2 ジークフリート
「ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ 最終階級 SS大佐
1913年1月10日生まれ
父親はシュレジェン地方に荘園を持つ侯爵
母親はバイエルン王家につらなる名門の出身
政略結婚であった両親は不仲であったため別居が続き、彼はバイエルンで育つ
また侯爵家は第一次大戦で領地をはじめとする財産をほとんど失ったため彼は母方の援助でギムナジウムと大学へ進学
(ボン大学法学部在学中は裁判官になりたいという希望を持つ)
父親は1927年に死亡
母親は1936年に死亡
1932年バイエルン王家のクリスマスパーティーでハインリヒ・ヒムラーSS長官から直接スカウトされ、学生SSに入隊。1935年、大学卒業後正式に入隊。
1935年 SS少尉 RSHA 第Ⅱ局(法務)
1937年 SS中尉 RSHA 第Ⅲ局(国内諜報)
1938年 ヒトラーのウィーン入城警護
ウィーンのドイツ軍司令部勤務
オーストリア国内での反ナチス活動取締
1939年 SS大尉
同年 銀行家の娘エリザベート・フォン・クノーベルスドルフと結婚。
3児をもうける
注釈(米軍司令部による)
※ヒムラーの考えにより貴族の子弟のSS入隊が奨励されていた
※大卒者、法学出身者であるため昇進が早いと思われる
※妻エリザベートは現在東ドイツ駐留ソ連陸軍少将アレクセイ・ジューコフの情婦となり
少将の子を一人出産。現在も囲い者としてライプチヒにて同居中
」
弁護士からもらった資料に目を通すのは何度目だろう。アレクセイは最期の行でいつも顔をしかめてしまう。ひどい表現をするものだ。エリザベートをちらっと見やると彼女は窓にひじをついて外の風景を見ていた。西側の景色を目にするのは何年ぶりだろう、という表情だ。列車の旅に興奮していた3人の子供は眠ってしまっている。子供たちの世話のために同行した家庭教師のギーゼラもうたたねしていた。
リヒテンラーデ大佐逮捕の知らせを受けてエリザベートはすぐにベルリンへ発ち、米軍司令部へ出頭した。潜伏中に逮捕されたジークフリートはミュンヘンに移送され、アメリカ軍により戦争犯罪人として裁判にかけられるということだった。彼女はかつてリヒテンラーデ家の財産を管理していたシュミット弁護士を訪ねた。弁護士は既にジークフリートと連絡を取り、弁護人についていた。そしてジークフリートが「妻」に会いたがっていることを告げた。
「でも私……」
躊躇するエリザベートに弁護士は優しく言った。
「何もジークフリートは君が裏切ったとか不貞を働いたとか言って責めるために会いたいと言っているのではないのだよ。ただ君の無事な姿を見たいだけなんだろうとわしは思っておる。子供たちにも会いたいらしい。おそらく別れを言いたいのだろう」
「別れ……?」
「彼は戦犯として処刑されるのを覚悟しておる。いや、それどころか裁判を闘う気力もなくしている。罪をすべて認めて死ぬつもりなのだろう。」
エリザベートは身を乗り出した。
「処刑ですって! 死刑になるようなことをあの人はしたんですか? 彼はRSHAで一体どんな仕事をしてたんですか?」
「それはこれからおいおい裁判で出てくることじゃが……ジークフリートが、ドイツが、正しいと思ってやったことでも戦勝国にとってはそうではないんだよ。戦勝国が同じことをやっても誰も責めるものはいないのにな……」
RSHA長官カルテンブルナー始め政府の中枢にいた人々がニュルンベルク軍事裁判で裁かれ、絞首台に消えていった。戦争をはじめた原因をすべてドイツの責任にして。ジークフリートは一度も戦場には出ていない。訓練以外で銃の引き金を引いたことはないはずだ。
「行っておいで、エリザベート。君も彼に会いたいだろう。俺に気兼ねしなくていいから」
それまで黙っていたアレクセイが言った。これは彼にとって精一杯のセリフだった。本当は行かせたくない。しかし自分が「度量のある男」であることを示したかった。
「だけど……」
それでもなおエリザベートは躊躇し続けた。彼女の頭は混乱しきっていた。もちろんエリザベートのほうにもジークフリートに聞きたいことは山のようにあった。なぜベルリン脱出を勧めてくれなかったのか。生きているならなぜ手紙の一枚もくれなかったのか。
「あなたもご同行いただけますか、ジューコフ少将」
「私がですか?」
弁護士の予想外の言葉に今度はアレクセイが身を乗り出した。ジークフリートは俺に会いたいのだろうか。妻を奪った男に。いや、俺のほうこそジークフリートに会ってみたい。今なおエリザベートと自分の間に立ちはだかる男を見てみたい。エリザベートが写真を見せてくれたことがあった。結婚式の写真。家族旅行の写真。育ちのよさそうな金髪碧眼の男前だ。ピアノの名手で、3人の子の父親。
「ソ連軍人が西半分には……とても許可がおりません」
アレクセイは口ごもった。
「方法はこれから考えることにしましょう。私にいい案があります」
弁護士はこともなげにいった。
西半分への旅行許可など下りるはずもなかった。やむをえずアレクセイは休暇を取り、例の湖に行くと回りに宣伝した。湖には代わりにレオニードとナターリアを遣わした。彼らはアレクセイとエリザベートの名で宿泊するてはずである。
東西ドイツの国境線は封鎖されていたが、ベルリンは封鎖がとけてから比較的自由に行き来ができた。アレクセイはすべての身分証明書を家においてベルリン入りした。ドイツ国内で占領軍将兵が私服でうろうろするなど考えられないことであり、彼はまるで丸裸で路上に放り出されたように不安な気持ちになった。西ベルリンに入れば、航空機・アウトバーン・列車を使って西ドイツ国内まで行くことができる。要するに密入国である。司令部にばれたら軍法会議にかけられる危険があったが、彼はジークフリートに会ってみたいという気持ちが勝ってしまったのである。こうして一家は怪しまれることなく西ベルリンへ入り、長距離列車に乗った。
「1940年6月 ヒトラーのパリ入城を警護
8月 リヒテンラーデSS大尉は妻と共に初めてベルヒデスガーデンの山荘へ招かれる。ここで行った音楽演奏がヒトラーの気に入り、以後ベルリン勤務となる。
1940年 SS少佐
RSHA第Ⅳ局A課3係 係長
(この係は自由主義的思想の取り締まりが担当)
ヒムラー長官からSS忠誠の証である髑髏リングを下賜される
1943年 SS中佐
RSHA 同C課 課長
(この係は個人データ収集が担当)
1944年 SS大佐
RSHA第Ⅵ局(国外諜報) 副局長
ヴァルター・シェレンベルク局長の腹心となる
※なお、シェレンベルクは本年6月に禁固6年の判決
※前長官ハイドリヒ(1942年死亡)とも親しかったらしい
」
この中佐から大佐への昇進が異常に早い。もともとナチスドイツは若い将校が多く、ヒトラーの眼鏡にかなったジークフリートの昇進がうらやましいくらい早いのも納得できた。しかし一年たたずにこの昇進はありえないだろうとアレクセイは思っていた。1944年、この年に何があったのか。
「1944年7月20日 シュタウフェンベルク国防軍大佐によるヒトラー暗殺未遂事件の容疑者摘発に尽力。実際の首謀者は50人程度であったにもかかわらず、芋づる式にドイツ全土で5000人が逮捕、収容所送り、処刑される。リヒテンラーデはこれに大きくかかわっていた模様」
有名な7月20日事件。冤罪も多かったとは聞いている。ついでに政敵を葬ったか。あるいは財産を没収して自分のポケットにも横流ししたか。
「1945年3月 ヒムラー、シェレンベルクらと共にベルリンを脱出。英米と単独和平を行いソ連に対抗するという計画であったが和平工作に失敗。彼らはハンブルクから別々の方向に逃走。ミュンヘン近くの山中で米軍により拘束。リヒテンラーデはSSの証拠である右上腕の下の血液型刺青をベルリン脱出の際に焼ききる手術を受けており、捕虜収容所では彼の身元がばれなかった。彼は東部戦線で戦死したギムナジウム時代の友人の名を名乗っていた。
米軍注釈:SS隊員は国防軍兵士や他の国民よりも優先して輸血を受けられるという価値観のもと、隊員は脇の下に血液型を刺青していた。
1947年8月 釈放されたリヒテンラーデはかねてから聞いていた通りオデッサ拠点であるミュンヘンのザビーネ教会を訪ねる。ここで彼はパウル・ミュラーの偽造身分証明書と金を受け取る。オデッサからはアルゼンチン行きを打診されるが拒否。ドイツ・オーストリアにとどまり、元SS隊員らの逃亡を手助けした。
1947年12月 クララ・マイヤーと結婚。なお同女は偽名と思われるが当人逃亡中のため未確認」
ジークフリートが再婚していることでアレクセイはほっとしていた。少なくともこれでエリザベートを奪い返そうとはしないだろう。
「なお、本人の供述によればこの結婚は『夫妻であったほうが世間に怪しまれない』というオデッサの作戦遂行によるものでクララとの間には夫婦の実態はなく、クララの本名も知らないとのこと」
かばっているのだろうとアレクセイは思っていた。ジークフリートはクララに情がわかなかったのだろうか。1947年……レーナが生まれた年だった。収容所を出たジークフリートは真っ先に妻子の現状をオデッサに聞いただろう。そこで返ってきた答え……「あなたの妻はソ連兵の情婦となり、子供まで産んでいる」……妻の裏切りに対し、彼はどれほどの衝撃を受けただろう。クララに慰めと癒しを求めただろうか。
エリザベートはこの調書を弁護士から渡された後、何日も寡黙になってしまった。アレクセイの出勤と帰宅の時には玄関先で無理に微笑んでいたが、どこかしら魂の抜けたような感じがしていた。
一行はミュンヘン市内の目立たないホテルを二部屋とった。食事はみんなで一緒にしたが、ギーゼラは次の日のことも考えて子供たちを連れて早々に部屋に引き揚げた。二人きりになったとき、エリザベートが言った。
「ジークフリートも再婚しているらしいのよ」
「ショックだった?」
エリザベートはうなずいた。
「私だってあなたと暮らしているのにね。でも、私とあなたのこと知った時彼はどれほどショックだったでしょうね。それを思うと……」
アレクセイはエリザベートの髪をなでた。
「前から言ってるだろう。君の心からジークフリートを消す必要はないんだ。俺だって昔愛した女を覚えているさ」
だが彼はシェーラと結婚していたわけではなかった。子どももいなかった。結婚し、子供まで作った夫婦の絆とは比べ物になるまい。ジークフリートは36歳になっているはずだ。4年半ぶりの再会で彼女は何を思うのだろう。
「エリザベート」
アレクセイは改まった顔で彼女を呼んだ。エリザベートは「なあに」と言うように首を左にかしげた。「たまらなくかわいい」と彼がとても好きな彼女の癖だった。ジークフリートは彼女のどんなところを気に入り、どんな風に愛したのだろう。
「明日ジークフリートと会っても、俺と一緒に東側に帰るよな? 俺のところに戻ってきてくれるね?」
「当たり前じゃない。どうしてそんなこと聞くの」
アレクセイは不安でたまらなかった。一番恐れていた「幽霊」が復活してしまったのだ。ジークフリート生存の知らせが来てからというものの、彼の煙草と酒の量は格段に増えた。身体に悪いという提言が出されているので煙草は徐々に控えて将来的にはやめてしまおうと思っていた矢先のことだった。このままでは一生禁煙できないだろう。ジークフリートが処刑されるまでこの不安な気持ちは続くだろう。なぜ彼はソビエト軍の手で捉えられなかったのだろう。同じ戦犯裁判でもソ連占領地での裁判のほうが有罪率も死刑になる率も高いし、場合によっては判事に手を回すか圧力をかけるか袖の下を渡すなどしてでも死刑に持っていけるだろうに。
それにしてもなぜこんな時期に逮捕されたのだろうとアレクセイは腹立だしかった。東ドイツが成立して友邦国の国民としてソ連軍人とドイツ女性の結婚が認められて正式に入籍した後であれば、こんなに不安になることはなかった。夫が失踪後何年かして死亡とされ、妻が再婚した後で夫が戻ってきたとしても、この場合は「後の結婚」が優位にたつという民法の解釈を彼は知っていた。
しかし1947年8月のジークフリートの釈放がレーナの生まれた後でよかったとアレクセイは心底思った。妊娠前であればもちろん、妊娠中であってもエリザベートは迷わずジークフリートの元へ戻っただろう。
堕胎して。
アレクセイが自分の命よりも大切に思っているレーナを殺して?
そして、俺を………俺との愛情も思い出もすべて否定して。
すべて すべてをなかったことにして。
「ねえ、どうしてそんなに怖い顔しているの」
エリザベートに問いかけられてアレクセイはようやく我にかえった。