後編 お嬢様は幸せになる?
私の愛人になって。
アイシアはそれよりもハードルが低いはずの『好きです』の一言がなぜか言えないことに狼狽えた。
だがそれについてはすぐに理解した。
愛の告白はつまるところ愛人要請であり、ある種の求婚ではあるけれど世間からは、ミロワールの身内からどう思われるか。
だからこそ『断られる』可能性があるということを失念していたことに今さら気付いてしまった。
(でもこの6年近く、ミロワールから私を拒否する空気はなかったし……友人としても上手くいってる。2人で食事……は食堂か研究室か。2人きりはあるけどデートではなく研究室。ご両親は健在だっけ? 兄弟姉妹は……私、彼のプライベートあんまり知らなくない!?)
マズい、これは非常に宜しくないのでは? とたらたら嫌な汗が流れ始める。
だけどもう時間もない。相手は愛人を囲う気満々で、結婚してしまえば皇太子妃、次期皇后となる。
そうなったらもう迂闊に『ねえ、愛人にならない?』なんて誘いが出来るはずもない。
これが皇太子や皇帝なら何も言われないのに! 出来るなら淡い初恋を捧げたミロワールとずっと一緒にいたい! 私だって愛し愛される人と過ごしたい! とアイシアは頭の中で理不尽を消化できず、脳内で激しく地団駄を踏んだ。
(でも愛人になってほしいだなんて浅ましい。そんな私の恋心に引導を渡すいい機会なのかもしれない)
普段なら真っ直ぐ見られるミロワールのことは意識してしまって上手く見られない。
これまで上流階級の端くれでもあり、シフォンの婚約者としてほのかな想いは決して見せずに律してきた。そうせざるを得なかったから。けれどその蓋は外され、更に脈あり? などと考えると途端に彼の何もかもがこれまで以上に眩しく見えてくる。
彼のぼさぼさで緩く結われた長髪は母性をくすぐってきて抱き締めてかき回してみたくなるし、一見線の細そうな体型や輪郭も猫背が邪魔をしているのだろう、実際はもっとしっかりした身体つきに見える。
肌は血色も良いし、良くみればシミや日焼けもなく、体毛も薄い。喉仏のあたりや、袖が捲られた腕の筋がすうっと見えるところなんて、色気が。
――色気がある。ある。やだ、素敵。触りたい。
アイシアの頭は現実逃避し始めてどんどん悪くなっていきそうで。このままではいけない、と彼女は決心した。
(当たって砕け散ればいいのよ、フラれても大丈夫。二度と会うことはないわ……誰かに面白おかしく言い触らすような人ではないって知ってる!)
「ミロワール、あのね」
「ノワール、あのさ」
勢い良く同時に言葉が出て、2人はぐ、と詰まった。
「……何?」
「……ノワールこそ」
しばらく話の出だしを譲り合っていたが、ミロワールが意を決したように、猫背をピンと伸ばしアイシアを真っ直ぐ見つめた。
「ボクは、ノワールのことが好きだ。出会った頃は良き友人に出会えたと思ったし、性別を越えた付き合いが出来ると思ってた――だけど、いつの間にか君はボクの心にいつもいるようになって……だからその」
語尾へいくほど声が小さくなる。
アイシアは息をすることを忘れた。心臓も時間も止まったかと思うほどに頭が真っ白になる。
ミロワールは顔を真っ赤にし、口を真一文字に引き結んでいた。
アイシアの口の中はカラカラで、息を一つこくんと飲んで大きく頷く。
「わ、私も……私もミロワールのことが好き」
上擦った声で返したアイシアの言葉にミロワールは顔を輝かせた。2人はてれてれもじもじし始める。甘酸っぱい空気が漂っている。
「あ、ありがとうノワール。本当はもっと、ちゃんとしたところで言うつもりだったんだけどね……時間がなくて……あっ、ノワールの話って」
「あ、私はその、ミロワールにお願いを……」
「お願い? もちろんノワールの頼みなら何でも聞くし、願いも叶えるよ!」
そんな心強い後押しに、アイシアは先ほどの決意を新たにしてなんとか本題を切り出した。
「実は私、婚約者がいて……でもちょっと前まで全然会ったこともなかったのよ? だから解消になると思ってたの。私は何度も解消をお願いしてたし。だけどそれは拒否され続けてて。実家に圧力を掛けることも出来る相手だから……」
話が佳境に近づく毎にミロワールの眉間の皺が深くなっていく。
「だけど相手には恋人がいたみたいで。私とは結婚をやめてくれる気はなくて、そのままの関係性でいたいんですって……だから、その、私たち恋人にはなれるけれど結婚は……」
「――それは、酷い」
ミロワールの声は固い。どこか冷ややかで突き放す響きがあるのが分かり、サァーッと血の気が引いたアイシアは寒気に襲われた。
「……ミロ、ワール」
それはそうだ、当たり前だ、何を夢見ているのだとアイシアは恥辱で引いた血が一息に顔に駆け上がってくるのを感じた。この後ごめんと謝るべきか、忘れてと伝えてこの場を去るかわずかに逡巡していると、ミロワールがカップを握ったままのアイシアの手を両手で包み込む。
「辛かったね、ノワール」
アイシアにとって都合の良い話だと、通じ合った気持ちも一蹴されるのだと思っていたが、彼の口調は先ほどとは違って優しく、彼の手のひらからアイシアに伝わる熱は熱い。
「実は、ボクも君に酷いことを頼もうと思ってた。とても卑怯だと思う。想いを重ねてからこんなことを言い出すのは……だけど」
だけど、と言ったミロワールの話はアイシアと良く似た話だった。
ミロワールも男性の結婚適齢期をはるかに越えていて、結婚を急かされていた。
もちろん自分の活動を理解し支えてくれる伴侶を望んでいたが中々見つからない。そんな時に出会ったのがノワールだった。
彼にとって、これまでお見合いしてきた相手のように話が合わないことはなく、研究所などで知り会った女性たちのように見た目で蔑むわけでもなく、肩書きだけで自分を見ることのない女性はアイシアが初めてだった。
友人関係にある女性ももちろんいるが、彼にとって異性として認識することのできない相手だ。女性として気を使うことはあるが、恋愛や欲求の対象として考えられないという意味だ。当然彼女たちもミロワールをその枠に入れることはなかった。
そんなミロワールはアイシアを初対面から意識し、密かに想いを募らせていた矢先に生国で婚約者を決められてしまった。彼の父親がよかれと思って――周囲の圧力に屈してなのかもしれない――勝手に進めた縁談だ。
なんとか婚約を解消しなかったことにしてもらうため色々策を弄してみたが、覆すことは出来なかった。
会ってみれば美しい娘だったが、うっすら微笑むばかりで会話も弾まない。ミロワールも彼女と結婚する気はないので、本気で向き合っていない上っ面の応対が透けて見えていたのかもしれない。
ほぼお互いの未来や人となりを知る会話をこしないまま、いたずらに月日は過ぎる。
ミロワールは焦った。婚約者自体に悪いところはない。彼は好きな人がいると打ち明けた父親からは反対ではなく拒絶を受けた。
絶対この婚約を反古にするな、解消も許さない、これまで好き勝手させてきたのだから不満は飲み込めと強く責められた。だから――
「もういっそ駆け落ちでもしようかな、と」
「かけ、おち」
2人手に手を取って駆け落ち出来れば幸せだろうか。
2人の生活を想像するアイシアは甘い夢に浮き立つ。ふわふわと現実感のない気持ちの中に、ふと唐突に苦く重いしこりが落ちた。
誰も二人を知らない場所で。
ただし、もう魔導石や開発には関われない可能性が高い。だが幸いにもアイシアには少なくない蓄えはある。父親に転移装置を渡しておけば、会いたい時に会える。心配なら顔を見に帰ってもいいし、向こうから会いに来ることも可能だ。
何よりアイシアの父がそれを許すだろう。
だが、アフォガート家はきっと何らかの咎を受ける。賠償責任だってある。下手をすれば家の全て、アイシアの持つ権利も何もかも皇帝に差し出すことになるかもしれない。先に解消でもなく愛人と暮らすと言い出したのはあのシフォンでも、今2人で飛び出せば罪の天秤はこちらにしか傾かない。
それも父ひとり子ひとり、お互いこの世にひとりきりの家族を踏み台にして。結婚相手が自分に白い結婚を望んだからと、張り合って同じ舞台にあ立とうとして。その愚かさに気付いて好きな人と逃げ出して。
お互いの夢や理想や生きがいだった仕事を捨てて何もなかったようにミロワールと幸せねと死ぬまで笑いあって生きていけるだろうか、とアイシアは思う。
アイシアの表情が強張ったのに気付いたのか、ミロワールが優しく手を摩る。
「思っただけで実行出来ないんだ、ごめん、意気地無しで」
「それは当然だわ」
「そう?」
「私には、無理だもの。あなたの事は本当に好きよ、実った初恋に浮かれているだけではないの。だって知り合って6年近く……自分の気持ちに気付いた時には婚約者がいたし」
「ボクもね、無責任なことは出来ない。良かった、同じ考えで――ね、アイシア」
「ええ、そうね、ホントに……」
(……今、アイシアって言った?)
アイシアがまじまじとミロワールを見つめる。愉快そうに微笑んでいるが色眼鏡の奥の感情は分からない。
「もうひとつ、言わなくちゃいけないことがあって。ボクね……」
ミロワールはおもむろに手をアイシアのそれから離すと自分の頭髪を鷲掴んだ。
ばさり。
アイシアの目の前で髪がずるりと落ち、テーブルに置かれた。
「へ?」
思いの外マヌケな声を漏らして、視線を髪からミロワールに戻すと、彼は色眼鏡を外している。
「――は?」
良く見たきらきら眩い金の髪、胡散臭い微笑み。
「え? あ? ……うそ、でしょ……」
アイシアが恋したミロワールの面影を残したまま、今一番顔も見たくない男が姿を現した。
「アイシア、ボクと結婚しよう」
「……ええと。白い結婚デスヨネ」
「まさか。愛ある結婚だよ? ボクたち……いや私たちに何の障害もないだろう?」
「……私が好きなのはミロワールであって殿下ではないのですが?」
アイシアは動揺していた。激しく動揺していた。
彼女の言葉にそれはそれは嬉しそうに蕩けた笑みを浮かべるミロワールは、小首を傾げた。
「私がミロワールだよ?」
ポカン、と口を開けたままのアイシアの左手を取ると、シフォンはいつの間に出したのかそっと指輪を彼女の薬指にはめた。指輪に付いていた小さな石が淡く輝く。
「以前寄った国では、結婚相手に指輪を薬指に贈るんだそうだよ」
どこか他人事のようにぼんやり指輪をはめられるその光景を眺めていたアイシアは、左手を持ち上げると目をカッと見開いた。
「――は? こ、これ、制約の魔導具じゃないの!?」
「ふふふ」
「ふふふ、じゃないわよ! 犯罪者用のアイテムでしょう!!」
「さすが、ノワール……じゃないアイシア。一目見ただけでソレと分かるなんて! でも犯罪者用のは首輪だろう? それをね軽量化して、制約内容の変更をして――」
それは社会規律を守れないと見なされた犯罪者が刑期を終えて世間に戻る際に使う道具であって、個人の自由を損なうためによほどのことがなければ使われない品である。
「……理解が追い付かないわ」
「だけど君が私を受け入れてくれたから、指輪ははまったワケで。君が私を拒否したならばこの指輪は単なる指輪でしかなかった」
「ああああああ!!!」
アイシアは叫ぶと頭を抱えた。
制約魔道具は着用する側が『制約』を受け入れて初めて効果が発動される。魔道石が輝けばその時から条件が行使されるのである。
シフォンの求婚にアイシアが諾と応えたから指輪の魔道石が輝いたのだ。そうなればこの指輪は制約をかけた側の条件を満たさなければ外れない。
こうして休憩室には、背中に花でも背負ってそうな男の含み笑いと、頭を抱えて不本意な結果に唸る女の悔しげな声が響いたのだった。
【制約の指輪】
犯罪者専用魔導具。首輪だったが指輪に作り直した。
ある種の自由思考や行動を制限する。
過去の重犯罪者への処罰は極刑しかなかった。
外す事は死ぬまで出来ない。
* * * * *
読んでくださってありがとうございます。
前回投稿からすぐ更新する予定でしたが、内容を変更による書き直し中に体調不良となりまして。
執筆&投稿が滞っております。
結局長くなり、後編を2話に分割予定でしたが蛇足に分けるので主役目線の本編は終了です。
(23.01.19)