13 その後の人々
1949年12月22日、駐東独ソ連軍中将アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフは東ドイツ市民エリザベート・フォン・リヒテンラーデとベルリン市内の教会で挙式を行った。式にはリヒテンラーデ家の3人の息子たちと、新郎新婦の間に2年前に生まれたレーナのみが出席した。その後自宅にてささやかな披露パーティーが催された。
彼らはその後も正式に入籍することはなかったが、二人の間には次女アデール、長男ペーター(ロシア読みでピョートル)、次男ゲオルク(同ゲオルギー)が生まれた。末っ子のゲオルクは軽度の知的障害があり、体も弱くぜんそくとアレルギーにも悩まされた。言うまでもなく、ゲオルクは第三帝国時代には生きることを許されない存在だった。障害者はT4計画(ティーアガルテン4番街の施設に監禁)により絶滅を目指され、親族は遺伝子を広めないために去勢をされていた。エリザベートはようやく「第三帝国が敗北してくれていてよかった」と思えるようになっていった。
第三帝国時代には国から望まれて子どもを産み、戦後はアレクセイからのたっての願いで子どもを産んだエリザベートは、産んだら産みっぱなしでろくに子どもの面倒も見ず愛情もかけない母親だったが、末っ子のおかげでようやく母性本能に目覚め、以後はそれまでの分を取り戻すかのように母親業にせいを出し始めた。
1953年にスターリンが死去すると左遷されていたゲオルギー・ジューコフ元帥は中央に戻り国防大臣となる。その後フルシチョフとの対立から政界を追われるが、フルシチョフの死後は名誉が回復され1974年に軍人として最高の栄誉を持って葬られた。ソ連国内では最も人気のある軍人の一人であり、モスクワのマネージ広場に銅像が築かれた。
1949年の西側諸国によるNATO設立とその後の西ドイツ再軍備を受けて、ソ連を中心とする東欧諸国は1955年ワルシャワ条約機構を発足。イワン・コーネフ将軍が初代総司令官となり、アレクセイはその下で役職につき、一家は東ヨーロッパ各地を彼の転勤とともに赴任して回った。末っ子のゲオルクが3歳という幼さで夭逝した時、彼らはワルシャワに駐在していた。エリザベートは長い間子どもを失った悲しみから立ち直れず、見るに見かねたアレクセイの勧めもあり彼女はスイスの子どもたちに会いに行きがてら静養の旅に出かけた。そして二人の間には壁が築かれた。アレクセイは東ベルリンへ飛んで行き、ブランデンブルク門の東側から西を臨んだ。ソビエトと東ドイツの作り上げたこの壁により、もう二度とエリザベートに会うことは叶わないことを彼は覚悟したという。
だがエリザベートは戻ってきた。東から西へ移動するのは決死の脱出だったが、西から東へは比較的簡単に通してもらえた。彼女がジューコフのハウスメイドという身分証明書を東ドイツの国境警備兵に見せてゲートを通った時、兵士は「本当によろしいんですか」と聞いてきた。「私は自分の意思でこちら側に住むのよ」彼女は微笑んで言い返した。そして信じられない面持ちで自分を出迎えたアレクセイに人目もはばからず抱きついた。「もう逃げられないぞ」アレクセイは彼女を抱きしめて言った。
リヒテンラーデの子供たちとはほとんどが手紙でのやりとりしかできなくなった。年に一度か二度子どもたちはそろって東側を訪問したが、物質的な豊かさに目がくらむ若者らしく、東側の生活には魅力を感じることはなかった。3人とも学業を終えると西側で仕事につき、家庭を築いた。エリザベートはアレクセイとの間に生まれた子どもたちの手が離れるとゲオルクの面影を求めるかのように障害児施設でボランティアを始め、彼女の生きがいとしていった。
アレクセイは順調に昇進を重ねていたが、咳が止まらずに医師を受診した時にはもう手遅れで、1969年肺癌のため59歳で死亡した。
死の一週間前、めずらしく意識のはっきり戻ったアレクセイは傍につきそっていたエリザベートに対し、苦しい息の下から最期の言葉を残した。
「俺が死んだら、ミュンヘンに行ってもいいんだぞ……君は一人では寂しいだろう……ベルリンには壁が出来てしまったけれど、駐留ソ連軍の誰かに頼めば東ドイツ政府の移住許可くらいすぐ発行してもらえるさ……」
エリザベートは彼の手を握り締め、首を横に振った。
「まだそんなこと言っているんですか? あなたって昔からちっともかわらないのね。私はこんなに変わったのに……あなたと知り合った時、私は自分の頭では何にも考えられないお人形でした。けれどあなたに恋をして、あなたに愛されて……私は強情で意地っ張りになったの。自分でこうと決めたらその道を行くの。私はあなたと共に人生を歩むって決めたんです。あの時と今と全く同じ気持ちです。
私は自分の人生の終わりをあなたの妻として迎えたい。そして天国とかあの世とか来世とか……あなたはそういうものを全く信じてなかったけれど、そういうところがあるなら、私はまたあなたに会いたい。あなたがどこの国に生まれかわろうと、人間ではなくて犬や猫でも、たとえ花や葉っぱ一枚でも……私は必ずあなたを見つけてみせるわ。あの大混乱のベルリンで私たちは出会うことができたのだから……それよりはずっと簡単よ。
あなたの国は私のことを認めてくれないけれど、私はあなたの妻なんです。今も、これからも」
アレクセイは酸素の管の下で微笑んだ。
「先に行ってよく調べておくよ……君が道に迷ったりしないように」
アレクセイは静かに眠りに落ち、そのまま意識が戻ることはなく旅立った。遺言どおり彼の墓は、彼が故郷以上に愛してやまなかった東ベルリン郊外に作られた。
正式な妻として最期までソ連政府から認められなかったエリザベートはアレクセイの死後はソ連将校居住区から出て、一ドイツ民間人として遺児らを養育しながらアレクセイの墓を守り、東ベルリンで静かに暮らした。
ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ元SS大佐は1950年3月終身刑の判決を受け、服役した。服役中に心臓を患った彼は1975年民間病院に入院。特別に西ドイツへの旅行を認められたエリザベートと26年ぶりの対面を果たした。2年後64歳で死亡。元妻との往復書簡と折々に同封された写真のみが遺品として残された。
二人の夫に先立たれ、実質的に三度未亡人となる悲しみを味わったエリザベートはその後も生き続け、人生の終わり間近にベルリンの壁崩壊、ドイツ統一、ソ連の崩壊を見た。そして旧東独に駐留したソ連軍が完全に撤退し終わった1994年、6人の子供たちと多くの孫たちが見守る中76歳でこの世を去った。
彼女がその生涯で愛した二人の男……ジークフリート・フォン・リヒテンラーデとアレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフがそれぞれの人生を捧げた、20世紀をゆるがせた二つの巨大な帝国……すなわちドイツ第三帝国とソビエト社会主義共和国連邦はそれぞれのイデオロギーとともに消え去っていった。
完