歩でも踏み込めば、そのぶんだけ離れていってしまいそうで──。

 たぶん、俺は怖いのだろう。

 彼女との関係が変わってしまうことが。

 彼女と過ごしてきた心地いい時間が終わってしまうことが。

 万が一、好きが恋愛的な好きではない可能性も捨てきれないからなおのこと。小鳥遊さんのことを意識しているからこそ、俺は、彼女の言葉から逃げている。


「……あの、さ」


「あ、もうこんな時間! 私、帰らなきゃ」


 ふとスマホの時刻を確認した小鳥遊さんは、慌てたように立ち上がった。

 問いかけようとした言葉が行き場を失って引っ込んでいくのを感じながら、俺も時間を確認する。

 四時五十八分。夏を目前に控えたこの時期、だいぶ日が伸びてきたおかげで、部活の終了時間はだいたいどこも六時過ぎだ。美術部も例に漏れず、平日の放課後は毎日のように日灯し頃まで筆を走らせるのが通例だった。

 ──いつもは、俺が終わるまでいるのに。

 なんて、まったくもって俺らしくもないことを思う。なんとも言いようのない寂しさを募らせながら、俺は後片付けをする小鳥遊さんを目で追った。


「……まだ早くない?」


「今日はちょっと用事があるんです。約束してて」


「約束?」


 ほら、と小鳥遊さんは証拠を提示するように手の甲を見せてくる。


『五時十五分、愁、迎え』


 ──愁とは名前だろうか。いったい、誰の。

 一瞬だけ胸の内をじわりと渦巻いた黒い靄。そんな醜い感情を抱くことに自分で驚き面食らう。詳しく聞きたいような、聞きたくないような複雑な心境で「へえ」と小さく答えた俺に、小鳥遊さんは陰りのない笑顔で振り返った。


「じゃあ先輩! また明日!」


「……うん。気をつけて」


「先輩も、集中しすぎて真夜中までいるとかやめてくださいね! 今日は私、いつもみたいに連れ戻してあげられませんから」


 思わず、その言葉に意表を衝かれた。

 連れ戻す、とは沈んだ状態から俺を持ち上げることだ。

 そういえば小鳥遊さんが入部する前は、絵を描くことに集中しすぎて気づいたら夜中だったことがあった。一度ではなく、数回。学校の屋上ならまだしも、ふらりと学校を出て目の付いたところで絵を描いていると、わりとやらかしがちなのだ。

 そのたびに俺は行方を探されて、危うく警察沙汰になりかけたこともある。まあ、大抵は過保護な兄が必要以上に騒ぐからいけないのだが。

 ああでも、そうか。思い返せば、ここ一年はそういうことがない。

 本来の終了時間に合わせて切り上げて、あとは家のアトリエで描く、という規則正しいルーティンが確立されている。


「……そうか。いつも小鳥遊さんがいたから、俺は時間を忘れずに……」


 彼女とは家の方向が違うため、一緒には帰れない。けれど、毎日部活を終えた後は校門まで一緒に歩く。その道すがら、何気ない話をする。

 そこまでが日常だ。今日はそんな日常がないから、こんなに寂しいのか。

 なるほど。そんな小さな時間の積み重ねで、俺は小鳥遊さんに惹かれたのか。


「俺ね、小鳥遊さん。君がいなかった四月の間、実は一度も終了時刻を過ぎるまで絵を描いてたことないんだよ。むしろ早めに切り上げてたくらいで。……だから心配ないよ、って言えたらカッコいいんだろうけど」


 あの一ヶ月は驚くほど集中できなくて、絵がまったく描けなかった。あんなことは春永結生の人生では初めてのことで、正直途方に暮れていたくらいである。

 だというのに。


「たぶん、ね。俺、小鳥遊さんがいる日常に、慣れすぎちゃったんだと思う。ほら、君が帰ってきたとたん、嘘みたいに描けるようになったでしょ」


 さすがにそれが示す意味をわからないほど、俺も鈍感ではない。


「だから、ごめん。今の俺、きっと君がいないとまた沈んじゃうんだ」


 小鳥遊さんは呆気に取られたように硬直して直立している。その困惑に染まった表情すら可愛く見えて、俺は思わずふっと口許を綻ばせた。


「大丈夫?」


「っ……、いや、ちょっと、ダイジョバナイかも、です」


 はっと我に返ったのか、おろおろと視線を彷徨わせた小鳥遊さん。そのまま一歩、二歩と小さく下がって俯くと、上目遣いで恨めしそうな視線を送ってくる。


「お、遅くなったら先輩のお家の方も心配しますよ……」


「うん。だから、連絡して」


 俺はスケッチブックの端っこを切り割いて、素早く自分の連絡先を書きこんだ。

 携帯番号とメールアドレスとチャットのID。SNSでもやっていればもっと連絡手段が増えたのかもしれないが、ひとまずはこれで充分だろう。


「時間になったら連絡して教えてよ、いつもみたいに。俺が沈んでても、たぶん小鳥遊さんからの連絡なら気づくから」


 切れ端を渡すと、小鳥遊さんは面白いくらいにぽかんとした。

 前に連絡先を知らないと言われたとき、なんでそんなことを見落としていたのかと愕然とした。いくら俺が電子機器に興味がないとはいえ、あまりに盲点だった。

 なかなかタイミングが掴めずにいたものの、きっと不自然ではなかったはず。


「え、あの、いいんですか? こんな貴重なの……」


「貴重って。部長の連絡先知らない方がおかしいかなって思っただけ。ものすごく今さらだけどね」


 普段、俺はあまりスマホを見ることはない。連絡してくるのは隼くらいだし、してきても大して重要なことだったためしがないから、見る必要性を感じなかった。

 でも、これで放課後の活動時間以外の小鳥遊さんとの繋がりができる。

 その小さな糸口でさえ、俺にとっては特別だ。

 着信音って変えられるんだっけ、と頭の片隅でぼんやり考えていると、小鳥遊さんは感極まったように涙を滲ませた。


「先輩……っ! ありがとうございます! 大事にしますっ! 」


 さすがにぎょっとして、俺は慌てながら首を横に振る。


「い、いや紙は大事にしなくてもいいから、ちゃんとスマホに登録しておいて」


「はい! 今すぐにっ!」


 急いでいるのではとは思ったものの、なかなか嬉しそうにスマホへ俺の情報を打ち込んでいるから口が挟めなくなった。

 この子はどうも、目の前のことしか見えない性質にあるらしい。


「登録しましたよ、先輩! ほら見て、私のアドレス帳に春永結生って名前が!」


「うん、わかったから落ち着いて。なんでもいいから連絡しておいてよ。俺も君の連絡先登録したいし」


「うう、先輩に連絡していいとか幸せすぎて死んじゃいます……」


「大げさ」


 まったく、と呆れながらも、その無邪気さにはくすりと笑みが零れる。

 コロコロと毬が転がるように変化する表情も、淀みひとつなく素直で真っ直ぐなところも、本当に見ていて飽きることがない。

 好きなんだな、と、そう思う。

 ……ああ、なんだか無性に恥ずかしくなってきた。


「引き留めてごめん。待ち合わせの時間、大丈夫?」


 誤魔化すように促すと、小鳥遊さんは「へ?」となぜかきょとんと目を瞬かせた。

 けれど、すぐにハッと自分の手の甲を見て顔色を変える。「ああ愁!」と慌てたように叫んだ彼女は、わたわたとスマホを鞄にしまいながら顔を上げた。


「先輩、すみません! ちゃんと連絡しますからっ」


「あぁ、うん。えっと、なんかごめんね」


「いえいえ、嬉しかったです! それじゃあ、また明日!」


 なんとも危うい足取りで駆けていく姿を見送りながら、俺は苦笑した。


「……忘れんぼうで慌てんぼうの小鳥遊さん」


 小鳥遊さんのそばにいると、不思議と心が安らぐ。

 インスピレーションが湧いてくる。楽しいとか、嬉しいとか、俺が鈍くてなかなか感じられない感情を次から次へと教えてくれるから。

 この気持ちはきっと、みなが言う恋というものなのだろう。

 そう見当こそついているものの、正直どうしたらいいのかわからない。

 なにせ、誰かを好きになったことが初めてだから。接し方も、扱い方も、心の保ち方も、なにもかも未知の領域すぎて、どうにも惑いそうになる。


「……愁、か」


 たったひとこと小鳥遊さんがそう呼んだだけで、顔も名前も知らないその名前に嫉妬してしまうくらいには、俺は彼女に惹かれてしまっているのに。


 ──恋愛とかいうものは、人形の俺にはとても、難しい。



「よーっす、結生」


「………………。あぁ、隼か……」


「いや反応おっそ。大丈夫かよ? もうへたばってんのか?」


 体育祭当日。ようやく午前の部が終わり、生徒たちは各自昼休憩に入った。

 それはいいが、暑い。とにかく暑い。

 一刻も早く校舎のなかに避難したい気持ちはあれど、こうも気温が高いと動くことすら億劫だ。体が今にも溶け落ちてしまうのでは、と本気で心配するほど。

 そんなこんなで、俺は待機場所の椅子から一向に立ち上がれずにいた。


「おまえ、俺が迎えに来るってわかってて動かなかったんだろ」


「べつに。まあ、来るとは思ってたけど」


 呆れ顔で俺の隣にどかりと腰掛けた隼は、「ほら」とミネラルウォーターを放ってくる。反射的に受け取れば、それは俺がいつも買うメーカーのものだった。


「水分取ってねえんだろ、どうせ」


「……水筒忘れた」


「アホか? やっぱアホなんだな!? いいから早く飲め死ぬぞ!」


 渡してきたばかりのペットボトルを引ったくったかと思えば、隼は素早く蓋を開けて乱暴に口へ突っ込んでくる。

 突然流れ込んできた水をなんとか飲み下しながら、俺はじりっと奴を睨みつけた。


「もっと優しくできないわけ」


「うるせーよ」


 小中高と同じ学校で過ごしてきただけあって、言動にまったく遠慮がない。

 いわゆる幼なじみ、腐れ縁というやつなのだろう。だが、俺にとっての隼はどちらかというと世話焼きな兄とでも言うべきか。まあ、それに準じた存在だった。


「あのなぁ、熱中症でいちばん怖いのは水分不足なんだからな。脱水症状は酷くなると死ぬんだぞ。わかってんのか、おまえ」


「それもこれもすべて、暑いのが悪いと思う」


「自然環境に文句つけんなよ。ほら、飯食いに行くぞ。弁当は?」


「ない」


「……だと思ったわ。じゃあ購買だな。今日は食堂やってないらしいし」


 まさか金は、と疑わしそうな目を向けてきたので、俺はポケットからICカードを取り出してみせた。現金はないが、こと日常においてはすべてこれで賄える。


「交通機関もコンビニも自販機も、これ一枚。なんて便利な時代なのかな」


「なら買えよ。自販機で」


「売り切れてた」


「だめじゃん」


 よろよろと立ち上がり、隼にもたれかかりながらも歩きだす。


「ほんっと……なんでこんな暑いなか運動しなくちゃいけないの……」


「夏場の屋上もたいして変わんなくね?」


「いや、変わるね。むしろ天と地の差。あそこはわりと涼しいんだよ」


 それに、部活が始まるのは夕方からだ。

 長大な桜の木のおかげで大部分が日陰になっているし、アスファルトにありがちな太陽の照り返しもない。実際、そこまで暑さは感じないのである。

 さすがに天気が芳しくない日は屋内のどこかに場所を移すが、人が滅多に来ないあの場所はなにかと快適なのだ。多少の寒暖は妥協するべし。


「ま、でも楽でいいだろ、高校はさ。中学んときみたいなガチっぽさはないし」


「走るじゃん」


「そりゃな。緩いだけマシだって。こういうのは楽しんだもん勝ちだ」


「そんな考えできてたら、そもそもこんなにダメージ食らってないでしょ。運動ってだけで地獄なのに。……はあ、俺も応援団がよかった」


 あ? と、隼が奇妙な顔をしながら器用に片眉をつりあげる。


「結生って、ああいう熱血な方が苦手じゃね?」


「腕を振り上げずにテントの下でただ応援するだけの応援団ならマシ」


「なんだそれ。んなの外野だろ、ただの」


「……小鳥遊さんはそれが競技って言ってた」


 わけわからんと隼が肩をすくめる。


「ほんとおまえ、小鳥遊さん好きな」


「本部の横のテントにいるって」


「じゃあ委員かなんかじゃねえの。救護係とか」


 ああなるほど。それは盲点だった。言われてみればそうかもしれない。


「隼って、たまに頭いいよね」


「たまにって言うなよ。いちいち失礼なやつだな」


 はあ、と大仰にため息を吐きながら、隼は俺を振り払う。


「俺は頭がいいんじゃなくて、たんに視野が広いんだ。おまえと違ってな」


「ふうん。どうでもいいけど」


 ようやく校舎に辿り着き、強烈な日差しから逃れた俺と隼。

 そのまま購買部へ向かうけれど、さすがに昼時なだけあって、入り口からすでに人でごった返していた。もうそれだけで憂鬱さが倍増しする。


「うっわ……これ入るの無理」


「ササッと行くんだよ、ササッと。素早くな。まあおまえには無理だろうけど」


「馬鹿にしてる」


「おう、してる。しゃーねえから買ってきてやるよ。おにぎりでいいか」


「うん」


「具はなんでもいいよな」


 やはり究極の世話焼きだ、と俺はぼんやり思う。

 バスケ部のエースらしく筋肉質でなかなかガタイのいい体型をしているのに、スルスルと人混みを掻き分けてなんなくおにぎりを強奪していく。

 その様子を遠くから眺めながら、俺は素直に感心する。

 俺には絶対にできない。

 この人混みに飛び込んだが最後、四方八方から押し潰されて終わる。

 出てきた頃にはすりおろし大根か薄切り大根になっているだろう。間違いなく。


「体育祭んときくらい、みんな弁当持ってくりゃいいのにな」


「隼みたいに自分で作れる人は早々いないから」


 やがて戻ってきた隼がぶらさげる買い物袋のなかには、おにぎりの他にもいろいろと余分なものが入っていた。緑茶に煎餅にチョコレート。そしてアイス棒ふたつ。


「これ、おまえの奢りな。煎餅とアイス。パシリ代ってことで」


「……べつにいいけどさ」


 昆布とおかかのおにぎり。麦茶ではなく緑茶。パフ入りの一口チョコレート。

 なんでもいいとか言っておいて、俺の好みを完全に把握したチョイスだった。

 さすが無駄に付き合いが長いだけある。


「どこで食うよ? 教室? 中庭?」


「混んでないとこ」


「んなとこあるかぁ?」


「こういうときこそ屋上庭園でしょ」


 はあ、と隼が曖昧に相槌を打つ。しかしすぐに「いや待て」と鷹揚に腕を組んだ。


「閉まってんだろ、今日。わりとあちこち閉鎖されてるし」


「俺を誰だと思ってんの」


 制服のポケットからそれを出して見せると、隼は瞠目した。


「屋上庭園の鍵くらい持ってるに決まってんじゃん。あそこ管理してるの俺だし」


「うっわ。おまえマジかよ」


「うちの顧問、放任主義だから。部長権限ってやつだね」


 閉められているのなら開ければいい。

 俺は正式な許可を得て、鍵を所有する者なので。

 なぜか引き気味の隼を連れ立って、通い慣れた屋上へと向かう。

 もう二年以上も入り浸っていることを思えば、やはりあの場所は相当に居心地がいいのだろう。家のアトリエよりもよほど落ち着くし、今年で卒業してしまうのがもったいないくらいだ。

 屋上へ繋がる階段をあがっていくと、ふと上から声が聞こえてくる。扉の前で女子数名が屯っているのが見えて、一瞬、足が止まりそうになった。


「ん? 先約か?」


「……いや」


 しかしながら、なんとなく予感を覚えた俺は、構わず階段をあがる。

 そこにいた三人の女子がこちらに気づいて振り返り──そのうちのひとり、小鳥遊さんが「先輩!」と目を丸くしながら驚いたように声をあげた。

 やっぱり、というか……案の定、小鳥遊さんだった。なんとなく聞こえてきた声のトーンで気づいてはいたが、まさかこんなところで会えるなんて。

 自然と心が浮き上がるのを感じながら、俺はちらりとうしろのふたりを見る。


「……友だち?」


「あっ、はい! 円香とかえちんです!」


 なんとなく聞き覚えのある名前に「ああ」と首肯する。

 よく小鳥遊さんの話に出てくる人たちだ。

 ひとりは、いかにも大人しそうな丸縁眼鏡の女の子。もうひとりは、日に焼けた肌とボブヘアがなんともボーイッシュな雰囲気を醸し出す女の子。

 俯瞰してみると、三人の印象はまったく異なる。

 中心に挟まれている小鳥遊さんと並ぶと、だいぶちぐはぐな組み合わせだった。


「は、初めまして、春永先輩。鈴ちゃんからかねがねお話は聞いてます」


「そりゃもう耳にタコができるくらいにねぇ。初対面なのにまったく初めてな感じがしないし。……あ、うちの鈴がいつもお世話になってます、春永先輩」


 おそらく前者が『円香』さんで、後者が『かえちん』さんだろう。

 そう見当づけながら、俺はひとこと「よろしく」と平坦に返した。


「あの春永先輩、そちらは……?」


「そちら?」


「俺だろ。忘れんなよ、バカ」


 背後からバシッと頭をはたかれて、俺はようやっと隼の存在を思い出す。

 珍しく静かにしていたから、真面目に忘れかけていた。


「あー……えっと、隼。俺の幼なじみ」


「おう、よろしくな。小鳥遊さんは久しぶり」


「はい、ほんとお久しぶりですね。相良先輩」


 部活中、たまに気を利かせた隼が差し入れを持ってくるから、いつの間にやら顔見知りになってしまったふたり。

 否、気を利かせたとは建前だ。以前『おまえの初恋相手に興味がある』とサラッと暴露してきたこともあり、俺はいまだにこのふたりを会わせたくない。


「……で、なにしてるのこんなところで」


「あっ私たち、屋上でご飯食べよっかなぁって……まあ、思ってたんですけど。御覧のとおり閉まってて。どこで食べようかって話してたところです」


 なるほど、俺たちと同じ口か。

 さすがに毎日同じ場所で活動しているだけあって、思考回路が被ったらしい。

 体育祭の相乗効果でやたらと騒がしい校内。そんななか、落ち着いて食べることができる場所と言ったら、やはりここに限る。ただし、美術部員限定だけれど。

 たったそれだけのことに心が浮き立つのだから、俺もたいがい単純だ。

 そう思いながらも、ふふんと得意げに鍵を見せてみる。

 あっ、と小鳥遊さんがわかりやすく大きな目を輝かせた。


「せっかくだから、一緒に食べる?」


「いいんですか!?」


「そっちがよければね」


 バッと勢いよく友だちの方を振り返る小鳥遊さん。彼女たちはもうすでにわかっていたようで、そろって苦笑しながら了承の意を示した。


「せっかくだから、お言葉に甘えさせてもらおっか」


「ま、鈴が先輩を前に釣られないわけがないしね」


「やった、ふたりとも大好き!」


 いい友だちなんだな、と思う。見ているこちらも微笑ましい光景だ。

 ただ、小鳥遊さんが同性の友だちと仲良くしているところを見慣れないせいだろうか。少し背中がむずむずして、もどかしいような心地もする。

 俺に向けられる笑顔とは、また違った素の一面に触れたからかもしれない。


「隼もいいよね」


「聞く気ないだろ。べつにいいけどさ」


 隼はジトッと俺を見て、口をへの字にした。

 なんだかんだ俺に甘い隼が断るはずもない、という勝手な算段だが、実際男ふたりで食べるよりは女子も一緒の方が華やかになるだろう。

 まあ、これが小鳥遊さんじゃなければ、誘っていなかったけど。

 さっさと屋上へと繋がる扉を開けて、五人そろって庭園へと降り立つ。

 中心にそびえる桜の大木の麓は、やはり木陰になっていた。

 全員もれなくジャージ姿だし、多少は汚れても構わないからと、アスファルトの地面に直接座ることにする。ベンチもあることにはあるが、あちらは日光に近くて暑い。


「思ってたより涼しいね。影なだけでこんなに体感温度違うんだ」


「そうそう、根元はまったくお日様当たらないから。夕方はもっと涼しくなるよ」


「というか屋上庭園ってこんな感じだったんだね。あたし何気に初めて来たわ」


 きゃいきゃいと楽しそうに話す女子たち。なんとも無邪気に相好を崩している小鳥遊さんを眺めていると、つい俺まで笑みを誘われそうになる。

 実際少し笑っていたのか、隣に座る隼が実にげんなりとした顔で俺を見てきた。


「視線がクッソ甘え。なんかおまえが笑ってると鳥肌が立つんだけど」


「ひどい言い草。俺だってたまには笑うよ」


 隼いわく、俺は元来『表情筋が死んだ男』らしい。

 そんな俺がこんなふうに他人の会話に和んでいる時点で、幼なじみとしては気味が悪いんだろう。心底、余計なお世話だが。

 でもたしかに、以前は有り得なかったことだなとも思う。

 人は不思議だ。胸に抱く気持ちひとつで、こんなにも変わってしまうのだから。


「あれ、小鳥遊さん昼飯それだけなの?」


 不意に、隼が尋ねた。

 その視線を追うように小鳥遊さんを見る。彼女の手に握られていたのは、飲むタイプの簡易ゼリー食。栄養補助食品、という言葉が脳裏をよぎる。


「私のお昼はいつもこれですよ。今日はね、りんご味なんです。お気に入りで」


 むふふ、と満足気に見せびらかす小鳥遊さん。

 隼は「こらこら」と苦笑いを零す。


「育ち盛りなんだから、ちゃんと食わねえとだめだろ。とくに体育祭なんてエネルギー必要とする日にそんなんだけじゃ、フツーに倒れるぞ?」


「大丈夫ですよ~。私、あまり体を動かさないですし」


「んなこと言ってもなあ。ただでさえ小鳥遊さん細いのにさ」


「あっ、ピピーッ! 相良先輩アウトー今のセクハラ発言でーす」


 ビシ、と警官の真似事をしながら指を突きつけたのは、かえちんと呼ばれた彼女だ。

 レッドカードを出された隼は、やや強張った顔で眉尻を下げる。


「セクハラ……て、そういやふたりの名前知らねえな。円香さんとかえちんさん?」


「あっ、わたしは綾野です。綾野円香」


「あたしは岩倉楓。かえちん呼びは鈴の専売特許なのでやめてくださーい」


「綾野さんに岩倉さんね。つか岩倉さんキャラ濃いな。大変だろ、綾野さん」


 大人しそうな綾野さんへ、あからさまな同情を向ける隼。天真爛漫な小鳥遊さんと自由気ままな岩倉さんに挟まれれば、たしかに落ち着く暇はなさそうだ。

 けれど、彼女は「いえいえ」と朗らかに顔の前で軽く手を振った。


「鈴ちゃんも楓ちゃんも、すごくいい子ですから。毎日楽しいですよ」


「ふぅん? そんなもんか。いいねえ、JKは」


「……さっきから、なんか発言がおっさんくさいよ。隼」


「はあ? 先輩らしいの間違いだろ」


 若干的はずれな先輩像をため息で流して、俺はおかかのおにぎりに喰いついた。


「あ、ユイ先輩いいですねえ。おにぎりですか」


「……食べる?」


「ふふ、いえいえ。先輩こそちゃんと食べなきゃだめです。もっと体力つけなきゃ!」


 それを指摘されるとつらい。わりと、結構深く、胸がえぐられる。

 しかしすぐに、小鳥遊さんが笑ってくれるならなんでもいいか、と思い直した。

 こうして他でもない自分へ向けられるささやかな笑顔に、逐一、明確な理由を求めたくはない。


 ──けれどいつか、俺がその笑顔を引き出してみたい、なんて。


 そんなことを真面目に考えてしまうくらいには、俺は小鳥遊さんに溺れているのだ。



 午後三番目の競技で行われた、地獄の徒競走。

 直前まで死んだ魚の目をしていた俺は、隼に臀を叩かれて嫌々ながら出場した。

 無論、大敗。

 カッコいいところを見せたいなんて、しょせんは願望だ。現実はそう甘くない。しかも最後の最後で思いきりずっこけて、小学生男子さながら典型的な膝怪我を拵えた。

 ここまでくると、もう羞恥どころの話ではない。他の誰に目撃されたところで気にやしないが、ただひとり、小鳥遊さんだけは見られたくなかった。

 さっきは理由なんて求めないと思っていたが、前言撤回しよう。こんなどうしようもないことで笑われるのは、さすがに堪える。


「……あの」


「は、はい? えっあっ、春永先輩……」


 ショックに打ちひしがれながらとぼとぼと救護室までやってきた俺は、そこにいた体育祭の運営スタッフらしき女子生徒に声をかけた。

 彼女は俺を見るなり、あからさまにぎょっとして後ずさる。


「あー、えっと」


 なぜか俺は、校内でも怖がられている節があった。無駄に名前を知られていることが追い打ちになっているのか、根も葉もない噂が常に飛び交っている。

 銀髪だからか。恐喝されるとでも思うのか。

 まあ小鳥遊さんは気にもしていないようだし、べつに、どうでもいいのだけど。

 ちらりと周囲を見回してみるが、近くに小鳥遊さんの姿は見当たらない。


「あ、け、怪我されたんですね!」


 ようやく俺の足の怪我に気がついたらしい彼女が、慌てたように立ち上がる。


「いや、それよりさ。小鳥遊さん、知らない?」


「へ? た、小鳥遊さん……?」


「背が小さくて、髪が長くて、色白な子。あと……明るくて、元気」


「ああ!」


 それで伝わってしまうのだから驚きだ。外見的特徴がありすぎるのか、はたまた小鳥遊さんの存在感が強いのか。少し考えて、どちらもだなと結論付ける。


「鈴先輩なら、さきほど保健室に……」


「保健室?」


「は、はい。なんだか具合が悪そうで、途中でお友だちの方が連れていかれました」


 それより足の怪我を、とおそるおそる手当てを施そうとする女子を制する。

 小鳥遊さんを先輩と呼んだからには、この子はきっと一年生だろう。

 なるべく怖がらせないように気をつけながら、穏やかな声音で「大丈夫」と諭した。


「保健室、行くから」


「え? で、でも、先生いませんよ?」


「平気。ありがとう。暑いけど、仕事頑張って」


 それ以上引き止められないように、俺はサッと踵を返した。

 ……具合が悪い、と彼女は言った。

 昼間は元気そうだったのに、午後をまわって熱中症にでもなったのだろうか。

 いつも明るく元気なイメージはあるが、小鳥遊さんはああ見えて、あまり体が強くないのだろう──と思う。憶測に過ぎないが、ときおり俺でも心配になるくらい顔色が悪いことがあるし、定期的に早退していたりもする。

 つねに笑顔を絶やさないから、なんとなく誤魔化されてしまいそうだけれど。

 保健室へ向かう足が、自然と早くなる。

 校舎を突っ切り、最短距離で保健室前まで辿り着く。

 気が急いてノックもなしに扉を開けようとした瞬間、俺の目の前で扉がガラッと勢いよく開いた。さすがに驚いて、俺は伸ばした手をそのままに硬直する。

 そこに立っていたのは小鳥遊さん、ではなく。


「……榊原さん?」


「結生……なんでここに」


「なんでって、小鳥遊さんが保健室にいるって聞いて。そっちこそなんで」


 あまりに予想外の人物だった。

 やや遅れながらも状況を吞み込んで、俺は訝しく眉を顰める。

 すると、榊原さんはハッとしたように背後を気にした。その視線を追いかけようとした矢先、唐突に胸部に衝撃が走る。榊原さんにドンッと強く押されたのだ。

 数歩よろけながらも、なんとか転ばないように耐える。

 ほぼ同時に保健室から出てきた榊原さんが、俺を睨みつけながらうしろ手にピシャリと保健室の扉を閉めた。シン、と一瞬にして場の空気が凍りつく。


「……なんのつもり」


 自分でも驚くほど低い声が落ちる。


「っ……あなたをここに入れることはできないわ」


「なんで」


「なんでも。あの子のことを想うなら諦めて」


 あの子、とは小鳥遊さんのことか。

 榊原さんは、一応、俺の元カノに当たる人物だ。

 だが、正直、元カノと呼べるほどなにかをしたわけでもない。付き合っていたらしい当時は、俺自身その自覚もなかったくらいだ。

 けれど、ゆえにこそ、傷つけてしまったという負い目はある。

 だから俺は、榊原さんを無碍にできない。

 とはいえ、彼女が小鳥遊さんになにかと突っかかっていたことは、ずっと気にかけていた。そのうえでこの奇妙な反応となれば、後ろ暗いことがあるのではと疑うのも無理はないだろう。しかも、今の小鳥遊さんは具合が悪いのに。


「……なにか、したの?」


 すうっと心が冷え切っていくのを感じながら、問いかける。


「はあ?」


「彼女になにか危害を加えたら、許さないよ」


 もしも榊原さんが小鳥遊さんにしたことを隠そうとしているのなら、俺は無理にでも彼女を押しのけて小鳥遊さんの元へ行かなければならない。

 そんな気迫に圧されたのか、榊原さんは呆気に取られたような顔をした。

 けれど、すぐに切なそうに眉をキュッと寄せて顔を俯ける。


「ふうん。結生には、あたしがそんなふうに見えてるのね」


「……なに?」


「べつにいいわよ、あたしのことはどう思ってても。もう終わったことだし。……でもね、これだけは言わせてもらうけど。今のあたしはあの子の手助けこそすれ、危害を加えるなんて馬鹿なことはしないわ」


 手助け、とはなんのことか。今度は俺の方が面食らって両目を眇める。


「なんでもいいけど、どいてくんない?」


「寝てるのよ。今はゆっくり寝かせてあげて」


「……べつに起こさないし」


「起きるわよ、あの子は。とにかく、その膝の怪我は救護室で手当してもらって。先生いないし、勝手に保健室の道具使ったら怒られるわ」


 膝の怪我なんて、とうに忘れていた。

 そんなことより今は、小鳥遊さんの様子を確認しないと気持ちが落ち着かない。


「……本当に、大丈夫なの?」


「ええ。少し体調が悪そうだったから、保健室に連れてきただけよ。ちょっと疲れが出ただけみたいだし、しばらく休めば大丈夫だと思う。一応、先生からお家の方へ連絡はしてもらうけど」


 驚いた。

 小鳥遊さんを連れて行ったという友だちは、まさかの榊原さんだったのか。


「あ、そう……ごめん、疑って」


「もういいわよ。あたしが前にあの子をいびってたのは事実だし、自業自得って思うことにするわ。断じて今はそんなことしないけど」


 ツンとそっぽを向いた榊原さんの口調には、わずかに後悔の色が混ざっているような気がした。どこか思い詰めているようにも見える。

 いったいどんな心境の変化なのだろう。やっぱり女子は、よくわからない。


「じゃあ、また後で来るよ。体育祭が終わった頃に」


「そうして。その方があの子も落ち着くでしょうしね。ほら、わかったら戻るわよ」


 ……こんな子だっただろうか。

 さっさと俺の横をすり抜け、すたすたと歩いていく榊原さんを目で追いかけながら、ぼんやりとそんなことを思う。

 ──他人に興味がない。

 この言葉を俺に当て嵌めるなら、そこに『生き様』が付随する。他人の生き様にまったくもって、心底、関心がない。どうでもいい。

 なぜ、と訊かれても困る。それに理由なんて大仰なものはないのだ。

 たんに、自分以外の人間がこの世でどんな生き方をしていようが、俺にはなんの関係もない。そう思うだけ。むしろ、なぜそんなに他人に興味や関心を得られるのかの方が気になる。他人なんて、しょせん、他人なのに。

 義務的なこと以外でクラスメイトと話すこともないし、そのせいで怖がられるのだろうとは薄々気づいてはいるが、それでもなお変わろうとは思えなかった。

 ──けれど、小鳥遊さんと出逢ってから、ほんの少しだけ。

 なんとなく、他人のことが気になるようになってきたような気もするのだ。


「ねえ、榊原さん」


「なによ?」


 俺の呼び掛けに振り返る榊原さんの顔は、無表情なようで暗澹としていた。

 その向こう側に潜んでいるものの影が、なんとも背筋をぞくりと這いずり怖気を生む。この色が掴めない感じは、小鳥遊さんに関係しているからか。


「俺は、小鳥遊さんのことが好き。……だと、思うんだけど」


「だと思うってなによ。てか、なんでそれをよりにもよってあたしに言うの?」


 はぁぁぁあと深く嘆息して、榊原さんがげっそりしながら頭を抱える。


「……君が、前に俺のことを好きって言ってくれたから」


「っ……」


「すごく遅くなったけど、ちゃんと返事はしないといけないのかも、と思って」


 俺はこれまで、他人からの好意を受け流していた。その好意を肯定することも否定することもなかった。結局は関係のないことだったから。

 でも、この『好き』という言葉は、一方的か否かで大きく形が変わるものらしい。

 つい最近、それを知った。

 自分自身で経験して、ようやく理解した。

 そうして、思い至ったのだ。どちらとも取らず泳がせておくことは、自分にとっても相手にとっても、あまりに残酷なことなのではないかと。


「ごめんね、榊原さん。俺はずっと、君にひどいことをしてたね」


 ただただ気持ちだけを宙に彷徨わせたままでは、いずれ、迷子になる。

 たぶん俺は、そんな終わりのない苦行を、延々と迷い彷徨わせるようなことを、榊原さんにしてしまっていたのだろう。

 今さら謝ったところで、困らせるだけかもしれないけれど。


「わからなかったんだ、ずっと。人を……誰かを想っているときの、心っていうか。そういう繊細な部分が、理解できなかった」


「…………」


「正直、今も、わからないことの方が多いけど。俺には難しいなって、いつも思ってるけど。でも、なんとなくね。この好きって気持ちは……君が俺に向けていてくれた想いは、もっと丁寧に扱わなくちゃいけないものだったのかなって、そう思うよ」


 俺にしては多弁に、ゆっくりと時間をかけながら言葉を紡ぐ。


「遅くなったけど、俺のこと好きになってくれて、ありがとう」


 ──それから、


「ごめんなさい。君に、好きを返せなくて」


 その瞬間、俺のなかで、はっきりとなにかが変わったような気がした。

 俺は、小鳥遊さんが好き。

 そう確信した、とでも言うべきか。


「……なにそれ」


 榊原さんはじっと俺を見つめて、一瞬だけ瞳を左右に揺らした。


「本当、今になって言うことじゃない。あまりにも遅すぎるでしょ……」


「うん。ごめん」


「……でも、ありがと。今さらでも……これできっと、前に進めるわ」


 その瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。初めて真正面から向き合って、ハッキリと榊原さんの瞳の色を見た気がした。熟して地面に落ちた栗の色だ。


「ねえ、結生。あなたはたしかに変わった。本当に人間らしくなったと思う」


「……ん、やっぱり人間らしくなかった? 俺」


「まったくもってね。けど、そんなあなたを、あたしは変えられなかった。それが答えなのよ。どんなに好きでも、心に手が届かなければ意味がないんだから」


 そう告げながら、榊原さんはツカツカと俺のもとに歩み寄ってきた。

 かと思ったら、いきなりぐいっと胸ぐらを掴まれる。


「っ、え」


 体が勢いよく前方に傾いた。

 突然のことに反応できず、ただされるがままになる俺を間近で覗きこんでくる榊原さん。目前に迫ったのは、見たことがないくらい真剣な表情だった。


「よく聞いて、結生。──もしもあの子のことが本気で好きで、大切で、これからも変わらず関わっていくというのなら……ちゃんと覚悟を決めなさい」


「……か、覚悟って、なんの」


「人を想う覚悟よ。あなたが、ひとりの人間として、自分ではない誰かを心の底から想って生きていく覚悟。あのね、人を想うってそんなに簡単なことじゃないの。幸せなことばかりじゃない。あたしを見れば、わかるわよね?」


 こくり、と俺は曖昧に顎を引く。


「出逢いはたしかに変わるきっかけになる。けれどね、自分が変わりたいと思わなければ変わることはないの。人の本質は確固たるものだから。そのうえでどう変化していくか、どう受け入れて馴染んでいくかは、自分次第よ」


 榊原さんの言葉は難しくて、俺にはその真意をすべて読み取ることは困難だった。

 されど、今、彼女がとても大事なことを伝えようとしてくれているのはわかる。

 ひとつとして取り零してはならない、俺に必要な『なにか』がそこにあるのだろう。


「だから、ちゃんと自分と向き合って、ちゃんと変わって。結生」


 ──けれども、はたしてそれは、人形の俺に理解できることなのか。


「俺は……変わらないといけないの」


「さあね。でも、変わらないときっとあの子には近づけないわ」


 意味深にそうつぶやいて、榊原さんはゆっくりと俺の胸ぐらを解放した。


「正式にフラれたからには、あたしは小鳥遊さんを応援する。女々しく結生のことを想い続けたりはしないから、安心してちょうだい」


「っ……」


「大事にしてあげて。彼女を幸せにできるのは、あなたしかいないんだから」


 消え入りそうな声でそう言い落とし、榊原さんはふたたび歩いていく。

 そのうしろ姿を見送りながら、俺は茫然とその場に立ち尽くした。

 なんて強い子だろう。

 そう思いながら、次に顔を合わせたときにかける言葉を見つけられない。

 俺がもし榊原さんの立場になったら、同じことを小鳥遊さんに言えるのだろうか。

 今でさえ右往左往して、迷ってばかりなのに。


「……どうして、そんなに悲しそうなの」


 彼女の声音に含まれた憂いは、フラれたことによるものではない気がした。

 引き留めて尋ねたくても、喉の奥に引っかかって声が出てこない。

 だって、今のはきっと俺と小鳥遊さんへ向けられたものだ。

 俺しかいないってなんだ。

 俺なんかじゃ、むしろ心配になるのではないのか。

 わけがわからない、と俺は俯きながらぎゅっと拳を握りしめた。


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