ピグマリオンの憂鬱
ほの暗い話です。ご注意ください。
メロア王国のエルンスト・フォン・グリュンブルグ侯爵は学生の身分ながら、王国屈指の超お金持ちである。
しかし、彼は不幸な身の上だった。
複雑なお家騒動の末、栄誉あるグリュンブルグ侯爵家の直系は彼しかいなくなったのである。しかし、元々の才覚を発揮して家業の製薬会社を盛り立て、クリムゾンシリーズと呼ばれる化粧品は大ヒット商品で王妃自らがファンを公言するほどまでになった。
そんなエルンストは色素の薄い髪と透き通るような肌を持つ美しい少年でもあった。
すらりとした長身で、やや釣り目気味の目元は少し冷たい印象を受けるが、すっきりとした顔立ちは目を見張るような美しさで、身分を問わず女性ファンが多かった。
ところが、彼は非常に傲慢で尊大な性格だったので、彼に恋心を抱く女性はエルンストの態度に恋心を傷つけられ、涙を流しながら去っていくのである。
おかげでエルンストは婚約者どころか恋人の一人もいやしない。
しかし、ある時、彼が通う学校に特待生が入ってきた。
教皇肝いりの優秀な生徒らしく、学力テストで三位の快挙を成し遂げた。
亜麻色の柔らかな髪、小動物のような可愛らしい顔立ちのメラニーはあっという間に学校のアイドルになった。
成績優秀者で勤め上げる生徒会にももちろん入り、おかげでエルンストと交流を持つことが増えた。
「わたしが作ったクッキーです」
にっこり微笑む彼女にエルンストは珍しく微笑みで返し、きつね色の焼き菓子を口に運んだ。
「美味しかったよ。君はとてもお菓子作りが上手なんだね」
めったに見せない微笑をエルンストが浮かべたので他の生徒会メンバーは顔をひきつらせた。
「ねえ、他のクッキーも貰っていいかな?」
他のメンバー用に多めに作ったクッキーをエルンストは少し寂しそうに言った。
生徒会面メンバーはますます混乱した。エルンストは美食家であるが、クッキーごときに執着する男ではない。王太子のオリバーは『もしかして惚れたか……?』と親友の恋に胸を躍らせた。
エルンストはクッキーを持ち帰り、メイド一人と執事一人しかいない殺風景な屋敷に戻った。
「ドロシー。きみ、うちの学生にクッキーでも売りつけたのか? このクッキーにお前特製の惚れ薬がたんまり仕込まれているぞ」
呼ばれて出てきたメイドは乱れることのない、まっすぐな黒髪を腰まで垂らした少女だった。顔立ちは整っており、お仕着せを着ていなければ姫君にも見える。
「私の薬、とても高い。学生に買える値段じゃない」
かたことの言葉で少女は答えた。
「それもそうか」
エルンストは納得する。
ドロシーは見た目に反して生粋の拝金主義者だ。金とエルンストだったら迷わず金をとるだろう。しかし、そんな欠点を補えるほど彼女の持つ薬学知識は目を見張るものがある。製薬会社がブレイクしたのも彼女のおかげだった。
「とすると模倣品を売っている奴がいるか、お前の品を横流しした奴がいるかだな。早急に黒幕を突き止めて潰さないとな」
エルンストはため息を吐いた。
「ねえ、このクッキー。女生徒が配っていたの? エルンスト、お前、誰かに惚れられたの?」
心底意外そうにドロシーが尋ねる。
エルンストは苦笑した。
「他の奴に渡りそうだったから俺が阻止したんだ。お前の薬は強烈だから、俺以外の奴が食っていたら大事だったぞ。メラニーをめぐって醜い争いが起きていたかもしれない」
エルンストはため息を吐く。
優秀さを鼻にかける宰相の息子や暴力大好きな騎士団長の息子がどうなろうと知ったことではないが、純粋でちょっと天然なオリバーが毒牙に掛かることは阻止したい。
「エルンスト。悪を気取っているけど、根はいい奴よね」
ドロシーが何気なく褒める。
「褒めてくれてありがとうよ。さて、どうやって黒幕を暴いてやろうか……」
「簡単。騙されたフリして女性徒と付き合う。ついでに何か貢がせればいい。惚れ薬は小瓶で金貨10枚。騎士五人を一日雇える金額。その女性徒、金持ち」
ドロシーがたんたんと言う。
「……あいつ自身は金がないから、きっとパトロンでもいるんだろうな。あと、俺は貢いだり貢がされたりしない主義だ」
「そう。エルンストの美貌は金になるのにもったいない」
心底残念そうにドロシーが答える。
これにはエルンストは絶句した。容姿を褒められてここまで腹立つことはそうそうないだろう。
エルンストは苦虫を噛み潰した顔をした。
「……どっちにしろ、危険因子は排除するに限る。恋人という名目でこの家に連れてくるが、絶対に人体実験をするなよ。あくまで正規の客として扱え」
エルンストの言葉にドロシーは頷いた。
こうして、エルンストはメラニーを恋人として遇し、グリュンブルグ侯爵家のタウンハウスに彼女を連れてきた。
■
エルンストから屋敷に招かれたメラニーは始終笑みを浮かべていた。
しかし、お茶を運んできたメイドを見て悲鳴を上げた。
「キャアアア。な、なんなの、この化け物は!」
メラニーは青ざめてエルンストに抱き着いた。
メイドは長い前髪で顔を覆っているが、隙間から見える肌はひどく爛れていた。ぼさぼさの髪と貧相な体はまるでスラムの子供のようだった。
エルンストは少々顔をひきつらせながら、
「先代……父が拾ってきたメイドだよ。行く当てがないから置いているんだ」
エルンストは優しくあやしたがメラニーはまだ震えが止まらない。しかし、それは恐怖ではなく怒りでだった。
『醜い化け物の分際で美しいエルンスト様の近くにいるなんて分不相応よ。虐めぬいて追い出してやるわ!』
メラニーは心に怒りの火を灯した。
品行方正で清らかと名高いメラニーだが、それは彼女がすべて計算づくで振る舞っているに過ぎない。気のいい司祭を騙し、何の罪もない人々を陥れてメラニーは教皇のお気に入りになった。
本来の目的は王太子妃となって贅沢に塗れた生活を謳歌する予定だったが、意外にもエルンストが引っ掛かった。公務が多い王太子妃よりはお金持ちのエルンストの方が自由も楽しめると考えたメラニーはさっさと矛先をエルンストに向けた。
『王太子の婚約者、公爵令嬢バルバラを陥れようと画策していたけど、全部無駄になっちゃったのよね。まあ、エルンストが手に入ったんだからいっか』
公爵令嬢の従僕を懐柔し、飲み続けると皮膚が爛れる毒薬を公爵令嬢に仕込んだ。やめさせていないので、いずれバルバラは公の場に出られなくなるだろう。
『わたしに難癖付けてきた罰よ。だいたい、あの女は鼻っ柱が強くて鼻持ちならなかったのよね』
メラニーは悪びれることはなかった。
グリュンブルグ侯爵家で過ごすメラニーはエルンストに笑顔で接した。それとなく夜を誘ったことはあるが、「結婚してからでないと教皇猊下に顔向けできないよ」と躱されてしまい、寝室は別だった。
しかし、美しいエルンストと豪華な生活を送れることが嬉しかった。
そして、メラニーは要らない者を除去しようと陰湿な嫌がらせをメイドに繰り返した。
「ちょっと! 紅茶が熱いじゃないの! わたしを火傷させる気!?」
メラニーは紅茶のカップをメイドに投げつけた。飛散した欠片を拾い集めるメイドの手をそのまま足で踏みつける。
かけらが皮膚を裂き、血が模様のように線を描く。
メラニーはそれをせせら笑い、はやく新しい紅茶を持ってくるように言った。エルンストが製薬会社から戻ると、メラニーはか弱い女を装って「寂しかったですわ」と胸に縋った。
出迎えの紅茶を淹れるメイドの手に包帯が巻かれているのを見てエルンストはメラニーに尋ねた。
「メラニー。メイドが怪我をしているみたいだが、何か知らないか?」
「ああ、彼女がうっかり茶器を割ってしまって……そのときにできた傷ですわ」
「ふぅん。本当か? ドロシー」
エルンストが嘲笑するように言った。冷ややかな視線にメラニーはどきりとした。
「違う。そこの女に茶器を投げつけられた。割れた破片を集めているとき、足で踏まれた。痛い」
ドロシーが淡々と答える。
「エルンスト様、こんな醜いメイドとわたし、どっちを信じるんですか?」
メラニーは顔色を変えず、堂々と言った。
「ドロシーに決まっているだろう」
エルンストの声は穏やかだったが、その瞳は恐ろしいほど冷酷だった。
「ドロシーは俺に嘘を言わない。そして、彼女を傷つけた君を俺は許さない。暗躍する黒幕を探すためにお前と恋人ごっこをしていたが、ドロシーに手を出されて黙っていられるほど、俺は大人じゃないさ」
冷たい瞳でエルンストに言われたメラニーは顔を醜悪に染めた。
「な、なによ! そんな化け物を庇うなんて馬鹿じゃないの!? もう付き合ってらんない!」
捨て台詞を残し、メラニーは屋敷から出た。通りかかった辻馬車に乗り込み、メラニーは教皇庁に向かった。
「惚れ薬入りのクッキーをちょうだい。当初の予定通り、王太子を狙うわ!」
メラニーがぷりぷり怒りながら言うと、教皇は嬉しそうに笑った。
「そうかそうか、王太子妃を狙う気にやっとなってくれたか。グリュンブルグ侯爵家の資産も魅力的だが、王太子妃になれば王家の秘宝、紅玉の首飾りが手に入る。あれは代々、王太子が持つものだからな」
「たしか、あの中に悪魔が封じ込められているのだっけ? そんな眉唾物の話を良く信じるわね」
「何を言う。この惚れ薬も魔法薬学で作られているのだぞ。おそらく上級悪魔が降りてきているんだろう」
教皇がクッキーを指先でつつく。
「良く知ってるわね。悪魔と契約でもしたことあるんじゃないの?」
何の気なしにメラニーが尋ねると教皇は歪に笑う。
メラニーはふと、グリュンブルグ侯爵家のお家騒動の噂話を思い出した。数年前に起きた火事は屋敷を焼き尽くした。
メラニーは深入りするのは良くないと感じ、クッキーを受け取って教会を出た。次に向かった先は大通りにあるカフェだった。ここは、王太子が好んで使うお気に入りの場所なのだ。
「オリバーさまぁ!」
メラニーは泣きながらカフェに入ってくつろいでいたオリバーに抱き着いた。しかし、腕を掴まれて一定の距離を保たれる。
「どうかしたの? メラニー」
不思議そうにするオリバーにメラニーはぽろぽろと泣きながらエルンストの暴力性を訴えた。
「彼、メイドの失敗をわたしのせいだと勘違いして、ひどいことをいっぱいされたんです……。あんな人だったなんて……」
しくしくと泣きだすメラニーの姿は可憐の一言に尽きる。カフェのスタッフは顔を赤らめ、また心配そうにメラニーを見つめているが、オリバーだけはきょとんとしていた。
「ありえないよそんなこと。エルンストは誤解されやすいけど、本当に良い奴なんだ。あと、俺のことを名前で呼ぶのはやめてって何度も言っているよね?」
オリバーは真顔で言った。
メラニーは予想外の返しに涙が引っ込んだ。
「わたしより、エルンスト様をとるんですか……?」
か細い声でオリバーに尋ねると、オリバーは不思議そうに首を傾げた。
「どっちをとるとかって言われても、そもそも、君とエルンストをなんで天秤にかけないといけないのさ」
本気でわからないと首をひねるオリバーにメラニーは呆気にとられた。
そこでかん高い笑い声が響く。
「オーホホホホホホ。あまりにもおかしいので我慢ができなくなりましたわ! メラニーさんたら、恋人がいるくせに婚約者がいる男性に縋りつくなんてお行儀が悪いですわよ」
現れたのは真っ赤な髪を豪華に巻き毛にした美しい令嬢、バルバラだった。
「バルバラ。お、俺はメラニーとはなんでもないぞ! 誤解しないでくれ。俺は君一筋なんだから!」
慌てて言うオリバーにバルバラは優雅な微笑を向ける。
「ふふふ。ご安心くださいませ。疑ってなんかおりませんわ。あと、わたくしもオリバー様一筋ですわ」
バルバラが言うと、オリバーは顔を明るくさせた。
「オリバー様。きっとエルンスト様に何かあったに違いありませんわ。どうか様子を見てあげてくださいませ。わたくしはメラニーさんとお話してまいります。女同士の方が都合がいいでしょうから」
バルバラの言葉にオリバーは賛成したが、メラニーは反対した。
「オリバー様。わたしがいつもバルバラ様から嫌がらせを受けていたのは知っていますよね! またひどいいじめを受けてしまうわ!」
泣いてオリバーに縋るメラニーだが、オリバーは取り合わなかった。
「バルバラは国母に相応しい素晴らしい女性なんだよ。ひどいことをするわけないじゃないか。それに、ここには人が大勢いるんだから気にすることないさ」
と言い残し、さっさとカフェから出て行ってしまった。
残ったメラニーはバルバラに睨みつけた。
「あんた、一体どういうつもりよ! もしかしてエルンストと結託して私を陥れようとしているんじゃないでしょうね!?」
メラニーの言葉にバルバラは笑った。
「まあ、オホホ。わたくしは個人的なお返しをするために来ましたの。まずは紅茶を飲んでゆっくりお話ししましょう」
侍女にそそがれた紅茶はこれまで嗅いだことのない素晴らしい匂いがした。毒の混入も考えたが、人目がある場所でそんなことはできない。喉が渇いていたのもあってメラニーはそれを飲んだ。
バルバラの話はくだらない自慢話ばかりだった。いい加減苛ついてメラニーは席を立った。
するとバルバラはにっこりと微笑む。
「そうそう、あなたが従僕を手懐けて仕込んだ薬、しっかりとあなたの紅茶に入れましたからね」
「ばっかじゃないの? あの薬は継続的飲まないと効果はないのよ! 残念だったわね」
メラニーが言うとバルバラは何も言わずに薄く笑う。メラニーは振り返りもせずにカフェから出た。目指す先は宰相のタウンハウスだった。イザークならきっとメラニーを助けてくれるだろう。
しかし、門衛にメラニーは止められた。
「メラニーが用があるといえばわかるわ。イザークと話をさせて!」
「ふざけるな。お前のような化け物とイザーク様が知り合いのはずがないだろう!」
門衛に突き飛ばされてメラニーは路面に転がった。門衛が振りかざした剣にメラニーの顔が反射する。
そこにはあのメイドと同じ、ひどく爛れた顔があった。
メラニーは絶叫し、気絶した。
その後、彼女は教皇庁の前で半狂乱になって暴れ、騎士たちに取り押さえられたがそのときに教皇の悪事を大声で叫んだため、教皇は政敵にその座から引きずり下ろされ、すぐさま断頭台へと送られた。
■
グリュンブルグ侯爵家にメッセンジャーボーイが手紙を届けに来た。バルバラ嬢がドロシー個人宛に手紙を届けたことにエルンストは驚愕した。
「ドロシー。今、バルバラ嬢から連絡があったが、お前、バルバラ嬢と仲良かったのか?」
「バルバラ。お金一杯持ってる。お得意様」
ドロシーはエルンストの元にかけてくると手紙をさっと奪った。ドロシーの顔はいつものように美しく、爛れたところは一つもない。重要参考人のメラニーを人体実験に使うなと言い含めていたが、自分を実験に使うなとは言っていなかったとあの時は後悔した。メラニーが怖がって逃げ出すかと思ったが、メラニーは図太かった。
「そういえば、メラニーが凄まじい顔になっていると学園で噂だが、もしかしてメラニーに毒をもったのはお前か?」
「うん」
「人体実験に使うなと言っておいたはずだが」
「実験違う。あれは依頼。バルバラ嬢、メラニーに毒を仕込まれそうになった。お返しがしたいと言われたから、ここにいる間、同じ毒をメラニーに朝昼晩出した」
ドロシーが淡々と答える。
「……そうか」
「でもエルンストが追い出したから、依頼を完遂できなかった」
「す、すまん」
エルンストが謝るとドロシーは首を振った。
「エルンストが怒った時、わたし、胸が熱くなった。不快じゃなかった。これ、どういう感情?」
ドロシーが不思議そうにエルンストを見上げる。
彼女は日々の変化を必ずエルンストに聞いてくる。
「……嬉しいっていう感情だよ」
エルンストが言うとドロシーは覚えたての言葉を繰り返した。
ドロシーは人間ではない。
かといって悪魔でもない。
彼女が来たのは数年前の話に遡る。
王太子の座をめぐって王弟と子供のオリバーが争った時、グリュンブルグ侯爵家はオリバーについた。王妃と侯爵夫人は大の親友で息子たちもそうだったからだ。
しかし、王弟は教皇と結託し、王家に伝わる紅玉の首飾りを使って悪魔を呼び出した。グリュンブルグ侯爵家は幼いエルンストを残して炎の中に消え、混乱に乗じて王弟が王太子になった。
幼いオリバーは王太子の座に未練などなかったが、親友のエルンストを悲しませたことだけは絶対に許せなかった。
幼いながらも天才の片りんを見せるオリバーは紅玉の首飾りを盗み、首飾りの悪魔を呼び出した。
『短期間で呼び出されるなんて驚いたこと、要件は何かしら? この間みたいに大量の魂でも献上するの?』
妖艶な女の悪魔が冷ややかな目でオリバーを見下ろした。
「いや、エルンストと僕を入れ替えて欲しい」
オリバーは悪魔の顔を見て願った。
『入れ替える? お前は一人ぼっちのグリュンブルグ侯爵家当主になるというの?』
「ああそうだ。僕のせいでエルンストは全てを失った。僕のたった一人の親友を、もう悲しませたくはない」
はっきりと言うオリバーに悪魔は楽しそうに笑った。
『なんとまあ、青臭い友情ごっこね。そのお友達とやらを悪鬼がはびこる宮廷の中に放り込む気? 自由のない宮廷暮らしを強いるつもりなのかしら』
悪魔が挑発するようにオリバーに言うとオリバーは笑った。
「エルンストが宮廷を嫌がったら、僕がまた助けるさ。どこかの国に二人だけで逃げるのもいい」
オリバーが言うと、悪魔は楽しげに笑った。
『いいでしょう。その願いをかなえてあげる。特別に手土産を一つあげるわ』
悪魔はそう言って消えた。
次にオリバーが目が覚めると、グリュンブルグ侯爵家の寝室だった。鏡を見ればエルンストの姿になっていた。
しかし、驚くことは他にもあった。大階段の踊り場に飾られている肖像画から人物がいなくなっているのだ。
グリュンブルグ侯爵家の初代当主、ドロシー・フォン・グリュンブルグ。すべての薬学に通じ、悪魔と取引したとも呼ばれる彼女は一介の薬屋から貴族にまで上り詰めた。
肖像画の下には人形のように眠っている少女がいた。
驚いているエルンストとなったオリバーに悪魔の声がささやく。
『あなた、この屋敷に来るたびにドロシーの肖像画を見つめていたでしょ? あまりにも熱いまなざしに私まで焦げちゃいそうだったの。一人ぼっちのかわいそうな王子様にちょっとワガママなお友達をプレゼントするわ』
悪魔の笑い声が響く。
しばらく呆けるエルンストだが、身じろぎする音を聞いて慌てて少女を抱き起した。
ずっと見つめていた彼女が自分の腕の中にいることが今でも信じられない。
どきどきと胸を高鳴らせながら、エルンストは戸惑いながらも名前を呼んだ。
長いまつ毛がかすかに揺れ、ゆっくりと瞼が上がる。
「お前、だれ」
開口一番、淡々とした言葉を放たれ、エルンストは面食らった。
声は可憐の一言に尽きる。だが、エルンストを見る目は商人が値踏みするような無遠慮なものだった。
「俺はオリ……いや、エルンストだ。グリュンブルグ侯爵家の当主。君はドロシーだな?」
エルンストが言うと、ドロシーは首を傾げた。
「そうなの?」
逆に訪ねられ、エルンストは戸惑う。
あたふたするエルンストの耳に再び悪魔の声がする。
『久しぶりの人間界だから、自分のことをすっかり忘れちゃったのよね。なにしろ、私の城でも日がな一日城に籠って薬学の研究に勤しんでいるんですもの。びっくりしちゃうわ。苦労するでしょうけど、がんばって人間のことを教えてあげてね』
悪魔の言い草にエルンストはとんでもない出来事が自分に降りかかったのではないかと今更ながらに思う。
腕の中のドロシーは綺麗な顔をエルンストに向け、首をかしげまくっている。
エルンストは大きく息を吐いた。
『どっちにしろ、俺は一人ぼっちだ。それならば、彼女と一緒に過ごすのも悪くはないか……』
エルンストはくすりと笑い、ドロシーに言った。
「改めてよろしく。君の名前はドロシー。俺の友達だよ」
その日からドロシーとエルンストの生活は始まった。宮廷育ちのエルンストが身の回りのことをするのは骨が折れたが、一を知れば十を知るエルンストはそつなくこなした。
一番苦労したのはドロシーの世話だった。
放っておくと一日中、薬草まみれになって壺をぐつぐつと煮立てていたりする。食事も言わないと取らないし、寝ることもしない。
何より、ドロシーは異常に金に執着した。
金儲けのタネがあるとすぐに飛びつき、エルンストに雑務を丸投げする。
おかげで製薬会社は盛り上がり、領地の税収をはるかに超えた。
ドロシーがなぜそんなに金に執着するのか、エルンストは気になって聞いてみたこともあるが、ドロシーは「よくわからない。あると嬉しい。それだけ」と答えた。
ある時、書庫をあさっているとグリュンブルグ家の領地がかつてひどい飢饉に見舞われてたことを知った。お金があれば食べ物を買える。はるか昔の考えが今もドロシーの心の中に根付いているのかもしれない。
■
「ドロシー。バルバラ嬢がお前をお茶会に呼びたいそうだ。どうする?」
ある日、エルンストが招待状を見せながらドロシーに聞くと彼女は大きく首を振った。
「行かない。そんなヒマがあったら金儲けをする」
「そうか……」
わかっていた返答だったが、エルンストは自分で思う以上にがっくりときていた。一度でいいから、着飾ったドロシーを見てみたい。そんなささやかな願いもどうやら叶えられそうにないらしい。
無性になぜか泣きたくなった。
「エルンスト。わたし、お金大好き」
「ああ、言われなくても知っているさ」
はあとエルンストがため息を吐くと、ドロシーはエルンストに向かって一歩詰め寄った。
「でも、お金よりもエルンストの方が好き。どうしたらエルンストは笑ってくれるの?」
ドロシーの直球な言葉に、エルンストは面食らった。
ぱくぱくと魚のように口を動かしているとドロシーは不思議そうな顔で首を傾げた。
「やっぱりお金を稼いでくる。お腹いっぱいになればきっとエルンスト、元気になる」
くるりと向きを変えるドロシーの腕をエルンストは掴んだ。
「違う。そうじゃない。嬉しい。君の告白はとても嬉しかった。……俺も君が好きだよ。君と出会うずっと前から」
エルンストがそう言うと、ドロシーは柔らかく微笑んだ。
いまだかつてない愛らしい微笑にエルンストの表情も和らぐ。
エルンストはたまらなくなってドロシーの身体に抱き着こうとした……が、ドロシーはするりと猫のようにすり抜けた。
「ド、ドロシー?」
「鍋。噴きこぼれの音がした。今度の新作。絶対売れる」
そう言い残すとドロシーはエルンストを置いてさっさと私室へ向かってしまった。置いていかれたエルンストは盛大にため息を吐く。
「はあ……。いつか報われるといいなあ」
そう言いつつ、エルンストはこの思い通りにならない関係を楽しんでいる。
彼女がいつか人間の心を取り戻し、エルンストの愛に応えてくれることを願って、エルンストは日々を一生懸命に生きるのだ。