4 面会:アレクセイ
ドイツとソ連の4年間の長い戦争……頬をかすめた銃弾、吹雪と空腹、眠るときの冷たく凍った土の感触、シラミとノミ、血と硝煙。戦友たちの死。西へ西へと歩んだ日々。殺せ、殺せ、ドイツ人を殺せ。ひたすらそう叫んで進んだ。倒すべき悪のファシズム帝国ナチスドイツ。その中でも最悪の殺人部隊SS。スターリングラードからベルリンへ……ヨーロッパの解放。
そしてエリザベートをめぐる4年間の嫉妬。
鉄柵の向こうにいるのは8年もの長きに渡ってアレクセイを苦しめた相手に他ならなかった。金髪碧眼の男。ヒトラーの理想としたドイツアーリアンそのものの外見をしたジークフリートはアレクセイの入室を起立して迎え、深々と頭を下げた。白いシャツにグレーのズボンという簡素ないでたちだった。かつてはナチスドイツの親衛隊の制服をりゅうと着こなしていたのだろう。だが自分もそうだった。ドイツ民間人に見えるように私服だった。制服を着て仕事をしていた二人が私服で対面する……それは国と国とのメンツを捨て、同じ女を愛した男同士、ただの男と男としての対面だった。
「ジークフリート・フォン・リヒテンラーデです。はじめまして」
「アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフです」
金髪の男は穏やかな表情をしていた。アレクセイは軽く会釈して座った。ジークフリートも座った。二人の蒼い瞳と黒い瞳が一瞬交差した。どうしてこの男はこんなにおだやかな瞳をしていられるのだろうとアレクセイは思った。この戦勝国による一方的な軍事裁判で死刑になるかもしれないし、自分の留守中に妻を敵兵に寝取られた末、まさにその相手を目の前にしているというのに。おそらく自分のほうが険しい目をしているだろうとアレクセイは想像した。落ち着かなければ……怒鳴ったり感情的にならずに話せますように……彼は煙草を取り出した。そしてジークフリートにも勧めた。余裕のあるところを見せたい。
「吸いますか? こんな拘置所では支給はないでしょう?」
「いや、僕は吸わないんです。以前は吸っていましたが……総統閣下が喫煙は身体に悪いと皆に禁煙を勧めていましたので。それに、この部屋は禁煙ですよ」
ジークフリートの指さした壁の張り紙を見てアレクセイは煙草をポケットにしまった。これでは紫煙に頼って間を取ることすらできない。それにしてもこの男も終戦から4年たっても「総統閣下」という呼び名をするのだな、とアレクセイは思った。エリザベートにいくら言ってもやめないのも気になってはいた。「だって今さら呼び捨てになんて出来ないわ」彼女は決まってそう言うのだ。
「エリザベートが襲われたときに助けていただいたそうで……ありがとうございます。どんな言葉でも言い表せないくらい僕はあなたに感謝しています」
「いえ……人間として当然のことをしたまでです」
お前のために助けたわけではない。それにエリザベートはお前の所有物じゃない。お前が礼を言うことではない。アレクセイの心の中で黒い渦が沸き立った。兵士の多くが狂ってしまっている中で自分ひとり冷静でいられることに誇らしさを感じていたのだ。いや、冷静だったわけではない。興味がなかったのだ。女そのものに。精神的にも肉体的にも。シェーラを亡くしてから……エリザベートに出会うまでは。
「彼女との間に子供がいると聞きましたが」
「え、ああ2年前に生まれました。女の子です。レーナといいます」
「僕には男の子が3人いますが……女の子も欲しいって思っていたんですよ。父親にとって娘は格別にかわいいものなんでしょう?」
「それはもう。何ものにも代えがたい宝です。けれど私にとって最も大切な人はエリザベートです」
自分はなぜこんな世間話をしているのだろうとアレクセイはぼんやりと考えた。まるで幼稚園の保護者会で隣り合わせた父親同士が、間の悪さを埋めるためにする会話のようだと彼は思った。
「彼女とは結婚を予定しているのですか」
「付き合い始めたときから、いずれはと希望していました。けれど……」
お前が生きて戻ってきたせいですべておじゃんになったんだろうが、とアレクセイは叫びたかった。お前が生きているせいで、どんなに愛していても俺たちの関係は「不倫」みなされ世間からは認められず、エリザベートは俺の「情婦」とよばれる。
「僕はエリザベートとの離婚を弁護士に申し立てます。彼女もそれに逆らいはしないでしょう。そのあとは……ジューコフ少将、彼女を妻として守ってやってください。こんなひどい世の中で女が一人で生きていくのは容易ではありません」
アレクセイは驚いてジークフリートの顔を見つめた。相変わらず穏やかな表情をしている。まるで聖職者と話しているようだ。
「あなたは……あなたは私のことが憎くないのですか? あなたが収容所で苦労している時に、私があなたの大切な妻をかどわかしたと思っていないのですか」
ジークフリートは少し微笑んだ。
「あなたがエリザベートを暴力や金品で従わせているのなら、僕はあなたを殺したいほど憎むでしょう。しかし先ほど彼女はあなたのことを愛していると言いました。自分の傍でずっと守ってくれたあなたに、どうしようもなく惹かれていったと。エリザベートはあなたの傍にいて幸せなのです。あなたと共に生きたいと願っているのです。僕は彼女の幸せだけを祈りたい」
エリザベートが夫にむかって本当にそんなことを言ったのだろうかと、アレクセイは半ば感動しながら聞いていた。エリザベートは本当に俺を選んでくれるのだろうか、俺と一緒に東側へ戻ってくれるのだろうか。東プロイセンやポーランドから追い立てられたドイツ系住民は皆「東半分」を通り越して西ドイツへと向かった。「東半分」に住んでいるドイツ人の西側への流出も止まらない。知識階級や若い層ほど逃げてゆくのだ。このままでは東ドイツ自体がなりたたなくなる。早晩またベルリンは封鎖されるだろう。エリザベートの友人も皆西側に住んでいるか、あるいは西へ移住した。彼女は本心では自分も西側へ行きたいと思っていないのだろうか。「東側の世界」と俺を選んでくれるのだろうか。
「ジューコフ少将、彼女をお願いします。こどもたちのことも……あなたに今日お会いできてよかった。あなたにならエリザベートを任せることができます。僕は一人で死んでいきます」
「あなたは……死刑になるようなことを本当にしたのですか? ユダヤ人の移送問題ですか?」
「ユダヤ人問題にはかかわっていませんよ。知ってはいましたけどね。直接関与はしていません。追い立てられるのは気の毒だとは思いましたが、ドイツをドイツ人の手に取り戻すためには当然のことだと認識していました。私はドイツ国内や占領地での反ナチス活動をする人間を取り締まりました。それに必要な法律の制定作業にもかかわりました。当時は正しいと思ってやっていましたが、それを戦争犯罪と言うのなら仕方がありませんね」
「ユダヤ人への迫害や差別なんて、どこの国にもある。政府にはむかう人間はわが国でもシベリアへ送られます。昨日までの寵臣が今日は収容所なんてしょっちゅうだ。けれど取り締まる人間は命令と法律に基づいて仕事をしているに過ぎないでしょう。ドイツで同じ仕事をしていた人だけが裁判にかけられるというのは私には納得いきません」
ジークフリートは声をたてて笑った。
「戦勝国の将校の発言とは思えませんね、ジューコフ少将」
本当にハンサムで魅力的な男だとアレクセイは感じた。エリザベートが彼に出会ったという25歳のころなら彼はどれほど凛々しい青年将校だったことだろう。彼女の話によるとジークフリートが家族や使用人、部下に声を荒げているのを見たことがないという。貴族としての血がこの冷静さをかもしだしているのだろうか。それに比べて自分はどうだろう。
「フォン・リヒテンラーデSS大佐」
アレクセイはジークフリートに階級をつけて呼んだ。もう今はなきドイツSSの階級。
「あなたは法科の出身と聞きました。米英ソ3国はこれまで存在しなかった《平和に対する罪》《人道に対する罪》なんていう国際法を新たに制定してそれを遡ってドイツに適用しようとしているのですよ。法は制定された日以降に適用されるものなんです。遡っての適用……それも最終的に敗北したドイツと日本に対してだけに。イタリアは戦勝国扱いでオーストリアは被害者扱いだ」
「おっしゃるとおり、法の遡及適用はおかしな話です」
「何をもって《平和に対する罪》と言うのか……何が《侵略》なのか。欧米諸国によるアジア・アフリカの植民地化は《侵略》とは言われないのです。ドイツや日本への無差別空襲や原爆投下は非人道的ではないのでしょうか。1939年私の国はドイツと同時にポーランドに侵攻しました。領土をドイツと折半して併合しました。今回終戦にあたって、それを返還しませんでした。結果ポーランドはドイツの東部を割譲させて大きく西にずれて独立することになりました。ドイツはヴェルサイユ条約でかなりの領土を失ったけれど今回さらに25%を失った。東プロイセンはじめ、あの辺りに住んでいたドイツ系住民は追放された。何世代も前に入植した人々までが、土地家屋も何もかも失って命からがらに……その数1000万人以上といわれています。それなのにわが国は《平和に対する罪》を問われることはない」
ジークフリートは黙って聞いていた。
「まだありますよ。ベルリンに向かって進軍しながら私は東欧で強制収容所というものを見ました。あんなものはソ連にだっていくらでもある。収容所内や占領地でドイツ兵相手の娼婦の募集があり、食糧配給と待遇の改善を期待して応募する女性がいたそうです。これが連合国のほうから《人道に反する》とされている。けれど東プロイセンやシュレジェンで女とみれば襲い掛かったソ連軍将兵を裁く場所はない。ベルリンでも同様に女性を戦利品扱いして……」
アレクセイは自国の軍隊に誇りを持っていた。元帥のコネもあったので彼の部隊は危険な最前線ではなく、後方支援と補給確保を主な仕事にしていた。最前線の部隊とそのあとの戦車部隊の通った後の惨状……被害者の告白と調査の結果を彼は思い出した。
「ドイツ人への復讐」をいう単純な構図では説明できない蛮行が繰り広げられていた。金品の強奪や家屋への放火により、第二波、第三波の攻め入った後は廃墟のような村々が残されていた。そして非戦闘員への強姦と殺人。赤軍は逃げ遅れたドイツ人だけでなく、自国から連れ去られたロシア人捕虜やポーランド人、ユダヤ人といった「味方」の女にまで襲い掛かり、虐殺していた。
……私はロシアの生まれです。父と兄は赤軍にいます。戦争がはじまり、私はドイツ軍に捕らえられ、奴隷のように工場で働かされました。昼も夜も泣きながら赤軍の到来を待ちわびていました。それなのにどうしてこんな目にあわなければならないのですか。これではドイツ人のところにいたほうがましでした。
……被害者は4歳
……被害者は75歳
……一週間で250人から暴行を受けました
……あまりにひどい裂傷のため病院で縫合手術を受けた者、多数
……集団で強姦の後、射殺して木からつるされていた
……入院中の臨月の妊婦、出産したばかりの母親が犠牲となる。
……自殺者、多数
彼以外にも「なんとか軍規を締めないといけない」と考える将校も多数いたことは確かだった。しかし兵卒はみんな酔っ払って暴力的になっているし、さらには将校自ら蛮行に走っている場合もあり、綱紀粛正は困難を極めた。大抵の将校は礼儀正しくふるまっていたが、部下の騒ぎを止めようとする者は少なかった。何度となく通達が出された。「占領地での非人道的ふるまいを禁ず」どれほどの効果があっただろうか? いや、それよりも「上」の連中は放任していたのだろうか。推奨しているとも言われかねない雰囲気もあった。
自軍の飛行機が戦意高揚のためにばらまいたビラを思い出す。
「赤軍兵士よ、きみはいまドイツの土地にいる。報復のときはきた!」
「日々を数えるな。距離を数えるな。もっぱらきみが殺したドイツ兵の数を数えよ。ドイツ人を殺せ。これがきみの母親の祈りだ。ドイツ人を殺せ。これがきみのロシアの大地の叫びだ。ためらうな。やめるな。殺せ」
「ブロンドのドイツ娘をさらえ、彼女らは諸君の戦利品だ」
イリヤ・エレンベルクの詩を真に受けて兵士らはあのような所業を行ったのだろうか。エルベ川より東では「無事」だった女性はおらず、ベルリンに処女なしとまで言われたのだ。
「このままでは、将来に禍根を残しかねない」と会議で発言した中佐もいた。「東欧をソ連共産主義の同盟国として考えているのなら、このような仕打ちをしていたら同盟関係は一時的なものになってしまうだろう。彼らは我々が行ったことを決して忘れることはなく、末代までも語り継ぐだろう。アメリカになびくのは時間の問題だ」
次第にアレクセイは同じ考えの将兵とともにパトロールも行うようになった。ユダヤ系でありながら、わざわざ進軍を遠回りしてまでドイツ女性を助けた将校もいた。だが救えたのは氷山の一角だった。現行犯を捕まえた場合など「戦利品の味見をして何が悪い!」と怒り狂ってこちらに発砲してくる者までいた。あまりにひどい場合は即決裁判で射殺を行ったこともあった。しかし見せしめ効果はほとんどなかった。
「でも、あなたのように『悪いことをしない』兵士もいたわけでしょう? いくらなんでも赤軍すべてが獣だとは思いませんが」
「当たり前です」
できるだけ威厳をもってそう答えたが、どのくらいの割合でいただろうかとアレクセイは考えた。半数以上? 半数以下? いや、ほとんどみんな狂ってしまっていたのか。どの兵士も国に帰ればよき息子、よき夫、よき父親であったはずなのに。なぜみんな狂気にかられたようになってしまったのだろう。俺たちにドイツ人を裁く権利があるのか?
「エリザベートがあなたを愛していることを認めるのは僕にとって、心を引き裂かれるようにつらいことです。けれど、今日あなたに会っていろいろお話できて、あなたにならエリザベートをお願いできると確信しました。彼女をどうか……」
ジークフリートはまた頭を下げた。顔を上げたとき、彼の蒼い瞳は涙で潤んでいた。
「なぜあなたは……そんなに穏やかな顔をしているのですか?」
「今のこの状態が楽だからですよ。僕の両親は不仲だったので物心ついたときには両親は別居していました。だからほとんど父には会ったことがありません。その代わりにシュミット弁護士と母親からドイツ帝国再興の夢をたたきこまれました。親衛隊に入ってからも第三帝国の中枢に入り込まんとして努力に努力を重ねてきました。結婚も……たしかにエリザベートのことをかわいいと思ったし、愛してもいた。けれど、結婚するにあたっては、彼女が3代前まで純粋なアーリア人で血族に障害者がおらず、きちんと育てられたお嬢さんであったことのほうが重要でした。親衛隊員の結婚には許可が必要でした。そして彼女は健康な3人の子供を産んでくれ、僕は親衛隊員として片身の狭い思いをすることもなくいられました。感謝しています」
俺にはそんなことは関係ない、とアレクセイは憤りを感じた。これだけの美貌の持ち主だ。おそらくこの男は言いよってくる女には事欠かなかったに違いない。その中から最も条件のいいエリザベートを選んだにすぎないのだ。若く健康で、クノーベルスドルフの財力を後ろ盾にもつ「処女」。もし彼女に16分の一でもユダヤ人の血が入っていたり、子どもが産めないほど体が弱かったり、親族に精神病患者がいれば即座に花嫁候補からふるい落としたのだろう。俺は何も計算なしにエリザベートを好きになった。ナチ高官の妻で子持ち……そんな悪条件など関係なかった。
「捕虜収容所でも偽名を使っていたので、誰か自分のことを知った人間がいないかどうかビクビクしていました。釈放されてからも、街で視線を感じて路地に逃げ込んだり、夜中の小さな物音にも目が覚めました。当初勧められたようにアルゼンチンに逃亡していれば今でも自由の身だったでしょう。いや、あの時米軍に捕まらずにすぐにでもエリザベートに連絡できていれば、家族5人でブエノスアイレスで暮らしているんじゃないかっていう夢を今でも見ます。けれどドイツを離れれば僕は不幸だったに違いない。
僕はオーストリア人パウル・ミュラーではなく、ドイツ第三帝国の親衛隊大佐ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ侯爵として死んでいきたい。東西の前線基地として分断された祖国も見ていたくはない。第四帝国も見たくはないのです」
その後弁護士が子供たちとギーゼラを連れてジークフリートと面会している間、アレクセイとエリザベートは待合室で二人は無言で座っていた。互いに相手がジークフリートと何を話したのか気になったがどちらも押し黙ったままだった。