ネファライティス王子の誤算・後
「魔王」さえ倒せば「死の地平」はアウルムのものだ。そして自分の功績になる。ネファライティスは笑いが止まらなかった。あの美しくも愚かしい、悪魔の偽聖女は失ったが「神の落とし子」は手に入れた。いかようにもネファライティスの言うことを聞く使い勝手のいい駒だ。
ああ、しかしあれだけ美しい女を殺したのはやはり惜しかったか。それだけが心の片隅にこびりついている。それすらも魅了の残滓なのかも知れなかったが、ネファライティスは密かに偽聖女の死体を捜索させていた。もちろん強大な魔物が闊歩するこの土地で見つかることなどなかったが。
さて、「魔王」は至極あっさりと討伐された。ネファライティスが自ら指揮し、「神の落とし子」の強大な魔術が有ればそう難しいことではない。前線の兵士は多少使い潰したが、下っ端兵士の使い道などこのようなものだ。ネファライティスはちっとも気にかけず、最後に特大の光魔術を放った「神の落とし子」だけを労った。
「私、ネフィの役に立った?」
顔も体もネファライティスの好みでない女だったが、甘ったるい媚びた声で尋ねてくるのを無下にはしない。役に立つのだから、これくらいは容易いものだ。
「ああ、ニーナの力が私には必要なんだ」
「えへ、へへ……よかった……」
ふらりと「神の落とし子」の体が傾ぐ。魔力を使いすぎたらしい。ネファライティスは彼女を受け止め、そしてさっさと配下に渡した。使い物にならなくなっては困るが、わざわざ休ませに連れていくのはネファライティスの役割ではない。
「死の地平」――その名の通りの荒野、地平線に視線をやる。この広大な土地がアウルムの、ネファライティスのものになった。確かに荒地は人が住むのには向いていない。だが魔物が住んでいたのだから資源はあるはずだ。捨て置くには勿体のない広さであることも事実。使いようはいくらでもあるだろう。
いい気分のままネファライティスは砦の部屋に戻った。側近たちがネファライティスを持て囃しながらついてくる。
「この日のために取っておいた美酒を空けようではないか!」
ネファライティスの言葉に彼らは盛り上がった。ネファライティスも高笑いする。これで自分はあの卑しい王女より上に行ったのだ!この国は、全てはネファライティスのものだ。
次はどうやってウィリディス・マティスを落とすかという楽しみが待っている。あのコソコソとした卑怯者どもは「神の落とし子」の力で真正面から蹂躙してしまえばいい。「死の地平」とウィリディス・マティスを手に入れたネファライティスの支持は揺るぎないものになるだろう。煩わしい老害や頑なな軍人どもには特に効くはずだ。
――ネファライティスがそう笑っていられたのはその夜だけだった。
いや、夜すらも明けなかった。日も昇らないうちにその音は聞こえてきた。
地の底が聞こえるような唸り声。いや、違う、体を揺らす地響きだ。見張りの兵士が悲鳴を上げる。砦に配属されて数年、見たことのない光景だったからだ。
暗闇が、より深い黒で埋め尽くされている。何かが蠢いている。その一つ一つが魔物だった。これまで観測すらされていないほどの魔物が集っていた。
「殿下ッ!殿下ァ!」
ネファライティスはようやくまどろみ始めた頃だった。ドンドンと遠慮なしに扉を叩く音に眉を顰める。腕の中の侍女も体を起こして顔を顰めていた。
「全く、このような時に何を騒いでいるのか……」
「殿下!大変です!魔物の大群が押し寄せてきております!」
「……ハア?」
扉を開けないことに痺れを切らしたのか、その向こうで始まった必死の訴えをネファライティスは一瞬理解できなかった。何を言っているのか。「魔王」を討伐したのだから魔物が襲って来ることなどありえない。
――ありえない、はずなのに。
必死の形相の配下たちに連れられて向かった展望台で、流石のネファライティスも絶句するしかなかった。
なんだこれは。なんだこの光景は。いったいなぜ、ここまでの魔物が集っている。
これらが一度砦に辿り着いてしまえば――。
「『神の落とし子』はどこだッ!連れて来い!」
ネファライティスは正気を失って怒鳴り立てた。あの娘がいなくては、いや、あの娘さえいれば。「魔王」を打ち倒した「神の落とし子」がどんな魔物に負けるわけがない。自分がここで殺されることなどあり得ない。
王子の叫びに直ぐに引っ立てられた「神の落とし子」は不安そうな表情を隠していなかった。その顔色が悪いことにネファライティスは気づかない。
「ニーナ!そなたの力であの魔物どもを殺すのだ!」
「……あ、あんなに……たくさん……」
「できるだろう!できぬとは言わせぬ。『神の落とし子』がこんなところで野垂れ死ぬものか!」
「死……ッ」
ニーナは顔色をさらに悪くした。やはりネファライティスは気づかない。彼女よりずっと血の気の失せた顔をしたネファライティスは生まれて初めて命の危機を覚えていた。知性のある人ではない、魔物の脅威に晒されて怯えていた。
そんなものは、今までネファライティスの敵ではなかったはずなのに。
「殿下!時間がありません!このままでは!」
「ニーナ!早くするのだ!おい、兵士たちはどこにいる!早く当たらせろ!砦が落ちるわけないのだ!早く!」
恐怖が渦巻く。死の足音がひたひたと聞こえて来る。そこに出撃させられる兵士たちにも恐怖は伝わっていた。前線などもはや保てるはずもない。まともに戦えるものはおらず、ただ逃げ出すだけだ。ネファライティスも背を向けて逃げ出したかったが、それができなかったのはただ手遅れだったからだ。
消耗しきった「神の落とし子」の魔術でも焼石に水だ。どうにもならないことは誰の目にも見えていた。
――「死の地平」の名を冠するこの土地、この砦がいったいどのような場所か。ネファライティスは嫌でも理解するしかなかった。