第一章 「今日も今日とて、大好きです。」
──月ヶ丘高校の屋上には、樹齢百年を超える桜の大木がある。生徒から屋上庭園と呼ばれているそこは、しかし庭園とは名ばかりのただの広場だ。
木の麓を囲むように、ところどころ表面が剥がれた木製のベンチが四つ。
そのうちのひとつ、入り口から向かって左側のベンチに座る彼を見つけて、私はタッと駆け寄った。
「こんにちは、ユイ先輩」
にこりと口角を上げて声をかける。が、反応がない。ふむ、と少しその場で思案した私は、そのままそろそろと先輩の背後へと回り込んだ。
「ゆーいせーんぱい」
先輩の肩口から顔を覗かせながらそう呼べば、ユイ先輩はビクッと肩を揺らして勢いよく顔をあげた。
危うく頭突きを喰らいそうになり、とっさに体を横へずらして避ける。
「珍しい。二回目とはいえ、先輩が絵描いてる最中に私の声に反応するなんて」
よほど驚いたのか、使い込まれて芯の短くなった鉛筆が先輩の手から抜け落ちた。
カランコロンと軽快な音を立てて、それは石畳を転がっていく。
「小鳥遊、さん」
午後五時前の黄昏時。五月に入り、だいぶ日が伸びてきたとはいえ、この時刻になると空は薄青から稲穂のような黄金を孕む。地平線近くは群青が見え隠れしていた。
「うわ。先輩ってほんとに綺麗な顔してますね」
「え」
「すみません、思わず」
夜空に浮かぶ月に似た白銀の髪が、柔らかい黄光を弾きながら流れた。その下から覗いた色素の薄い瞳が私を捉えて、なんとも戸惑いがちに揺れる。
桜の木以外はとくに見どころもない屋上は、日頃から生徒が来ることもほぼない。
それはひとえに『春永結生が部活動中は立ち入るべからず』という暗黙の了解があるからだが、残念ながら本人はそのことをまったく知らないようだった。
「……小鳥遊さん」
「はい。こんにちは、ユイ先輩」
確認するような口ぶりに倣って、私もさきほどと同じ言葉で返してみる。
転がった鉛筆を拾いあげながら前に回り込むと、ユイ先輩はようやく時を取り戻したのか、ぱちぱちと双眸を瞬かせた。
第二ボタンまで空いた白シャツに、オーバーサイズの黒ベスト。黒と白とその中間色しか持たない彼は、まじまじと私を見ながら信じられない言葉を口にした。
「君、学校やめたんじゃなかったの」
「えっ、いつの間にそんな突拍子もない話に」
今度は私が驚く番だった。やめた、とはまた心外な。
「……。わかんない。どうしてかな。そう思い込んでた」
「えー、なんですかそれ。相変わらず先輩ワールド絶好調だなあ」
ユイ先輩こと、春永結生。ここ、月ヶ丘高校の三年生。八割が幽霊部員の美術部における部長であり、業界では知る人ぞ知る天才高校生画家だ。
否、正しくは『天才モノクロ画家』。
彼は、鉛筆一本のみであらゆる世界を明瞭に映し出す鉛筆画を得意とし、いっさいパレットを持たない画家として名を馳せている。
というのも、毎年行われる学生絵画コンクール──全国の若き画家たちがこぞって腕を奮うこのコンクールで、先輩は輝かしい経歴を残しているのだ。
それも激戦区と恐れられる関東地区において、中学部門で三年間連続金賞受賞。その後、高校部門へ移り、現在二年連続金賞受賞。
今年のコンクールも春永結生が金賞だろうと、誰もが信じて疑わない。名実ともに天才の冠を被り、頂点に君臨し続けている学生画家の王さま。
そんな彼は、高校に進学するや否やなぜか奇抜な銀髪男子となり、いまだに四方から『グレたのか?』と、まことしやかに囁かれているけれど。
まあ、見ての通り、まったくそんなことはない。
「でも、うん。新学期早々、まるまる一ヶ月も休んだら、そりゃあ退学したって思われても仕方ないですね。すみません、なんの連絡もせずに」
「……や、べつに」
実際のユイ先輩は、ひとことでは言い表せない不思議な人だ。
内面的な天然さは元より、特筆すべきは、ふっと気を抜いたら瞬く間に空気に溶けて消えてしまいそうな儚い雰囲気だろうか。
まるで作り物のように端正で中性的な容姿。低すぎず高すぎない耳心地のいい声。
ワンテンポ挟んだ話すトーンの緩やかさはどうにも調子を崩されるが、慣れてしまえばそれこそがユイ先輩だと思わせられる。
そんな、己の世界が完璧に確立されている人。
「勝手にやめたと思ってたのは、俺の方だし」
「あ、わかっちゃいますよ、私。ユイ先輩、今ちょっと怒ってるでしょ」
「怒ってない。たぶん」
「たぶん」
こんなモテ要素を詰め込んだユイ先輩の周りに、驚くほどミーハーな女子たちが集まらないのは、鉄壁のような無表情が標準装備だからだ。
それはただ、不器用ゆえのものだと私は知っているけれど、なんとなく話しかけづらいんだろうな、と思う。銀髪だし。本人は無意識のようだが、いつも冷たい氷を纏っているような雰囲気を醸し出ているから、なおのこと怖がられてしまうらしい。
他ならぬ私だって、最初は大いに戸惑ったものだった。
「ごめんなさい、先輩。ちょっとままならない事情がありまして」
「……芸術とも取れない、その斬新なデザインの前髪と関係ある?」
「あ、そこ聞いちゃいます? みじんも関係ないですけど」
じっ、と。濁りのない澄んだ眼差しを向けられて、私はついたじろいでしまう。露わになった額を両手で抑える振りをして顔を隠しながら、たははと笑ってみせた。
「違うんですよ。こんなに短くするつもりはなかったんです。ただ、ちょーっと手が滑りまして」
私の前髪はいま、右側が極端に短く左側が長い状態だ。流行りのアシメだと誤魔化せないほど急な下り坂状態の前髪を見て、友だちの円香とかえちんはこう言った。
『お、思い切り具合が素敵だね、鈴ちゃん』
『さすが芸術家だよ。その発想はないわ』
私もない。言うまでもなく、思い切ったわけでもない。
いくら筆が乗らなくとも、髪をじぐざぐに切るなんて奇行には走らない自信がある。
長い髪が好きだという先輩の好みに合わせて伸ばしているのに、せっかくの努力が危うく水の泡になってしまう。
「直す暇もなかったんですよ。もう今日一日めちゃくちゃ恥ずかしくて」
「まぁ……いずれ伸びるだろうし、慣れればそのままでいい気もするけど。でも、そんなに気になるなら切ってあげようか」
「えっ」
「……よけいなお世話なら、」
「じゃないっ! なわけない!」
グイッと食い気味に否定すると、先輩はわずかに眦を下げながら苦笑した。
「必死」
「だ、だっていいんですか? 先輩の天才的な手腕を私に施したりなんかして……!」
「大袈裟でしょ。絵と散髪は違うし」
ベンチから立ち上がったユイ先輩は、私が手に持ったままだった鉛筆を抜き取ってキャンバスの横に置いた。まだアタリしか描かれていないモノクロのキャンバスだ。
今さらながら、はて、とささやかな疑問を浮かべる。
「あまり筆が乗らなかった感じです?」
「……まあ、ね」
一瞬の間ののち、ユイ先輩は小さく肩をすくめた。
「ハサミ、教室に行けばあるかな」
「あ、私持ってますよ。筆箱にいつもいれてるから」
「じゃあ、貸して。あといらないプリントがあればそれも」
「はーい」
言われるがまま、スクールバッグからハサミとノートを取り出して先輩へ手渡す。
中指にペンだこが拵えられたユイ先輩の骨ばった指先は、それでも色が白くて綺麗に見えるから不思議だ。私のかさついた手とは比べ物にもならない。
「元がその形じゃ限界があるけど……リクエストは?」
「お任せします。見た感じ、おかしくない程度に直してくれれば充分です」
「了解」
ベンチに座ると、おもむろにプリントを持たされた。
どうやらこの上に切った前髪を落としていくらしい。幸い今日は風もほぼ吹いていないから、飛んでいってしまうこともないだろう。
「……それで。君の休んだ理由、ままならない事情っていうのは言えないことなの」
「え。知りたいですか?」
ちょきん、とハサミの先が額の上で動くのを上目遣いに見ながら聞き返す。
「知りたいわけじゃないけど」
「ふふ、ならいいじゃないですか。たいした理由でもないんですよ」
ハサミの向こう側に見えるユイ先輩の顔は、相変わらず無表情だ。
でも、ほんの少しだけ拗ねているような気もする。ここ一年、毎日のように部活で顔を合わせていたおかげで、だいぶ理解できるようになってきているらしい。
「やめませんよ。ユイ先輩がいるうちは」
「……ふーん」
「ふーんて」
くすくす笑うと、ユイ先輩も無症状の顔にわずかながら微笑を滲ませた。
そんな些細な変化ひとつに心拍数が上がる。
ずるい、と。そう思ってしまう。
「次からは、連絡すること」
「はぁい。でも私、先輩の連絡先知らない」
「…………」
前髪を切る手がぴたりと止まり、珍しくユイ先輩が硬直した気配がした。
「そう、だっけ」
まさか、連絡先を知らないということすら認識されていないとは。
上げては落とされる。慣れてはいるが、つい苦笑いを浮かべてしまいながら、私はわざと唇をとがらせて見せた。
「先輩ったらひどいなぁ。私の気持ち知ってるくせに」
「俺はあまりスマホ見ないから」
「わあ現代っ子らしからぬ発言だ」
知っているとも。ユイ先輩に、ハニートラップなんてものは効かないのだ。こちらがいくらあざといことをしたところで、ユイ先輩が興味を持つことはない。
──けれど、それでいい。だからこそ私は、いまもこうしてユイ先輩のそばにいることができるのだから。
「まぁ、先輩って絵を描くこと以外への関心は薄いですもんね」
「……そう?」
「そうですよ。自分の世界に入り込んだら、周りがいくら声をかけようが気づかないし。ほら、食事も睡眠もまともにとらなくなるじゃないですか」
同じ絵を描く者として、没頭してしまう気持ちはわからないでもない。
ただ、先輩の場合はやや……いやかなり、度が過ぎていて。
「本気で絵を描いているときの先輩は、たとえ罵詈雑言を投げかけようが、頭から水をぶっかけようが戻ってこないですからねえ」
「罵詈雑言て。君、もしかして」
「いや、さすがにやってないですよ? やだなあ、先輩ったら。……あはは」
今日みたいに普通に話しかけて気がつく場合は、たんに集中力が切れているときか、あるいは筆が乗らないときか、はたまた他に意識を取られることがあるときだ。
どちらにせよ、大抵のことは右から左に受け流す究極のスキルを身につけている先輩には、比較的珍しい現象かもしれないけど。
「……よし、できた」
やがて満足そうにハサミを下ろした先輩。
ポーチから手鏡を取り出して見てみると、あんなにも歪な形をしていた前髪が綺麗に整えられていた。眉前でも不自然ではない。むしろオシャレだ。
「先輩すごい。美容師さんにでもなるつもりですか」
初めからこの髪型を狙っていたかようなでき栄えに、思わず「ほわー」とほうけてしまう。
「不具合は?」
「ありません! 完璧です!」
ならよかった、とユイ先輩が相好を崩す。
「っ……」
ごくまれに現れる、誰でもわかるような表情の変化だった。
でも、これはなかなかに強烈な一撃だ。なにせ顔がいいから、不意打ちで向けられた側に与えられる破壊力がえげつないのである。
加えて、長い睫毛が瞳に影を落とす様は、あまりにも高校生らしくない。というか、毎朝ビューラーで睫毛上げに奮闘している全女子高生から反感を買われそうだ。
「先輩って、ほんとなんでもできますよね」
しみじみつぶやくと、ユイ先輩はなんとも怪訝そうにこちらを一瞥する。
「そんなことない」
「えー、ありますよ」
「ないよ。……ないから、絵を描いてるんだし」
ほんのわずかながら、ユイ先輩の面差しにしっとりとした陰りが指す。
ハサミを数回動かしながら、ユイ先輩は私の隣に腰を下ろした。
揺蕩う水面のように憂いのある眼差しが、もうほとんど花弁を落としてしまった桜の木へと向けられる。ふっと、先輩の体から力が抜けたのがわかった。
「俺は、小鳥遊さんが思うほど、すごくもなんともないんだ」
「……先輩?」
「君は初めて会ったときから、やたらと俺を買い被ってるところがあるでしょ」
「そう、ですか?」
うーん、と考えるもピンとはこない。はなから私はユイ先輩を常時リスペクトし続けてきているわけだから、多少の課題評価は当然といえば当然なのだ。
「ユイ先輩って、変なところで自信がないですよね」
「え?」
「基本的に、絵を描くこと以外はどうでもいいっていうか……一見、流されるままに生きてる感じですけど、意外と完璧主義じゃないですか」
誰だって得手不得手はあるものだ。
しかしユイ先輩は、自分のできないことに対して、ひどく負い目を感じているところがある。できることをできないことで相殺してしまう、というか。
「……わからない。そう、なのかな」
「少なくとも、私にはそう見えます」
そして絵を描くこと自体に、なにかどうしようもないうしろめたさを抱いている。
胸を張れるほどの実力と経歴を持ち合わせながら、彼はそれをいっさいひけらかさないばかりか、己の栄光に露ほども興味がないのだ。
どうして、とずっと疑問に思っていた。
でも、そこにはきっと先輩しか知らない事情があるのだろう。私の『ただの後輩』という立ち位置では、なかなかその繊細な部分まで立ち入ることは難しい。
「生意気かもしれませんけど、さっきの言葉。絵を描くことしかない、じゃないですからね。できることがあるってすごく特別なことなんですよ、先輩」
「……だとして、君はどうなの」
「え?」
「君も絵を描く人でしょ」
まあたしかに、私も生粋の絵描きだ。ユイ先輩には及ばずとも、絵に関しては並々ならぬ思いがある。特別、と言えば、きっと自分にも当てはまるのだろう。
だが、そこは明確に違う。私と先輩では、はなから比べることはできない。
「私は絵を描くこと自体に、そこまでこだわってないんです」
「……?」
「絵を描くのは──描いていたのは。その先に希望があったからでした。だけどこの希望はもう、仮に私が絵を描けなくなったとしても続くものになったので」
だから本当は、もう絵を描く理由すらない。美術部で唯一と言ってもいいほど真面目に活動していた身としては、たとえ口が滑っても明かせないけれど。
「そういえば先輩。遅ればせながら、今年も金賞おめでとうございます」
ひょいっと立ち上がってユイ先輩と向き合うように振り返ると、唐突な話の転換に先輩は面食らっているようだった。それでも構わず続ける。
「コンクール五年連続金賞ってもう神さまの域ですよね。さすがです」
「……君だって銀賞だったじゃない」
思いがけない返しに、私はえっと大きく目を瞠った。
「先輩、私が銀賞獲ったこと気づいたんですか」
「? そりゃ気づくでしょ。部員の功績くらい、さすがの俺もチェックするよ」
へえ、と心の奥底がそわそわと浮き足立つ。だって、他人への興味が皆無に等しい先輩が、まさか気づいてくれるなんて思っていなかった。
「ふふ」
「……嬉しそうだね?」
「嬉しいですよ。たぶん、ここ数年でいちばん」
一歩、二歩、三歩と足を踏み出して、風雅な桜の大樹を見上げる。
樹齢百年記念で数年前にここへ植え替えられた桜は、きっと他のどの桜よりも空に近い場所にいるのだろう。
天に花を咲かせる薄紅を脳裏に焼きつけながら、私は「先輩」と呼んだ。
「なに?」
「ユイ先輩」
「……聞こえてるって」
私にとって、誰よりも大切な人。
さきほどまでまったく吹いていなかった風が、私と先輩を隔てるように流れていく。いつも通り。久方ぶりでも、変わらない日常。
けれど、きっとそう遠くないうちに終わりを迎える『当たり前』。
爽やかに凪いだ髪が潤みかけた視界を泳ぐなか、私は誤魔化すように微笑んだ。
「今日も今日とて、大好きです」
◇
まだ居残って絵を描いていくというユイ先輩と別れて、私はひとり画材の確認をしに美術室へ向かった。
部活動時間中ではあるものの、すでに閑散としている校舎内。特別教室が集まっている四階の廊下は、とりわけ静けさが際立っていた。
今日も今日とて、私以外の美術部員は帰宅部と一緒に下校しているのだろう。そう思い込んでいたために、美術室の扉を勢いよく開けた私はぎょっとした。
先客がいた。
「えっ?」
見覚えのある人影に、思わず肝を冷やす。
至るところに放置されたままの作品に囲まれながら、窓から差し込む煌々とした茜に背を向けている女子生徒。空気を含んだ肩上の髪がなびき、横顔を晒す。
ゆっくりと振り返った彼女の正体に、私はさらに硬直した。
「……さ、沙那先輩?」
「あなた、学校やめたんじゃなかったのね」
開口いちばん、また突拍子もない発言だ。
もしや私が知らないだけで、そういう挨拶が流行っているのだろうか。
「それ、さっきもユイ先輩に言われたんですけど」
ツンとそっぽを向く彼女は、榊原沙那先輩だ。
緩やかなウェーブを描く亜麻色の髪。赤系アイシャドウが濃いめに施されたメイク。怖いものなどなさそうな、キリリとした顔立ち。なによりその豊満な……胸。
齢十八とは思えぬほど全身から大人の色気を滲ませる沙那先輩は、私を見て隠しもせず鼻白んだ。
「あっ、まさかユイ先輩に変なこと吹き込んだの沙那先輩ですか?」
「言いがかりね。一ヶ月も来てないならやめたんじゃない? って言っただけよ」
「やっぱりそうじゃないですか!」
沙那先輩は、ユイ先輩の元カノだ。又聞きした話だが、私が入学する前、つまり先輩たちが一年生のときに、ほんの数ヶ月ほど付き合っていたらしい。
美男美女。並ぶとすごくお似合いで、ほんの少し面白くない気持ちはある。
だが一方で、引力が強い沙那先輩は悩みがちなユイ先輩を導いていけそうだし、実際相性はそこまで悪くないんじゃないかな、とも思っていた。
まあ、口から流れるように零れ出てくる嫌味の嵐は玉に瑕だけれども。
「……それで、沙那先輩はこんなところでなにを?」
「あなたを待ってたのよ。ここにいれば会えるかなって」
「へ、私ですか?」
思ってもみない返答に毒気を抜かれた。きょとんとしながら聞き返す。
「そうよ。昼間、あなたがいるのが見えたから」
「はあ……」
沙那先輩は、どうやらユイ先輩と親しくしている私が気に入らないらしく、一年生の頃からなにかと突っかかってくる人だった。
美術部員でもないし、私との接点なんてほぼ皆無。
なのに、なにかと絡まれるおかげで、変な親交の深め方をしてしまっている。とはいえ、こんなふうに待ちぶせされるほど仲良くなったつもりはないのだけれど。
「あなた、今日、新学期になってはじめて学校に来たのよね?」
「あ、えっと、まあ」
煮え切らない答えを返すと、沙那先輩は不愉快そうに腕を組んで眉根を寄せた。もともとツリ目がちなこともあり、それだけで威圧感が倍増しになる。
「一ヶ月も姿を見せないと思ったら、突然またやってきて凝りもせず結生のストーカー。いいご身分ね。何様だと思っているのかしら」
おーっと……?
これはもしや、ただ単に嫌味を言われるためだけに呼び出された口だろうか。
「ストーカーだなんて、やだなあ。そんなんじゃありませんよ」
「付き纏ってるじゃない」
「部活動に勤しんでいるだけです」
実際私は、あの屋上庭園以外でユイ先輩と会うことはほぼないのだ。
ユイ先輩は他人と最低限しか関わらないし、猫のように気まぐれな一面を持っているから、放課後以外はどこでなにをしているのか見当もつかない。
そりゃあ、他の人に比べれば相手をしてもらっている自覚はあるけれども。
「……でもあなた、結生が好きなんでしょう?」
直球だなぁ、と私は一周回って感心する。
「好きですけど。それとこれとは関係ありませんよね?」
「あるわよ。結生を傷つける女を、あたしがみすみす見逃すわけがないじゃない」
「えー……沙那先輩ってユイ先輩のなんなんですか……」
常日頃から感じていたことだが、元カノにしては少々執着が過ぎる気がする。
思わず嘆息しながら肩を落とすと、沙那先輩は苛立ったように鼻を鳴らした。
「残念ながらなんでもないわよ、あなたと一緒でね。いまは大事な友人、って立場から言わせてもらってるけど」
「ゆうじん」
「なによ。いいでしょ、それしか関係性が見つからないんだから」
「でも、沙那先輩はまだユイ先輩のこと好きなんですよね?」
「はあ!?」
意趣返しというわけではないが、この機会だ。常々思っていたことを尋ねてみる。
「だから、私が気に食わないんでしょう?」
「ッ、あのねぇ、こっちはもうずっと前に別れてるのよ! 大体フッたのはあたしの方なんだから、人聞きの悪いこと言わないでちょうだい!」
「えっ、そうなんですか!?」
それは初耳だ。正直、あのユイ先輩がフられるという場面をまったく想像したことがなかった。
「考えてもみなさいよ。あの人形が自ら相手をフるなんて労力を使うと思う?」
「にんぎょう……」
「そんな発想すら抱かないわよ。付き合ってって言ったときだって、二つ返事で『いいよ』だったけど、二言目には『俺はなにもできないけど』だし」
ああ、と私は虚空に目をやった。
それは容易に想像できる。ぴくりとも表情を動かさず、わかっているのかわかっていないのかも判然としない感じ。彼特有の、先輩ワールド。
「付き合ってる最中だって、キスのひとつもしたことなかった。彼女なんて名ばかりで、結生があたしを見てくれたことなんて一度もなかったわ」
「……それは……」
「別れるときもそう。『別れて』って言ったら、なんて返してきたと思う? 『うん?』よ。疑問符よ! 付き合ってたことすら忘れてたのよ、あいつ!」
ここまでくると、もはや気の毒になってくる。次から次へと溢れ出てくる愚痴の数々に、私はひたすら同情の目を向けることしかできない。
同じ恋する女の子としては、共感する部分も多々ある。
けれどそれは、結局、私の好きな相手のことなわけで。
複雑だ、となんともあやふやな顔をこしらえていた私に、沙那先輩は吐き捨てるようなため息をついた。八つ当たりしてひとまず鬱憤は晴らしたらしい。
一度大きく深呼吸して荒ぶった息を整えると、改めて私に向き直る。
「……でも、そんな結生が」
キュッ、と。まるで鈍い痛みを堪えるように、沙那先輩が眉根を寄せる。
「あの唐変木の人形が、ここ一ヶ月、ずっと気がそぞろだった」
「へ?」
丁寧にネイルの施された爪先が、柔らかそうな手のひらに食い込んでいた。
「あなたのせいよ、小鳥遊さん」
「……それはまた、どういう意味で?」
責めるような口調と共にキッと睨みつけられ、私はさすがに狼狽えた。
「あなたがいなかったこの一ヶ月、結生は一枚も絵を完成させてないの」
思わず「えっ」と口から素っ頓狂な声が飛び出した。
一日で大作を仕上げてしまうこともある天才画家のユイ先輩が、まさかそんな。
そう思う傍ら、さきほど違和感を覚えた空虚なキャンバスを思い出す。
たしかに、ほぼ白紙だった。
そもそもアタリなんて、ユイ先輩は普段描かないのに。
「本人は、自分がどうして集中できていないのかも気づいていないみたいだったけどね。でも、周りからしてみれば一目瞭然よ。口を開けば『小鳥遊さん、見た?』だもの。おかげであたしは、毎日無駄に二年生の教室まで出向くハメになったわ」
「…………え」
「そりゃあ『やめたんじゃない?』くらい言いたくもなるでしょ。こちとらさんざん振り回されてるんだから。だから今日は、とりあえず文句を言いに来たのよ」
つかつかと大股で歩み寄ってきた沙那先輩は、私から二歩ほど離れたところで立ち止まり仁王立ちした。沙那先輩の足から、三倍ほど膨れた墨色の影が長く伸びる。
「言いなさい。なんでこの一ヶ月、休んだのか」
「えぇ……っと」
「先輩命令よ。あたしには知る権利がある」
びっくりするほど横暴な物言いと主張ではあるが、いまの話を聞いてしまった後ではなかなか無碍にもしづらい。
正直なところ言いたくなかった。というか、沙那先輩に限らず、家族以外には必要に迫られるまで言わないつもりだった。
まさかこんな展開になるとは予測もしておらず、私は眉間を揉みながら唸る。
「……言っときますけど、面白い話じゃありませんよ?」
「面白いか否かは関係ないわ。どんな理由であれ、結生の調子を狂わせて、あたしや相良に気苦労をかけたことに変わりはないんだから」
相良先輩は、ユイ先輩の幼なじみだ。ときおり部活中にユイ先輩の様子を見にやってくるので、私も何度か顔を合わせたことがある。
どうも聞く限り、私がいなかったあいだユイ先輩は調子が悪かったようだから、一緒にいることが多い相良先輩に被害が及んだのはたしかだろう。
意図したものではなくとも、申し訳ないとは思う。思うけれども。
「うーん。じゃあ、誰にも言わないって約束してもらえますか?」
「……言えないようなことなの?」
「そうですね……正直、これに関しては難しいところです。いずれは知られてしまうかもしれないけど、いまはまだ隠しておきたいなって感じで」
ふぅん、と先輩は訝し気に目を眇める。
「いいわよ。べつに、他の誰が知りたい訳でもないだろうし」
「ありがとうございます。じゃあ少し長くなるので、座りながら話しましょうか」
とはいえ、いったいなにから話したらいいものか。
「あんまり人に話さないので、上手く説明できる自信がないんですけど」
美術室の古びた木製椅子は、あちこちに絵の具が散りばめられている。何年も何年も蓄積されたそれは、いっそいい味を醸し出していて、私はなんとなく好きだ。
沙那先輩と向かい合うように腰を下ろして、私はとりわけ濃く固まった朱色の絵の具を指先で撫でる。ツルリとしているかと思いきや、案外ざらざらした感触だった。
頭の内部で順序を組み立てながら、私は俯きがちに口火を切る。
「ええと。──沙那先輩、『枯桜病』って知ってますか?」
「……え?」
「今から約十年ほど前に突如発現した原因不明の難病です。聞いたことくらいはあります、よね?」
「ええ。その、前に、テレビで……」
私はよかった、と安堵する。そこを超えなければ、話は一向に進まない。
──枯桜病。
それは発現当時、その奇怪さから一時メディアで多く取り上げられていた病だ。
おかげで名前だけが尾ひれをつけて独り歩きし、あることないこと囁かれていたりもする。だからこそ、わりと名前だけなら知っているという人も少なくない。
年に数名しか罹患しない類稀な病ゆえに、詳細を知る人は存外少ないのだが。
「この病気は、いわゆる全身疾患という部類でして。発病から数年の時をかけて、内臓のあらゆる機能が衰退していくんです。年老いるというより、故障に近いかな」
「っ……」
「人によりけりですが、機能が低下すると共に五感、とりわけ痛覚に影響が出ると言われています。つまり、痛みを感じなくなるんですね。だからこの病気の罹患者は、痛みも苦しみもなく、ただ静かに眠るように亡くなるのだとか」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんでそんな……」
詳しいの、と言おうとしたんだろう。
けれど、顔を上げた私を見て、沙那先輩は続ける言葉を失ったように茫然とした。
「はい。私、枯桜病なんです」
シン、と痛いくらいの静寂が落ちた。
沙那先輩は拒絶を滲ませながら喉を震わせる。
「う、ウソでしょ。あんな……あんな珍しい病気。冗談も大概にしなさいよ」
「こんなこと冗談で言ったりしませんよ。病気でもないのに病気だと偽ることは、本当にその病を抱えている人に対しての侮辱に当たりますから」
原因不明の難病。いまだ特効薬も発明されておらず、病の原因などもわからないまま。この病気との付き合いが長い私でも、説明できることには限界がある。
「……枯桜病と言われる語源は、発病から死までの期間が、まるで美しい桜が枯れるようだから。身体の機能が徐々に散っていく様を、なかば皮肉的に表現したものですね。実際はそんな美化できるものでもないんですけど」
本当に体が桜の花びらになって散ることができたら、どんなにいいだろう。
もう数え切れないくらいに考えたそれを、自嘲を浮かべながら振り払う。
「余命は人それぞれです。枯桜病は死間際になって急速に症状が進むのが特徴なので、いざ進み始めないと余命すらもはっきりしなくて」
「……それ、は、何年くらいとかも……」
「そうですね。これまでの最長記録は発病から五年九ヶ月らしいですけど、早い人は一年も経たずに亡くなってます。でも、若い人ほど進行は遅いみたい」
夕暮れを逆光に浴びる先輩の顔色は悪い。だから面白くない話だと言ったのにな、とより申し訳なくなりながら、私は場を和ませようと少し声音を上げた。
「私は小学六年生の終わり頃に枯桜病を発症したんです」
「え……小六? えっと、あたしの一つ下だから……」
「今から五年前ですね。残念ながら、まだ最長記録には届いてませんけど」
見た目からはわかりにくい、かもしれない。
痩せてはいても平均身長より背が低いおかげであまり目立たないし、そもそも表面上に現れるものではないのだ。あくまで内側のみが徐々に衰退していくだけ。
「なので今回一ヶ月休んだのは、検査のためです」
「……検査? その、病気の?」
「はい。体の内側が現時点でどのくらい衰退しているのか、衰退速度はどの程度なのかを定期的に検査するんです。一日二日ではわからないので、一ヶ月ほどかけて行う必要があって。だから、学校を休んで入院していました」
新学期開始と被ってしまったのは、私的にも相当な痛手だった。
だが、こればっかりは致し方がない。
なにせもう五年目だ。私の体は、いつなにがあってもおかしくない状態にある。
「……結果は」
「え?」
「結果は、どうだったの。まだ……」
生きられるの、と声にならなかった言葉が聞こえた気がして、私はくすりと笑う。
案の定、どうして笑うのかと沙那先輩は今にも泣きそうな顔を歪めた。
──けれど、だって、ほら。
私相手にそんな顔をしてくれる沙那先輩は、やっぱり悪い人ではない。ただ不器用なだけで、わかりにくいだけで、誰かを思いやる心は人一倍持ち合わせている。
「とんとん、とまではいきませんが、幸いまだ加速はしてないみたいですね。でも五年ですから、さすがにいろいろと不備は出てます。生きるために最低限の機能しか残してないというか。うん、ぎりぎりラインを辿ってる感じです」
例えば胃の消化機能とか。味覚とか、嗅覚とか。
そういった、私自身にも感じられる不具合がここ最近増えてきたように思う。
──とくに、記憶関連のことは。
「体力も磨り減っているので、本当は学校生活も渋られてて。だけど、通えなくなる限界までは通うって決めてるんです。だからこうして戻ってきちゃいました」
「な、なんで、そんな無理するのよ。病院で大人しくしていた方が寿命だって……っ」
「そうですねえ」
困惑した表情をする沙那先輩に、思わずくすりと笑ってしまう。
「たしかに、病院にいた方が寿命は多少延びるかもしれませんけど。でも、どうせいつかなくなる命なら、ちゃんと最後まで使い切りたいから。それに……」
ユイ先輩に会いたいから、という言葉は直前で飲み込んだ。
きっと言わなくても、沙那先輩ならちゃんと察してくれるだろう。ユイ先輩とは違って、意外と気遣い屋な彼女は相手の真意を読むことに長けているから。
「これが理由です。すみません、あまり聞いていて楽しい話じゃないですよね」
「……あなた、なんでそんなに落ち着いてるの」
「え?」
「大変な病気なのに、どうして他人事みたいに話せるのって聞いてるのよ。……無理に聞いたあたしが、言えることでもないかもしれないけど」
他人事とはまた言い得て妙だ。私は眉尻を下げながら、慎重に言葉を選択する。
「なんて言ったらいいかな。……五年経ってるから、ですかね」
「どういう意味?」
「発病からこの五年間、いつ訪れるかもわからない死を覚悟して生きてきたんです。後悔しないように、今を全力で──なんて少年マンガみたいで嫌なんですけど。でも、本当にそんな感じで。その、私なりに向き合ってきた結果、といいますか」
深い海の底にいるかのような空気の重さに耐えかねて、私はたははと頬を掻いて誤魔化した。実際はそんな大層なものではないし、発病から今日までをでき得る限り思い返してみても、やはり後悔のない人生なんて少しも送れていない。
日々、自身に圧し掛かる病の無常な残酷さに打ちひしがれるばかりだ。
ただ、そんな心意気ではあった。
いつだって私は、前を向くことをやめたことはない。
今ももちろん継続して──だからこそ、ここにいるわけだけれど。
「沙那先輩。知っての通り、私はユイ先輩が好きです」
「っ、ええ」
「でも、こういう事情があるので付き合えません。……先輩の気持ちはさておき」
私は彼に、春永結生に会うために、この学校に入学した。
彼と彼の世界を見たくて、彼の描く世界の真髄を知りたくて、逢いに来た。
その裏側にはたしかに焦がれるほどの恋情もあるし、憧れだとか尊敬だとかそんな言葉では足りないくらいの羨望や、それ以外の大切ななにかもある。
だからこそ、自分のわがままを貫いたこの一年は、ただただ本当に幸せだった。
「沙那先輩は……さっきはああ言ってましたけど、やっぱりユイ先輩のこと好きですよね?」
「なっ……なんでこのタイミングであたしのことなのよ! あなたまさか、」
「あ、誤解しないでください。咎めてるわけじゃないです。病気だから譲れとか、そんな都合のいいことも言いません。むしろ、ホッとしてるくらいなんですから」
沙那先輩は、はあ?と言わんばかりに虚を衝かれた顔で私を凝視する。目も口もあんぐりと開いているせいで、せっかくの美人が台無しになっていた。
かと思ったら、突然ガッと身を乗り出してきた沙那先輩。
だいぶ乱暴に肩を掴まれ、私は思わず二歩ほど後ずさった。
「あっ、なたねえ! さっきから聞いてれば、なんなのその綺麗事はっ!」
「んえ、へっ?」
「つまり、あたしがいるから自分はいなくなっても結生は大丈夫だ、とか、そんな傲慢極まりない馬鹿げたことを言いたいんでしょ!?」
いやそれは、と否定しようとして言葉が詰まる。
そう、なのかもしれない。
だって沙那先輩のようにユイ先輩を想ってくれる人がいれば、きっと彼はひとりぼっちになることはないから。私は、なによりあの人を孤独にはしたくない。
「ふざけんじゃないわ」
「さ、沙那先輩?」
「あのね、結生はあなたに出逢うまで本当に人形そのものだったのよ。感情どこに忘れてきたのってくらいなにかが欠落してた。だから、ようやく人間らしくなってきた今……そう、今がいちばん大事だったのに……っ」
沙那先輩は震える手で掴んでいた私の肩を離して、グッと唇をかみ締めた。
「あいつは、心の行き場を見失ってるのよ」
「……沙那先輩?」
「どんな感情も捉えられない生きた人形。それがあたしが出会った結生だったわ。恋愛なんてとんでもない……そんなの、最初からわかってたことだった」
つぶやきを落としながら、沙那先輩は私に背を向ける。
震えた肩。震えた声。泣いているのかと思ったけれど、聞けないのがもどかしい。
「わかってたのに、どうして……?」
「そんなところに惹かれちゃったのよ。危うい、ほっとけない、あたしが守らなきゃって。けど、あたしには無理だった。たったの一ミリも掴めなかった。結生の心を」
沙那先輩の言わんとしていることは、なんとなく理解できる。
けれど、それはほんの少し、私のなかのユイ先輩とズレていた。
たしかにユイ先輩は感情の起伏が少ないし、表情に出ないから思考回路も読み取りづらい。その点では『人形』という喩えは、至極、的を射ているのだろう。
でも、決して心がないわけではないのだ。むしろ人一倍、繊細だと思う。
──だって心がない人に、あんな絵を描けるわけがないから。
「……あなたは違うのよ。小鳥遊さん」
「私、ですか?」
「あなたはもう掴んでる。きっとあたしにはわからない世界を見てるんでしょうね。皮肉なことに、自分が外側にいるとそれが嫌というくらい感じられるわ」
顔を拭うような仕草をしてから、沙那先輩がおずおずと振り返る。
深みのある栗色の瞳は、淡く濡れそぼって頼りなく左右に揺れていた。
「あいつは今、変わろうとしてるの」
いくつもの感情が複雑に入り交じる、名前のない色。これを表現できるのはきっとユイ先輩くらいだろうななんて、頭の隅っこでぼんやりと考える。
「それはきっとあなたのおかげで、あなたの存在ありきのものなのよ。正直、悔しいし羨ましいけど。でも、あいつは放っておいたらいつまでも……それこそ延々と底なし沼にいるから。だから、あなたが必要なの」
「……私、ユイ先輩にとってそんなに重要な存在なんですか」
「そうよ、ちゃんと自覚しなさい。結生を沼から引き上げて陽の光を浴びさせてあげられるのは、きっとあなたしかいないんだから」
これはこうだと言い切る。沙那先輩の強いところだ。
私とは、違う。私はこんなにも強くなれない。……なりきれない。
「あなたが病気だってことはわかった。けど、それとこれとは話がべつ。あなたが結生とどんな展開を望んでいたとしても、他人の気持ちだけは変えられないのよ」
そこまで言うと、沙那先輩は今日初めて、小さな笑みを口許に滲ませた。
「結生はああ見えて頑固だから、きっと苦労するでしょうね。早いところ相応の覚悟を決めておかないと、そのうち痛い目にあって泣く羽目になるかも」
突き放し、切り捨てるような物言いは相変わらず。
けれど、そこにはどうしたって隠しきれない優しさが潜んでいた。
「それから。ちゃんと約束は守るから安心してちょうだい」
「約束……あ、病気のこと」
「誰にも言わないわ。ちなみに、他に知ってる人はいるの?」
「友だちの円香とかえちんは知ってます。隠してたけど、普通にバレました」
沙那先輩は、なぜか可哀想なものを見るような眼差しを向けてきた。
「あなた、隠し事とか向いてなさそうだものね。まぁ、同級生に知ってる人がいるなら安心だけど。……なにかあたしにできることがあれば、頼ってくれてもいいわよ」
「はあ……えっ!?」
「なによ」
「せ、先輩が優しいことに驚いてます」
──言葉を選ばなければ、あまりの手のひらの返し具合に驚いています。
すると沙那先輩は、かあっと顔を赤く染めて「心外!」と声を張り上げた。
「あ、あたしだってそこまで性格悪くないわよ!」
「だって、いつも嫌味を……」
「そ、それは……ああもううるさいわね! なんでもいいから、なにかあったら言いなさい。あたしは、あなたと結生が上手くいってくれないと困るんだから」
──でも、本当は知っていた。
沙那先輩が私に意地悪なのは、ユイ先輩を想うがゆえのことだって。
だからこそ、私はどれだけ苛まれても沙那先輩を本気で嫌いになれなかった。
それどころかユイ先輩を任せても大丈夫だと思っていたくらいだ。なんだかんだ病気のことだって話したのだから、根っこの部分では信頼していたのかもしれない。
「ありがとうございます、沙那先輩」
「っ……」
「……本当に、ありがとうございます」
もう長くない時のなかで、いったい何度、私は人にありがとうと言えるだろう。
こうして本心で言葉を交わせる相手がいるのは素敵なことだ。けれど、大事にしたい、大切にしたいと思う相手が増えるほど、私は迷ってしまう。
遠くない未来に消えゆく私が、明日が当たり前の人に関わっていいのかと。
こうして親密に関われば関わったぶんだけ、いずれそれは棘となり、刃となり、心に拭いきれない傷を負わせてしまうのではないかと。
──鎖となって、まるで枷のように苦を縛り付けてしまうのではないかと。