6 ミュンヘン
ミュンヘンの街はけばけばしい色合いの看板やポスターであふれかえっていた。英語交じりの奇妙な表現が多い。通りの名前も英語併記されていた。ライプチヒやベルリンではロシア語併記の上、通りや広場の名称までレーニンだとかスターリンといったソ連の指導者の名前のついたロシア風に変えられてしまい、それに慣れてしまっていたので妙な違和感を感じた。
エリザベートはホテルを出た後20分以上早足で歩き続けたので疲れてしまい、開いていた一軒のファストフード店に入った。脂っこい食べ物と冷たいジュースを注文して席に運び、さっきホテルのフロントでもらった地図を見た。そして目的地であるザビーネ教会までの道を確認した。
バスを利用しようかとも思ったが、歩いても一時間程だろうと思い、彼女は徒歩で行くことにした。今回に旅行にあたり両替して持ってきた西ドイツマルクを持ってきていたが、何があるかわからないのでできるだけお金を使いたくなかった。しかしそれ以上に自分の足で街を歩き、自分の目で西側の世界を見たかった。
このバイエルンの町には結婚した直後にジークフリートの母方の祖母を訪ねてきたことがあった。祖母はその後亡くなったので、エリザベートは夫の親族と連絡を取り合うこともなく今日まで来てしまった。自分たちが無事に生きていることくらい報告するべきだろうかとも思ったが、身内に戦争犯罪人が出たということでいい顔はされないだろうと思い、連絡するのはやめた。
開店準備する人々の顔を見ているとエリザベートの住む東側の世界よりも活気があるように見える。物資もたくさん店頭に並んでいるようだ。ガレキの山もない。隣の芝生は青く見えるだけなのだろうか。以前のようにベルリンが封鎖されれば両親や友人たちとは二度と会えなくなるおそれがあった。アレクセイと人生をともにするというのは、東側の人間になることだった。ソ連占領地のドイツ人は皆西側に行きたがっていた。今年封鎖が解除された後、待ってましたとばかりにベルリン経由で西側を目指す人々は日に日に多くなっていた。
子供たちの教育の問題もあった。今は公立の小学校に通っているが、侯爵家の子供としてはとても充分な教育とはいえなかった。ジークフリートは「家を売った金を学費にあててほしい」と言った。ドイツでは公立なら大学まで無料なので、貴族にふさわしい私立学校に入れてほしいという意味だろうとエリザベートは解釈していた。
ザビーネ教会はほどなくして見つかった。教会の周りにはひとけがなく、西ドイツ警察と米軍のテープが張られ、立ち入り禁止の張り紙がされていた。教会の掲示板に真新しい紙が張ってあり、「信者の方へ 礼拝は以下の場所で行っています」と書いてあった。
エリザベートは張り紙に記載されていた場所にやってきた。公共の貸し会議室のような建物だった。平日の午前中なので誰もいないかもしれないと不安になったが、予想に反して10数人がいた。
「正直申しまして、私たちはとてもとまどっているんですよ……神父様が逮捕されてしまって。信者のほとんどはオデッサなんて聞いたこともありませんでした。あなたのご主人のリヒテンラーデ大佐のことも」
応対してくれた中年の女性はゾマー夫人と名乗った。この教会の婦人会の世話役をしているという。エリザベートとゾマー夫人は公民館の廊下のベンチで話した。
「クリスティン・エーゲノルフという女性を探しているんです。こちらの信者の中にいますか」
「クリスティンは2年前この教会に通っていました。けれどフランクフルトに違う仕事が見つかったということで転居しました。私は去年クリスマスカードを送ったのですが、宛先不明で戻ってきてしまいました。残念ながら、今どこにいるのかは分かりません」
「では、クララ・マイヤーという女性は?」
エリザベートはジークフリートが再婚していたという女性の名前を挙げてみた。
「さあ……そういう方は存じません。私は30年以上もこちらに通っていますが、その名前には心当たりはありません」
「クリスティンと親しかった方は?」
「クリスティンはシャーロット・フォン・エッシェンバッハが連れてきたのです。けれど後見人のエッシェンバッハ伯爵夫人が亡くなった後、シャーロットも2年前突然姿を消してしまいました。信者たちの間でも皆心配していましたが、誰も連絡先や事情を聞いた者はいませんでした」
エッシェンバッハという名前にエリザベートは聞き覚えがあった。総統のベルヒデスガーテンの山荘に来ていたメンバーの中にいたはずだ。老伯爵は気さくな方だったが、伯爵夫人とはほとんど話したことはなかった。彼らが姪であるという少女を連れて来ていたことがあったが、その少女がシャーロットという名前だっただろうか。エリザベートは少女の名前も面ざしも覚えていなかった。
結局何も分からないままにエリザベートは教会を後にした。逃げるようにベルリンを去り、そしてまた再びミュンヘンからも去ってしまったクリスティン。ジークフリートに私の近況を話した薬剤師はクリスティン以外に考えられないだろう。しかしジークフリートが生きていると知ったなら、なぜクリスティンは私に知らせてくれなかったのだろう。1947年8月なら私はライプチヒに引っ越していた。けれどマルタには転居先も知らせていたのに……マルタを通じて連絡できただろうに。
そこまで考えたエリザベートの心に、まるでクリスティンが話しているかのような声が聞こえた。
「では知らせたならどうしたと言うのです? あなたはすぐにでもリヒテンラーデ大佐の元に戻ったとでも言うのですか。はちきれそうなお腹をかかえてソ連将校の隣で『この方が私の赤ちゃんのパパよ』と幸せそうに微笑んでいたくせに。自分のしでかした不貞行為も産まれた赤ちゃんも、あのソ連将校への恩義もすべて捨てて忘れてしまって、何事もなかったかのように大佐の元へ戻れたというのですか……」
出来ない……そんなことは絶対に出来なかっただろう。終戦後の2年間ベルリンでは自殺者もさることながら凍死者や餓死者もあいついだ。強盗やかっぱらいが横行していた。「ナチの未亡人に入れあげている」とソコロフスキー総司令官からにらまれ、左遷の憂き目に合いながらも私たち家族を守ってくれたのはアレクセイだけだったのだ。それに恩義がどうこう言う前に私自身がアレクセイを愛し、一緒にいたいと願っていたのだ。
これと同じようにジークフリートもクララ・マイヤーに何がしかの愛情を持っていたのだろうか。クララ・マイヤーはシャーロット・フォン・エッシェンバッハなのかもしれない、とエリザベートは考えた。ジークフリートがなんとも思っていなくてもシャーロットがジークフリートを好きで、一緒に暮らしていれば……ああ、なんてつらいことなのだろう。自分はあんなに簡単に不貞を犯しておきながら、ジークフリートがクララを少しでも愛したかもしれないと想像するのは。
ジークフリートが収容所から釈放された時、私がまだ一人でいればまた彼と一緒になれたかもしれないとエリザベートは一瞬甘い夢にひたった。アレクセイと出会っていなければ……彼に恋しなければ……彼女の思考はアレクセイと出会った場面に戻った。あの時アレクセイが来てくれなければ自分と使用人の何人かはソ連兵に輪姦されていたはずだ。子供たちや執事の見ている前で。次の日もその次の日も同じ目にあったかもしれない。家は破壊され、略奪され、ことによると放火されていたかもしれない。ジークフリートが釈放されるまでの2度の冬を私たちは生き延びることが出来ただろうか。配給切符はあったが、その通りに配給が行われることはなかった。瓦礫の撤去作業をしても自分の配給ランクは『元ナチ党員』ということで最低ランクだっただろう。彼女はアレクセイが食糧や石炭をアパートに差し入れてくれたことを思い出した。
マルタの店に品物を置かせてもらって多少の売り上げがあったとしても、食糧を手に入れるのは難しかった。闇市では恐ろしい値段がついていた。いや、家が略奪されたり放火されていれば売れるものなんて何もなくなっていただろう……身体以外には。
ソ連兵に輪姦されたあげく、米兵相手に身体を売る……あのころそうしなければ生きていけなかった女性は多い。午前中から街角にはそういった女性が立っていた。道行く連合軍将兵の乗った車に媚を売っていた。子供たちの食べるものを買うために売春婦となっていたら、そんな風になってしまった私をジークフリートは受け入れてくれただろうか。
アレクセイと出会っていようがいまいが、私の人生はジークフリートから離れてしまっていた。運命がこれほどまでに自分たち夫婦が添い遂げることを妨害するなんて、あの6年間の結婚生活の幸福は幻だったのだろうか。3人の子供に恵まれ、何不自由ない生活、大ドイツ帝国臣民たる誇り……
その後、エリザベートは区役所にも言ってギュンター・フィッシャー氏のことを尋ねてみたが、生年月日も住所も分からないのでは話にもならなかった。
ホテルに戻るともう午後の2時を回っていて予想通りみんな出払っていた。彼女とアレクセイのホテルルームのベッドサイドテーブルに手紙があった。アレクセイからのものだった。
「昨夜のことを深く恥じている。どのような形の謝罪でも君の望むように行うつもりだ。君の帰宅をライプチヒで待つ」
エリザベートはベッドに横になった。肉体よりも精神の疲れをひどく感じた。ザルツブルクでゆっくりしよう。いや、ゆっくりなんてできるのだろうか。両親や兄たちは自分のことをどう思っているのだろう。かつてユダヤ人と結婚した人間は一族の系図から抹消され、忘れ去られていくと聞いたこともあった。そんな風に、自分もまた「死んだもの」としてウィーンでは扱われているのだろうか。
夕方ホテルに戻ってきたギーゼラと子どもたちとともにエリザベートは夕食を取った。
「アレクセイは予定通りの汽車でベルリンへ戻ったの?」
「……そのはずです」
ギーゼラも、使用人として家庭教師としていろいろと気づくことも多いのだろうが、立ち入ったことは決して話さない女性だった。アレクセイにしても自分たちの間のもめごとを人に知られたくはないのだろう。きっと黙って平然と汽車に乗ったに違いない。
彼を許せるのだろうか、とエリザベートは考えた。このまま戻らないという選択肢もあるのだ。戻ったとしても平穏な生活ができるのだろうか。ライプチヒでの生活は本当に平和だった。しかしジークフリートが生還した今、アレクセイとこれまで通りの関係でいられるとは到底思えなかった。