アガーテ妃の悔恨
その少女は、聖女だった。
ステノ・マシューという、裕福な平民の娘。忙しい両親のもと、愛されて育ったはずの娘は、しかしするりとその手からこぼれ落ちてしまった。彼女を聖女だと認めた貴族によって。あるいは、この最果ての砦で戦い続けるための生贄として。
まだ幼い少女を戦場で暮らさせることに、良心の呵責を覚えないわけではない。しかし、アガーテは王女だった。統治者であるべき、取捨選択をする側の人間だった。
だから、彼女が使えるのなら使うべきだと思った。目前に「死の地平」が広がる砦で、これ以上兵を使い潰さなくて済むのなら。
はたして、ステノは成果を挙げてしまった。
そして、アガーテを信頼した彼女は、そのスキルを打ち明けた。「魅了」という、禁忌のスキルを――。
アガーテがステノのスキルを知ったとき、しなくてはならないと思ったことは、彼女に良識を持たせることだ。
もともと、「魅了」スキルを使っていることに罪悪感を持っているような善良な少女だ。だが善良なだけではいけない。彼女は自分自身を守れるようにならなくてはならない。自分の意志でスキルを使い、それでもなお社会を混乱させるようなことはあってはならない。
なにより、ステノはスキルを差し置いても見目麗しい少女だ。あるいは、この見目麗しさがステノのスキルの源泉なのかもしれないが――。とにかく戦場で汚されるようなことはあってはならないと、彼女を神聖視させるよう印象を操作させた。
その結果、聖女の名声が王都まで届き、愚かな王太子――ネファライティスを呼び寄せてしまったのは痛恨の極みだったが。とはいえ、ステノは見目のいい王太子に心を惹かれる様子では全くなかった。むしろ傍迷惑そうですらあったが、それもネファライティスの気にいる一因であったのかもしれない。
ネファライティスが砦へやってきた理由は、ステノの件だけではない。アガーテを政略結婚の駒とするためだった。
戦場の次は敵国に追いやられると知りアガーテはうんざりしたが、王女として生まれた以上は拒否権はなかった。なによりネファライティスの下手な戦に両国の民をいつまでも付き合わせてはいられない。
幸いなことに、ウィリディス・マティスの王弟は話の通じる男だった。王も王妃も、アガーテの為人を知ってからは快く受け入れてくれた。戦場ばかり転々としていたアガーテが、ようやく己の居場所を手に入れられたと思うくらいには心地のいい場所だった。
アガーテがぬるま湯に浸かっている間、ステノは一人で戦い続けていた。
アウルムの砦が落ちたと知った時、アガーテが真っ先に心を馳せたのはステノのことだった。
ここのところ、王太子が「神の落とし子」を連れ歩いているのは耳に挟んでいた。しかし、あの蛇のような甥がステノを手放すとは思えなかった。一体何があったのか――そして、砦が落ちる中、ステノは「何」をしたのか。
ステノは、善良だ。だから砦から逃げ出すことなど考えなかっただろう。よって彼女がいる限り、砦は維持されるはずだった。砦が落ちたということは、ステノに関わる何かがあったはずなのだ。
その背景がわかったのは、ステノがウィリディス・マティスに逃れていたおかげだった。
彼女の持ち前の善良さとアガーテの教育の賜物か、冤罪をかけられ砦を追放されても、いち冒険者として隣国へ移り住む程度で済んでいた。
彼女が考えついて実行に移したのなら、愚かな王太子の断罪劇場ですらひっくり返せただろう。あるいは「死の地平」の魔物を「魅了」して砦を落とし復讐すらできただろう。もしくは、ウィリディス・マティスの民を魅了してアウルムに攻め込むことだってできたかもしれない。
なので多少目立っていたとして、いち冒険者で収まっていたのは、ウィリディス・マティスの王弟妃となったアガーテとしては幸いだった。ついでにいえば、リアたちにすぐに見つかったのも果てしない幸運である。
さらに幸いなことに、アガーテにはしばらくステノを手元に置く名目もあった。そう、リアたちに命じていた「死の地平」の探索、そして王家の秘薬の材料集めだ。
ギルドを通し、貴族から身を守ることを学ばせる。依頼のためとして身の回りの品も整えさせた。「魅了」したというルプス・グランディスもいるわけであるし、リアたちと一度パーティを組ませれば冒険者としてのノウハウも吸収し立派に自立できるはずだ。
しかし、ステノは完全に自由になれたわけではなかった。
「聖女はどこにいる!」
こうも、ネファライティスに執着されているとは。アガーテはうんざりしたが、こういう時は自分が対応するのが一番マシだとわかっている。
ネファライティスが連れている「神の落とし子」は、ごく普通の少女だった。ステノのような突出した美しさも、修羅場を潜り抜けてきた雰囲気もない。貴族の箱入り娘と同じだ。それでも、「魔王」を倒せるほどの魔力はあるのだから、砦を維持できなかったのはネファライティスの落ち度でしかない。
アガーテはのらりくらりとネファライティスを躱し、どうにか帰国させようとしたが、ことはここにきて最悪の偶然を産んだ。転移門を無理矢理使おうとしたネファライティスと、「死の地平」から帰還したリアたち一行が鉢合わせてしまったのだ。
ステノはネファライティスを知らぬふりをしようとしたようだったが、もはやバレらしたようなものだった。まあ、ステノのような目立つ少女がしらを切り通すのは不可能に近いので仕方がない。
ステノはうんざりした顔でネファライティスに対峙していたが、やがて神の落とし子にターゲットを変えたようだった。アガーテは内心口角を上げて見守る。そう、この場で一番脅威であるのは、ネファライティスではなく彼女の方だ。
神の落とし子がネファライティスに「スキル鑑定」を使わせるように仕向け、さらには彼女の罪悪感を煽る。ステノがそうした理由はアガーテにはわからなかったが、何か意図があるのだろうと口を挟んでやる。ここはもう、砦にいたときのような呼吸の合い方だった。
はたして、ステノは神の落とし子に「魅了」をかけることに成功した。行動を支援するその使い方は、砦で聖女として働いていた時と同じだ。
(――神の落とし子の罪悪感を煽ったのは、「魅了」にかけられる人物に反発されないようにするためか?「砦」では考えなかった使い方だが、リアたちと組んで「魅了」の効き方もわかったのだろうか)
アガーテは場違いにそんなことを考え込んだ。ステノの「魅了」は強力だ。もしものために、彼女に対抗する手段をつい模索してしまうのは癖のようなものだった。
そんなアガーテの内心をよそに、ステノはネファライティスにも「魅了」をかけた。
砦を自力で奪還する。それまで、ネファライティスはウィリディス・マティスに戻ることはかなわないだろう。
この「魅了」の効果がどれくらい続くものかはわからない。だが、ステノは倒れた。おそらく、魔力切れで。
ステノの魔力量が優れた魔術師であるリアをも凌ぐものであることはアガーテも知っている。あれだけ砦で「魅了」を使っても、魔力切れに陥ることだけはなかった。「神の落とし子」と同じくらいと言ってしまってもいいかもしれない。
その彼女が魔力切れを起こすほどの「魅了」だ。かなりきつく行動を制限するものであると想像はついた。
顔色を失くしたネファライティスが「と……、砦に戻るぞ!」と宣言したのを見て、アガーテはくずおれたステノの体をロザリンディアに預けた。
ひとまずは、ネファライティスがステノの「魅了」にかけられた通り、砦に向かうことを確認しなくなはならない。軍部にも連絡を入れ、兵を動かす必要がある。
「リア、ステノは屋敷で休ませてやるように。私はアレの動向を確認する。それから、リヴァロに成果と事の次第を報告しなさい」
「了解しました」
リアが短く答えたのを見て頷く。それから、ロザリンディアの横で主人を見据えるステノの従魔と目を合わせた。
「ルーと言ったか。ステノは私が安全を保証する。だが、君も彼女のそばで控えていてくれ」
従魔は、主人以外の言葉を解さない。しかし、雰囲気や匂いで判断するものだ。ある意味、人より偽りが通じない相手だ。
ルーはアガーテをひたりと見つめ、やがてひと吠えした。了承の意だろう。ともに「死の地平」に赴いた三人の言うことも多少なら聞くだろうから、問題にはならないとしておく。
(――しかし、結界の維持を命じるとは)
兵士たちに命令を飛ばしながら、アガーテは考え込んだ。
「神の落とし子」が全力を尽くす限り、おそらく結界はなくならない。それはアウルムの安全を意味するところではある。もし、結界がなくなれば、あの国境は大きく後退することになっただろう。国が混乱するのなら、そちらのほうがウィリディス・マティスとしてはありがたい。アガーテにとっても、アウルムはもう敵国だ。
だが、ステノはそんなことを考えもしなかったのだろう。兵士たちを死なせないためと言うアガーテを信じ、必死に戦ってきた少女だ。ネファライティスによって兵たちが入れ替えられてからも、彼女は逃げなかった。そんな彼女は結界を解かせて民を犠牲にするなど考えもしなかったのかもしれない。
(やはり、「聖女」と呼んでもいいんじゃないか?本人は望まないだろうが――)
苦笑をこぼす。とにかく、ネファライティスを「死の地平」に引き付けておけるだけで大きな成果だ。ウィリディス・マティスにとっても、ステノ自身にとっても。
彼女は今度こそ自由になる。アガーテにできるのは、障害になりうるものを取り除くことだけだった。