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8 再会

 使用人たちは女主人の突然の帰宅に驚き、そして喜んだ。エリザベートの荷物を寝室まで運んだガリーナが訴えるような目で言った。

「奥様がいないと……旦那様は本当にお寂しそうでした。飲んで帰ってらっしゃることも多くて。夜中にも寝室でお酒をお召し上がりになっているようなんです。今日はとてもお喜びになると思いますよ」

 三人の息子を西側の学校に入れることや、話し合い次第では自分は別居も考えていることなど言えるだろうか、とエリザベートは不安になった。久しぶりに母親が帰って来たので2歳のレーナは「ママ、ママ」と足元にまとわりついて離れなかった。上の3人息子もそうだが、ろくに面倒を見ない自分のような母親にどうして子供たちは懐くのだろう、とエリザベートは思った。これに対して、アレクセイは義理の息子たちはもちろん、実の娘であるレーナをなめるように可愛がっていた。仕事が速く終わった日にはレーナを馬の前に乗せて近所を散歩したりしていた。別れるとしてもアレクセイはレーナを離さないだろう。3人の息子たちから実の父親も義理の父親も奪い、レーナからは母親を奪うことになるのだ。こんな母親でも、いないよりはいいのだろう。自分さえ何もなかったことにしてここに戻ればみんな幸せになれる……

 仕事を終えて家に帰ってきたアレクセイは出迎えた使用人たちの一番奥にエリザベートがいるのを見て、帽子を脱ごうとした手を宙で止めた。自分の見ているものが信じられないという顔をしていた。「お帰りなさい」と言うべきか、「ただいま」と言うべきか、エリザベートは悩んでしまって黙っていた。アレクセイは何か言おうとして唇を動かしかけたが言葉にならなかった。泣きそうな顔をしている、とエリザベートは思った。彼女は少し微笑んで首をかしげた。彼女自身、どう言ったらいいのかが分からなくなってしまっていた。彼はようやく一歩踏み出し、自分の元に戻ってきた最愛の女を抱きしめた。その拍子に制帽が床に落ちた。エリザベートは耳元でアレクセイがしぼり出すような声で「お帰り」と言うのを聞いた。彼が震えているのが感じられた。この人は私のことをずっと待っていてくれたのだと思うと嬉しかったし、必要とされていると感動した。アレクセイにいろいろと言わなければならないと考えていたが、そんな気持ちがなえてしまった。

 部屋で二人きりになると制服も着替えずにアレクセイはエリザベートを椅子に座らせ、その前にひざまずいた。

「本当にすまなかった……なぜあんなことをしたのか……この一ヶ月間、君が戻って来ないんじゃないかと何度も絶望的な気持ちになって……ごめん。どんな償いでもするから……俺から離れて行かないでくれ、エリザベート。君なしでは生きられない」

 スカートにすがりつくように泣くアレクセイに対しエリザベートはもう何も言えなくなってしまった。一ヶ月間抱き続けていた彼への怒りと失望。それをぶちまけてしばらく別居するという計画。だが、今アレクセイを目の前にすると、それが正しい方法とはどうしても思えなくなってしまった。自分が彼の謝罪を受け入れるまでアレクセイは謝り続けるだろう。

「君に襲い掛かった兵卒どもと、自分は違うってずっと思ってきた。けれど……あの時の俺は本当にどうかしていた。愛情ではなく、所有欲と独占欲で君を抱いた……いや、犯したと言ったほうが正しい」

「わかった……わかったから、アレクセイ。もういいから」

 エリザベートは自分も床に座って彼を抱きしめた。

「エリザベート……愛しているんだ。俺と一緒にいてくれ、頼む」

 エリザベートはだんだんアレクセイがかわいそうになってきた。そしてこの人は自分がいなければ生きていけないのではないかとさえ思えてきた。ジークフリートへの嫉妬のせいで乱暴なことをしでかしたけれど、私を愛しているから……エリザベートはさっきまで別居しようかとまで考えていたことを心のすみに追いやり、アレクセイの両頬をやさしくなで、自分から彼にキスをした。

「許してくれるのか? エリザ……」

「もう怒ってないわ……アレクセイ。これからもずっと私はここにいるし、あなたと結婚するつもりよ」

「……本当に?」

 ジークフリートが生きていたことで私が夫の元に戻るのではないのかとアレクセイは不安なのだろうとエリザベートは考えた。自分がきちんと夫と離婚してアレクセイとの結婚準備を始めれば彼の不安も徐々に解消されていくに違いない。私に対して優しいけれど無関心だったジークフリート。それに対してアレクセイは私への愛情が少々粗暴な形ででてしまっているだけなのだろう。

「結婚式の準備もはじめないとね。ウェディングドレス作ってもいい? 指輪も最近はいろいろなデザインがあるみたいよ。見に行きましょうよ」

 エリザベートは微笑みながら無理に楽しい話題を提供した。

「そうだな……君の好きな風なのにしたらいいと思うけど……ところで子供たちは? やけに静かだな」

「レーナは私が帰ってきたせいでお昼寝の時間がずれてしまって、さっきやっと寝たの。息子たちは夏休みの間あちらにいたいんですって」

「そうか。あっちはアルプスだし、いろいろ経験できるだろうね」

 その夜、久しぶりにアレクセイの腕の中に抱かれながら、エリザベートは初めて「早く終わってほしい」と願った。相手がこちらを気遣って時間をかけてくれているのは伝わってきたが、逆にそれがわずらわしかった。ようやく彼が体を離してくれた時にはほっとしてしまったくらいだった。アレクセイが寝息をたてはじめると、エリザベートはそっと彼の腕からすべり出て寝台のそばに置いてある小さなソファに移動した。そして戻ってきたことが正しかったのかどうかを自問した。戻ってきたからには「こうやって」暮らしていかなければならないのだ。安心しきった子どものような顔をして眠っているアレクセイの寝顔を見ながら、彼女はなかなかベッドに戻る気になれずにいた。


 しばらくは穏やかで何事もない日々が続いた。エリザベートは朝食が終わるとアレクセイを送りだし、レーナをつれて散歩がてら買い物に行き、昼食の後は子どもとともに昼寝をし、訪問客がいれば応対してお茶を飲み、夕食の準備をするというありきたりの主婦の生活に戻った。二人はお互いに気を使い合っていたので表立ったもめごとはなかったが、どこか自然体からはずれているというのを感じ合っていた。

 一週間ほど後、エリザベートがオーストリアで買い込んできた料理の本を台所女中たちと見ているとき、突然アレクセイが帰ってきた。エリザベートが帰宅して以来、彼はまっすぐ家に帰ってくるようになっていたが、それにしてもまだ3時だったので皆驚いた。

「正式辞令が下った。すぐ引っ越すぞ」

 10月に予定されているドイツ民主共和国(東ドイツ)建国に向けて駐東独ソ連軍も再編成されることになり、新しい総司令官の下でアレクセイ・ジューコフは中将への昇進とベルリン市での重要な役職に返り咲くことになった。今度住むのは以前のように街中で接収した焼け残りの家ではなく、ソ連軍人用の居住地区が新たに作られたということだった。

 居住地区は周りをぐるりと柵で覆われ、許可のない人間は侵入できないようになっていた。フェンスの上には監視カメラ、地区入口には自動小銃を持った兵士が24時間警備を行っていた。それを見るとエリザベートはまるで自分が閉じ込められるような錯覚を覚えた。戻ってきて以来、別居のことも3人息子の学校のこともまだ話すことができないでいるのだ。「とりあえずベルリンに戻ってからでもいいか」とエリザベートは考えて引っ越してきてしまったが、いつも心の中に引っかかるものを感じていた。しかし車が居住地区内をどんどん進んでいくと、彼女は明るい声をあげた。

「すごいわ。きれいな家ばかりね」

 日当たりのいい緩斜面に建てられた新居にエリザベートは魅了された。新築の家に住むなんて初めてなのだ。真新しいペンキの匂いがした。

 ジューコフ中将に用意された屋敷はその地位にふさわしく、かなりの数の部屋があり、エリザベートにもひとつ自由に使える部屋が与えられた。彼女はそこに膨大な数の楽譜を並べ、グリューネヴァルトのリヒテンラーデ邸にあったピアノを運んだ。どの部屋をどう使って家具をどう配置するかとか、離れているうちにずいぶん変わってしまったベルリン市街地の探検などで二人は忙しく過ごし、結局エリザベートはなんとなくアレクセイとともに暮らすことになじんでしまった。

ライプチヒの家が狭かったせいで、ベルリンから持って行ったはいいが開けることもできなかったダンボールがたくさんあった。大半はジークフリートの「遺品」だった。彼女はそうした箱を一つ一つ開けて中身のリストを作った。何か必要なものがあれば弁護士に頼んで拘置所に持って行ってもらおうと思ったのだった。

 大学の時の法律書が多かったが、本の間から薄い冊子がすべり落ちた。RSHA緊急連絡網……各部署の責任者とその下の係員の氏名・電話番号・住所が書いてある。1944年6月改定……ジークフリートはゲシュタポ課長で中佐となっていた。エリザベートは名簿を順番に見ていった。同じ課にジークフリート・リヒテンベルク中尉がいた。

「フィッシャー伍長のことは覚えているよ、リヒテンベルク中尉付きになっていた人だ」

 ジークフリートの言葉を思い出す。やはりリヒテンベルク中尉は実在したのだ。実在して同行したのなら、ジークフリートが「偽名」として使うはずがないではないか。名前が似ているのでフィッシャーが二人をごっちゃにしてしまっていたのだろうか。年齢や背格好も似ていたのだろうか。アレクセイやレオニードが誤解していたのだろうか。

 エリザベートはしばし手を止めて考え込んだ。誰が間違っていたにせよ、リヒテンラーデ大佐は生きていて、フィッシャーが看取ってミュンヘンの山に埋めたのはリヒテンベルク中尉なのだ。エリザベートは記載されてある電話番号にかけてみた。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という電話局のアナウンスが流れた。

 エリザベートは矢も立てもたまらず家を飛び出し、タクシーに乗ってリヒテンベルク中尉のアパートのあった通りを訪ねた。東西の境界線から少しばかり西の世界に入った場所にあるアパートは取り壊され、新しい建物が建築中だった。ちょうど工事の監督がいたので彼女は声をかけた。

「この建物は以前の所有者の方が新築しているのですか?」

「いえ、戦争で焼けたと聞いています。それから何度か土地が転売されたらしいです」

「以前は賃貸の集合住宅だったのですか?」

「さあ……」

 若い監督は面倒くさそうに答えた。エリザベートはひるまず、質問を浴びせた。

「もとの持ち主なんて分かりますかしら」

「……私は今の所有者しか知りませんね」

 エリザベートはがっかりしたが、近所の店にも聞いて回ってみた。しかし誰もリヒテンベルク中尉を知っている人はいなかった。


 失意の中エリザベートが帰宅すると、ちょうどアレクセイの乗った公用車が車寄せにすべりこんできた。

「一人で出かけていたのか」

 出かける時は使用人を一人つれていくように言われていたのでエリザベートは謝った。

「ベルリンはまだ治安が回復していない。規則を守らないならゲートの係員に申し付けてお前を外に出さないようにだってできるんだぞ」

 アレクセイはそう言ってさっさと二階へ上がってしまった。家の中の規則……それはアレクセイが一方的に決めたものだった。家具の一つを動かすにしても、エリザベートには何も言う権利がない。ここはあくまで「ベルリン駐在軍人」用の公邸であり、彼女は使用人としての立場でしかないのだ。

 夕食時エリザベートはリヒテンベルク中尉の家族を探したいという話をアレクセイにした。たちまち彼は露骨に不機嫌な顔を見せた。

「あの時リヒテンベルク中尉はリヒテンラーデ大佐の逃亡時の偽名だって聞いたけど、中尉はゲシュタポに実在したのよ。ジークフリートとはファーストネームも一緒だし、年恰好が似ていたとしたらフィッシャーさんが間違ったのも無理はないわ。中尉の家族も長い間私のような気持ちでいるのだとしたら……私何とかしてご家族の方に中尉の最期を伝えて……」

「無理だと思うよ」

 アレクセイは話の腰を折った。

「リヒテンベルク中尉の家族構成も知らないんだろう? 妻子はいたのか、両親がどこの出身だとか。終戦の混乱で何度も転居を余儀なくされた人は多い。空襲や市街戦で死んでいる可能性も高い」

「そんなこと調べてみないと分からないじゃない。土地や建物の登記簿から大家さんが分かれば、リヒテンベルク中尉の連絡先が分かるかもしれないわ」

「戦争末期の所有者が分かったとしてどうやって連絡するんだ? 大家だって自宅も倒壊して逃げていたかもしれないぞ。見つかったとしてもあの戦中戦後の大混乱のさなかに大家が賃貸借契約書を持っていられたとでも思うのか? 建物が倒壊しているのに?」

「じゃあフィッシャーさんに連絡とれないかしら。副官だったなら何か知っているかもしれないわ。あの時ソ連軍の司令部ではフィッシャーさんの連絡先は聞かなかったの?」

 アレクセイはため息をついた。

「フィッシャー伍長はもう生きてはいないよ」

「え?」

「あの時なぜ米軍がすぐにフィッシャー伍長を引き渡したと思ってるんだ。もともと彼は釈放される予定で、任意でお願いしてベルリンまで来てもらったんだ。いくらなんでもよその国の捕虜収容所から身柄引き渡しなんて出来ないよ。フィッシャーさんは具合が悪かったんだ。ガンで余命一年の宣告だった。あれから2年……いや、もう3年か。おそらく生きちゃいないよ」

 エリザベートはあまりのことにしばし絶句した。

「そんなこと……あなた、ひとことも言わなかったじゃない」

「言う必要がないと判断したからね。わざわざそんなことでかわいい君の胸を痛めることはないと思ったんだよ」

「わたし……でも、納得できなくて」

「納得できないのは俺も同じさ。ソ連軍の捕虜収容所を隅から隅まで探しても見つからないから、米英軍にまで頭を下げて公告を出してもらって……やっと見つかったっていうからわざわざレオニードを出張させたっていうのに……」

 アレクセイは頭をかいた。彼はレオニードの西側への出張命令を出すのにどんなに苦労したのかをぶつぶつと言った。フィッシャーの証言が間違っていたことよりも、ジークフリートの生還が腹立たしいというような態度だった。

「とにかくもうこのことは蒸し返すな。必要以上にジークフリートの話をしないでくれ」

「必要だから話しているのに」

「必要かどうかは俺が判断する」

「それって横暴だわ。私の意思はどうなるのよ」

「どこが? 妻は夫に従うものだろう」

 エリザベートは大きく息を吸った。言おうか言うまいか迷ったが、彼女は口に出した。

「あなたはまだ私の夫じゃないわ」

 アレクセイはナイフとフォークを乱暴に皿に放り出した。

「君はジークフリートと離婚する予定だ。君は今俺と同じ寝室を使っている。結婚式の予約もした。君はこのソ連軍人居住地区に暮らすことをソ連政府から認められ、身分証明書が発行されている。君は俺の子どもを産んだ。誰が見ても俺と君は事実上の夫婦といえると思うけどね」

「身分証明書には私、ハウスメイドってなっているけど」

 エリザベートは皮肉っぽく言った。アレクセイはナフキンをテーブルに置いた。

「それ以上口答えすると本当に外出禁止にするぞ。とにかく一人で外出しないこと、俺の帰宅までには家に戻る、この二つは守ってくれ!」

 食後のデザートとコーヒーを運んできた女中は二人の緊迫した空気に立ちすくんだ。アレクセイは「書斎に運んでくれ」と言い残し、食堂から出て行った。

 広い食卓でエリザベートはひとりデザートをつついた。こんなことを話すべきではなかったのだろうか。どうしてこんなに気まずい雰囲気になってしまったのだろう。確かにアレクセイの言う通りリヒテンベルク中尉の家族を探すことは雲をつかむような話だ。けれどあんなふうに「もう思い出したくもない」といった反応をするなんて……以前は「ジークフリートを愛している君を、俺は丸ごと愛している」って言ってくれていたのに。


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