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9 離婚

 シュミット弁護士が助手を従えてソ連将兵居住地内のジューコフ中将邸に入った時、アレクセイはまだ帰宅していなかった。

「すみません……今日は早く帰るって言っていたんですけど」

「いや、構いませんよ。中将殿も聞きたいだろうが……まあ、おらん方が都合がいい部分もあるからの、そこから始めよう」

 弁護士はまずグリューネヴァルトのリヒテンラーデ侯爵邸の売却について説明した。英軍の司令官も交代し、新しい司令官はもっと便利な場所に公邸を新築したので接収は解除されていた。しかし初代司令官の次男で画家をしている男がリヒテンラーデ邸を気に入り、買い取りたいと申し出ていたのだ。

「なかなかいい値段で売れたよ。金はある所にはあるもんだ。税金やら何やら引いた金は言われたとおりベルン中央銀行のあなたの口座に振り込みましたよ。子供たちはスイスの学校にやるのかね?」

「実家から昨日、学校が決まったという連絡がありました。けれど学費は私の実家が出してくれるみたいなんです。だから私、このお金はジークフリートに返そうかと思っているんです」

「いや、ジークフリートに何かあった場合、彼の持ち物はすべて米軍のふところに入ってしまう。彼が死刑にならず、有期の懲役で済んで出所できればそれまでの間、あなたの名前で預金していたほうが安全じゃ。それからこの金のことも実家の兄さんからもらったという金のことも中将には内緒にしておいたほうがいい。決してロシアのルーブルや東ドイツマルクに変えてはならん。西側通貨で持っておきなさい」

「わかりました」

 エリザベートは通帳を見た。両方の金を合わせると自分ひとりならつつましやかに暮らせば一生暮らしていけそうだ。いやいや、別居するというのはやめにしたではないか。それに実家の援助がいつまで期待できるかは分からないし、子どもたちの学費だって値上げになるかもしれない。このお金は大切に置いておかなければ。自分が使ってしまっていい類の金ではない。しかし彼女は今までずっと気にかかっていたことを口にした。

「先生、こちらからジークフリートの弁護料をお支払いしたいのですが」

「いやいや、それは不要じゃ。わしは先々代の侯爵からずっと財産の管理をまかされておったんで、長い間過分な報酬をいただいておったんでの……それに……」

 弁護士は言葉をつまらせた。

「ヒムラー長官からジークフリートが親衛隊に誘われた時、あれの母親とわしはもろ手を挙げて賛成した。司法試験を受けて裁判官になるという夢を持っていたジークフリートをSS入隊に後押ししたのはわしなんじゃ。わしにはあれの人生をまげてしまった責任がある。この仕事はわしの弁護士としての最期の仕事なんじゃ……」

「では先生、せめて旅費だけでも」

「それも心配いらんよ。終戦直前にジークフリートが家の預金を下ろしてしまっておったじゃろう。彼はあれを金塊に換えてオデッサに預けていたらしい。出所後は偽名で銀行に預けて細々と暮らしていたようじゃが、まだかなり残っておる。すべてが終わった後は精算して、それもあんたに渡すようことづかっておる」

 執事が管理していた家のお金。夫が自分の一存でおろして持っていってしまったばかりに私達妻子は戦後困り果てた。そのくらい彼は分からなかったのだろうか。ジークフリートは妻である自分よりもオデッサという組織を信じていたのだろうか。エリザベートは深く傷ついた。確かに自分には財産管理能力はなかった。残っていた預金もただ「持っている」ことしかできず、通貨改革で紙くずにしてしまったのだ。

「先生……このお金、どうすれば安全に持っていられるでしょう」

「財産はリスクを避けるためにいくつかの通貨に分けて持つことが大切じゃ。スイスフラン、アメリカドル、イギリスポンド……」


 そんなことを話していた時だった。玄関が騒がしくなり、弁護士とエリザベートはアレクセイが帰ってきたことに気づいたので大急ぎで財産関係の書類を封筒に片付けた。

「すみません、先生。早くに出たのですが事故渋滞ですっかり遅くなってしまって……」

 弁護士は手を振った。

「いやいや、わしも今来たところじゃ。奥さんと昔話をする時間が持ててよかったよ」

 弁護士は別の封筒から離婚届を取り出した。懐かしいジークフリートの筆跡を眼にしてエリザベートは涙ぐんだ。本気なのだ……本気でジークフリートは私と別れる気なのだ。アレクセイと結婚するためには過去を清算しなければならないと分かっていても、割り切れない何かが彼女の胸を支配していた。拘置所にいる夫を捨てて新しい男と幸せになるなんてできない。アレクセイが隣に座っているので声をあげることはできなかったが、彼女はあふれる涙を止めることができなかった。

「エリザベートさん、ジークフリートが写真をありがとうと言っておったよ。朝に夕に君と子供たちに話しかけていると……君の幸せを心から祈っていると伝えてくれと頼まれた」

 弁護士の言葉にエリザベートはうなずき、そしてサインした。

「これはこちらで役所に提出しておきます。再婚禁止期間が終わればエリザベートさんは自由に結婚できます。ここから先はジューコフ中将、あなたの国の法律問題になります。国際結婚は認められそうですか」

「あまり私の周りでは見たことがないので、総司令官を通じて聞いてもらっているところです」

 エリザベートが離婚届にサインしたのを見て、アレクセイはほっとしてソファに背をもたせかけた。

「では次に、リヒテンラーデ侯爵家の3人の男の子たちの件ですが、新学期からの受け入れ先が決まりましたので東ドイツでの就学義務免除の手続きを行います」

 アレクセイは飲もうとした紅茶にむせるほど驚いた。

「どういうことですか? あの子達は夏休みが終われば戻ってくるんじゃないのですか」

 彼は隣に座るエリザベートを見た、彼女を黙ってまっすぐ弁護士を見ていた。

「リヒテンラーデ侯爵による父親としての最期の親権行使です。費用は屋敷を売った代金を使用、事務手続きはエリザベートさんと私を代理人として指名……」

 アレクセイにとっては寝耳に水のような話だった。子供たちは夏休みをアルプスで過ごしているだけではなかったのだろうか。スイスの全寮制の私立学校だって? 小さいアフフレートまでが? 貴族や金持ちの子供ばかりを集めた学校なんて……


 弁護士を見送った後、アレクセイはエリザベートを寝室へひっぱっていった。自分たちが言い争っている姿を使用人たちに見られたくないという気遣いだった。

「子供たちを転校させるなんて、そんな大事なことをなぜ今まで黙っていたんだ!」

「別に……私たちの世界では当然のことだし、あなたに迷惑をかけたわけでもないでしょう」

「当然……何が?」

「つまり貴族の子供は幼いうちから親と離れて全寮制の学校に入るってことよ。ジークフリートも私もそうやって……」

「貴族だと! 時代錯誤もはなはだしい。第一次世界大戦で敗北して皇帝が退位してドイツでは貴族制度はなくなったんじゃないのか。30年も前の話だ。さらにもう一回戦争を引き起こしたあげくこてんぱんに負けておいて、何が貴族だ。君はまだそんな特権階級意識を引きずっているのか」

 自分の所属する階級を国ごと侮辱されたが、エリザベートは冷静に答えた。

「でも……リヒテンラーデ家は侯爵家なの。ジークフリートがあんなことになってしまった今、長男のエドゥアルトが侯爵様なのよ。ドイツの古い貴族の家柄なの。ここのロシア将兵用の学校に通わせるわけにはいかないわ」

「居住地から出て普通のドイツ人用の学校に通ったらいいじゃないか。そのくらいの送迎はしてやるさ」

 エリザベートはため息をついた。

「普通の学校ではだめよ。労働者階級と机を並べるわけには……」

「だからさっきから階級とか貴族って何なんだよ! 人間はどこに生まれようと平等なんだよ」

「それは共産主義の考え方だわ」

「俺の祖国は共産主義なんでね」

「とにかく……これはジークフリートの遺言に近いものなの。家を売ったお金で学校に行かせてやってほしいって、私は拘置所で直接頼まれたのよ」

「金を出せばそれでいいって言うわけか?」

 アレクセイにはこういう私立学校の学費や寮費がいくらかかるのかは見当もつかなかった。ロシアでも帝政のころにはそういう学校があったらしいことは聞いている。おそらく自分の給料ではとてもまかないきれないことだけが想像でき、彼は屈辱感にあえいだ。アレクセイはキャビネットからウォッカを取り出してグラスに注いだ。夕食前なのに、というエリザベートを「うるさい」と一喝した。

「俺の気持ちはどうなるんだよ」

「え?」

「俺は君を愛していて、結婚しようと思っている。君の子供たちにもこの4年間、愛情を注いできたつもりだ。アルフレートなんて、俺のことを実父だと思っていたからミュンヘンでは混乱して泣いていたんだぞ。結婚したら本当の子供として育てていきたいと思っていた。養子にしたいとさえ、思っていたのに……」

「そうよ……養子になったわけじゃないのよ。あの子達は私とジークフリートの子供たちよ。どういう教育をするかはリヒテンラーデ侯爵家の問題だわ」

「義務教育しか受けられずに軍隊に入った義理の父親には育てさせられないと言いたいのか」

「誰もそんなこと言ってないじゃない!」

 貧農の家に生まれたアレクセイは7歳のとき両親をあいついで病気で亡くした。兄弟姉妹はばらばらに親戚の家に引き取られた。アレクセイが引き取られたのは父の従弟であるゲオルギー・ジューコフ元帥の実家だった。アレクセイより14歳年上のゲオルギーは義務教育終了後モスクワへ働きに出ていたが、第一次大戦が始まると徴兵され、その後のロシア革命でソ連赤軍に入隊した。時折帰省して軍隊の話を聞かせてくれるゲオルギーはアレクセイの憧れだった。そしてアレクセイも彼を追って軍隊に入隊したのだった。その後軍隊内で彼の有能さと勤勉さが認められ、騎兵学校や軍事アカデミーなどでの教育を受けることが出来た。

 エリザベートは第一印象でアレクセイのことを「きちんとした代々軍人の家庭に生まれ、陸軍士官学校出身のエリート」と感じたので、この経歴を聞いたときはかなり驚いた。よく考えれば「代々軍人の家庭」なんていうものはロシア革命で外国に逃げた貴族なので、ありえない話だった。彼が貧しい平民の出身だということはアレクセイに対する愛情も尊敬もいささかも損なうものではなかったが、それでも時々話が通じないような場面では思い出さずにはいられなかった。

「ブルジョワのお嬢様が貴族の奥様になって……未だに特権階級意識を持っているとはね……お前はやっぱり侯爵夫人でいたいんじゃないのか? ジークフリートの妻でいるのがいいのか、エリザベート」

 エリザベートは怒りに唇を震わせてアレクセイをにらみつけた。育った国も言葉も文化も違う二人が一緒にいるのだ。食い違うことが多くても仕方がないだろう。けれどアレクセイは「必要以上にジークフリートの話をするな」と言いながら、自分は何でもこういうふうにジークフリートと結びつけて考えているのだ。頭の中ではアレクセイの嫉妬も苦しみも理解できていたので、なんとか自分の愛情を言葉で表現しなければと彼女は考えたが、いい言葉が浮かんでこなかった。沈黙の後、先に口を開いたのはアレクセイだった。

「ジークフリートのところに戻りたいのか……エリザベート」

 自分はアレクセイとこれからも仲良く暮らしていきたいと考えているのに、どうしてこうも妙な言い争いになってしまうのだろう。そしてどんなに自分が愛情を示しても、彼は不安を口にするのだ。さっき目の前で離婚届に署名したばかりなのだ。それで充分じゃないか。好きだとか愛しているとか言うべきなのだろうか。しかしどうしても口からそんな言葉は出てこなかった。自分は本当にこの人を愛しているのだろうか。ただ、戦争直後の混乱期に守ってもらった恩義を感じているだけなのだろうか。恩義のためにこの先の自分の人生をすべてささげなければならないのか?

「私は……あなたと一緒にいるつもりです」

 エリザベートはやっとのことでこの言葉を発した。親衛隊員の妻だったということだけでも、社会から排斥を受けるには十分だった。自分はそれにもましてソ連の軍人の愛人になるという、二重の嫌われ者だった。ドイツ社会では決して受け入れられない生き方を選んだのは、アレクセイ個人を愛していたからにほかならなかった。会いたくてたまらなかった。一緒にいたくて、抱き合いたくて……あの頃のめくるめく感情はもうどこにもなかった。

 アレクセイは潤んだ赤い瞳で彼女を見ていた。彼が次に何を求めてくるのか分かりきっていた。こんなとき彼はいつも少し性急で乱暴なのだ。耳元で「愛してる」とか「俺だけのものだ」とささやく声を、エリザベートはしらけた気持ちで聞くことになるのだ。


 なぜこんなにいらいらして不安な気持ちがつのるのか、アレクセイは自分自身でも分からなかった。結婚の準備はちゃくちゃくと進んでいるのだ。つい先日仕立て屋がやってきてエリザベートが採寸した後で長時間ドレスのデザインについて打ち合わせをしているのを、アレクセイは横で見ていた。彼女はまた、カトリック教会の結婚のための講義にも出かけていた。

 引越しの挨拶を兼ねたロシア将校を招いたパーティーは大成功だった。中でもエリザベートが前夜から仕込んだスイス料理やオーストリア菓子は評判だった。みんなエリザベートの流暢なロシア語を褒め、二人の結婚を祝福してくれた。

 エリザベートは毎日女中たちに指示していろいろ料理を考えてくれていたし、アレクセイの制服のつくろいは使用人に任せず、彼女自身がしてくれていた。料理も裁縫も花嫁修業のレベル以上にはしたことのないエリザベートが、彼女なりに一生けん命アレクセイに対して愛情を表現してくれているのがとても嬉しかった。オーストリアから戻ってきて以来、彼は喜びと愛おしさのあまり彼女を求めてしまっていたが、エリザベートは積極的に応じた。彼女が昼間のしとやかさをかなぐり捨てて奔放に振舞うのを見るのは楽しかったが、まるで何かを忘れたいがために、あるいは何かから逃げようとするかのようにセックスに熱中しているようにさえ見えた。エリザベートが絶頂に達する時の表情を見るのをアレクセイはいつも楽しみにしていた。しかしある時エリザベートは目を閉じて俺ではなくジークフリートに抱かれていることを想像しているのではないかという考えが頭をかすめた。女というものは性的興奮の際に視覚からの刺激を必要としないので、その最中に目を開けている女は少ないというのをアレクセイは知識と経験から理解していたが、一度心に浮かんだこの嫌な想像を払拭することはできなかった。

「私が欲しいのはあなたの心なんです」

 グリューネヴァルトのリヒテンラーデ侯爵邸で、初めて自分の想いを告白した4年前のことをアレクセイは常に覚えていた。確かに健康な男性の当然の欲求として、彼はエリザベートの身体も欲しいと思っていた。しかし一番欲しかったのは彼女の心だった。彼女が俺に微笑みかけてくれたら……俺と一緒にいるのを楽しいと思ってくれれば……今後たくさんの思い出を共有し、「あの時はああだったね」と二人で笑いあえたらどんなに幸せだろうと彼は願っていた。初めてキスした日のこと、耳まで赤くして「今度はいつ会えるの」とうつむいていたエリザベートの表情、そして別荘での夜……

 エリザベートはジークフリートよりも俺を選んでくれて東側に戻ってきてくれたのに……俺は確かにエリザベートの身体と人生を手に入れた。けれど心は? 心はミュンヘンの拘置所にいるジークフリートの元に置いてきたのか? 俺が一番欲しかった彼女の心を……。クノーベルスドルフ家の財産目当てに結婚したような男は未だにエリザベートの心を手にしているのだろうか。

 エリザベートが眠ってしまってもアレクセイは寝付けないことがほとんどで、毎晩ベッドサイドの椅子で酒を飲むのが習慣になってしまった。不安と不眠は彼の心と身体をむしばみ、さらに酒に頼るという悪循環に陥っていた。


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