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12 終章

 慇懃に出迎えた使用人たちの前を通り、エリザベートは寝室に入り入浴した。久しぶりの我が家での食卓には彼女の好物ばかりが並べられた。アレクセイの指示なのかどうかわからないが、使用人たちは彼女に何も言わなかった。

 午後になるとレオニード・ロストフスキーが訪ねてきた。彼は今ではナターリアと結婚し、少佐になっていた。

「ジューコフ中将は先ほどワルシャワに向けて出立なさいました。自分も4時ごろ出発する予定です。つきましては奥様、中将の着替えなど用意していただけますでしょうか。自分が持っていきますので」

「……何日くらい行くの?」

「今のところ一週間の予定ですが、延びるかもしれません」

「どうしてそんな大切なこと、直接私に連絡しないのよ」

「私には分かりかねますが、中将閣下におかれましては大変多忙でいらっしゃいますので……」

 そういえばフィッシャー伍長を見つけてきたのはこの男だった、とエリザベートは思い出した。アレクセイの忠臣として彼の陰謀に一枚かんでいるのだろうか。

「わかりました。4時までに用意しておきます」

 エリザベートはそういって少佐を送り出し、寝室へ戻ってアレクセイのクローゼットから当面の着替えをかばんにつめた。ワルシャワになんの用事があるっていうのだろう。わざと出張したのだろうかとも思えた。自分が怒ったように、彼もまた怒っていて会いたくないのだろうか。エリザベートは手紙を書いた。フィッシャーのこともピルのことも包み隠さず書いた。


「私の妄想にすぎないのならそう言って下さい。あなたが違うというのなら私はあなたを信じます。けれどもし真実なら正直に話してほしい。こんな気持ちを胸に抱いたまま結婚式はできません。結婚といえば私たちは『正式な入籍』というのは可能なのでしょうか。昨日刑事から、ソ連では国際結婚は認められていないと聞かされました」


 荷物をレオニードに渡すとき、エリザベートは手紙を託した。

「必ず返事をくださいと伝えてください」

 レオニードは事情を知ってか知らずか、わかりましたとだけ答えた。


 すぐにでも電話があるかと思い、エリザベートは家から全く出ずにベルがなるのを待ち続けた。しかし2日たっても何の連絡もなかった。彼女は何をする気にもならず、憂鬱な気持ちで過ごした。ウェディングドレスが出来上がって納品されてきたが、ろくに見る気にもならなかった。

 ヴァーゼムスキー中佐のところのシュザンナが遊びにきた。

「きれいね~」

 シュザンナはドレスに手を触れないように腕を後ろ手に組み、人型模型に着せられたウェディングドレスの周りをゆっくり歩いた。

「私のこと、この居住地内の人もいろいろ言ってるんでしょうね……」

 エリザベートは沈痛な面持ちで言った。ジューコフ中将の地位のおかげで彼女はこのフェンスの中でも愛想よくロシア人社会に受け入れられていたが、本当のところはどうか自信は全くなかった。その上、この家出騒ぎだ。愛人に逃げ出されたということでアレクセイはどれほど恥ずかしい思いをしていることだろう。

「そんなこと気にしていたら生きていけないわよ」

 シュザンナはこともなげに言った。

「フェンスを乗り越える行為がいいこととは言えないけれど、人がどう思うかばかり気にしていたら息がつまるわよ。自分がいいと思ってやったのなら、もっと自信を持てば?」


 ユーリアはシュザンナとは別の考えを述べるためにやってきた。家出の片棒をかついだことで気がとがめているのだろう。

「あなたが警察につかまった日、何度電話してもあなたが出ないからアパートを見に行ったの。夜になっても連絡がとれずに私がオロオロしているとルドルフに追及されて……ルドルフはすぐにジューコフ中将に電話したわ。多分その後、中将はあちこちの警察署に連絡してあなたを見つけたんだと思う」

 アレクセイの若い従卒が「ほとんど寝ずに探していた」と言っていたことを思い出す。それならどうしてもっと優しく抱きしめてくれなかったのだろう。

「ジューコフ中将、とても傷ついたと思うわ。ミュンヘンに行ったんじゃないかって疑ったと思う」

「ミュンヘンに行っても、ジークフリートとはもう一緒には暮らせないのに。戻る気なんてないって何度も言ってるのに……」

 ユーリアはエリザベートの肩をつかんだ。

「何度でも言えばいいじゃないの! ワルシャワまで行って伝えなさい! このまま意地を張り合って大切なことを見失ってしまっていいの?」

 大切なことって何だったのだろう。自分は今まで何が大切だったのだろう。信じていた世界は消えてなくなってしまった。ヒトラーの国家社会主義とスターリンの共産主義。ドイツとソビエト。イデオロギーと国境を越えてでもアレクセイと共に歩みたいと思う気持ちがあったから、私はフェンスのこちら側にやってきたのだ。人がどう思うかなんて気にせずに……シュザンナが言いたかったことはこれだったのだろうか。


 5日後ようやくアレクセイから電話があった。4年前ワルシャワからやっと電話をもらえた時のようにエリザベートは胸が高鳴った。

「出張があと一週間延びそうなんだ」

「じゃあ何か送るものある?」

 二人は当たり障りのないことから会話を始めた。

「洗濯できるから大丈夫だよ。ありがとう」

「そう」

「レーナは元気にしているかい?」

「ちょっと鼻水たらしているけど、熱もないし元気よ」

「君の子供たちはいつ帰省するの?」

「冬休みに入ったらすぐ帰るって電話があったわ。19日よ」

 結婚式は12月22日の予定だった。式に間に合うように息子たちは帰省してくるのだが、当の二人がこんな状態で結婚式などできるのだろうか。しかしアレクセイの声は優しかった。こんなに落ち着いた気分で彼と話すのは久しぶりだったのでエリザベートはうれしかった。

「お願いがあるんだ」

「なあに?」

 アレクセイは少し言いにくそうに口ごもった。

「君と……初めて……その、ワルシャワの近くの湖で泊まったことを覚えているかな?」

「もちろん覚えているわよ。あの貸し別荘のことよね」

「明日そこに来てくれるか」

「え?」

「手紙を読んだ。二人だけで話がしたい。まっすぐ君と向き合うつもりだ」


 4年前に来たときは10月なのにもう冬のような気候だったが、今回は12月初めなのでさらに雪深かった。ひとりで列車とバスを乗り継いでやってきたエリザベートはフロントを兼ねた事務所棟でカギを受け取り、コテージの番地を確かめながら雪の中を歩いた。静かに降る雪の中、ガス灯の明かりが幻想的できれいだった。予約された建物には見覚えがあった。あの時のログハウスだった。エリザベートは暖炉に火を入れて部屋を暖めながら、部屋のあちこちを見て回った。4年前と少しも変わっていなかった。この部屋で私は初めてアレクセイに抱かれた。彼の厚い胸板にしがみつきながら初めて身体の悦びを知った夜はここだったのだ。

 ふと窓から外を見ると雪がやんでいた。アレクセイが来るまでまだ時間がありそうなので、エリザベートはログハウスを出て湖の近くまで歩くことにした。

 人っ子ひとりいなかった。自分のブーツがざくざくと新雪を踏み分ける音以外には何も聞こえなかった。山に囲まれたこの景勝地は戦争の被害もなかったらしく、ここにいるとあんなひどい戦争があったことなど信じられなかった。しかし現実に戦争はあった。戦争のせいで私は人生で手にしていた幸福をほとんどすべて失った。そして戦争の最終局面で……廃墟の中で出会ったのが私とアレクセイなのだ。

 心の中にあるのはアレクセイのことばかりだったが、不思議と怒りの感情はなかった。エリザベートはこの半年間のアレクセイとのことを考え続けた。ジークフリートとミュンヘンで面会してからというもの、アレクセイの嫉妬と暴力・束縛は度を越したものになってしまっていた。私がジークフリートをまだ愛していて彼の元に戻りたがっていると疑っているのだろう。6年間も結婚生活を送っていたのだ。夫として子供たちの父親としてすばらしい人であったと今でも思っている。ヒトラーとナチスに従って彼がしてきたことは決して許されることではないのだろうけれど。

 ジークフリートは私に「ジューコフ少将と結婚して幸せになってほしい」と言った。そして私も離婚届に署名した。あの時私とジークフリートの恋は終わったのだ。いや、とっくに終わっていたことを確認したのだ。でなければどうして「相手が自分以外の人間と幸せになってくれればいい」なんて思えるだろう。

 「ああ」エリザベートはため息をついた。実家の家族たちも、あるいは夫でさえ私と真正面から向き合おうとしてくれなかった。私の心の中など、誰も気にはしてくれなかった。みんな私のことを自分の意思など持たぬ人形のように扱った。アレクセイだけが私の心の奥底までも手に入れたいと熱望した唯一の人間だったのだ。彼は私にひどいことをたくさんした。妊娠を望んでいない私を妊娠させ、夫が死んだと思いこませ、あげくの果てはレイプや監禁に近いことまでもやってのけたのだ。けれど、自分はどうだろう。私はアレクセイにひどいことをしなかっただろうか。カトリック教徒として決して許されない経口避妊薬を飲み、彼の子を身ごもることを拒んだ。彼があんなにも愛し、かわいがって世話をしてくれていた義理の息子たちを一方的に引き離してしまった。彼がドイツ人でも貴族でもないという理由だけで。実母である自分を上回るほど、子どもたちもアレクセイになついていたのに。

 アレクセイとの恋は自分が少女のころから憧れ続けた激しい恋に他ならなかった。「君なしでは生きていけない」と言ったアレクセイ。激しく愛し合ったがゆえに激しくぶつかりあい、深く傷つけあってしまった。このまま崩壊してしまうのだろうか。それともまだ間に合うのだろうか。自分もまたアレクセイなしでは生きていけないと思えた。そう彼に言えばいいだけだったのになぜ言えなかったのだろう。4年前のあの日、私を助け、差しのべてくれた彼の手を取った瞬間から、私は彼を愛し始めていたに違いないのに。

 エリザベートは湖の桟橋までやってきた。湖面には薄い氷が張っていた。自分の頬を流れる涙も凍るのだろうか。また雪がちらついてきた。だが彼女はその場から動けなかった。アレクセイは私に何を言うつもりなのだろう。もう別れてしまうつもりなのだろうか。そう彼が思っても仕方がないくらいのことを私はしてしまった。それなのに自分はこんなにも彼を愛しているのだ。

 ふいに顔にかかる雪がやんだ。

「風邪ひくぞ」

 後ろを振り返ると、アレクセイが彼女に自分の傘をさし掛けていた。真冬用のロングコートの制服に耳あてのついた毛皮の帽子をかぶっている彼は、もう一方のあいている手で自分のマフラーを取り、エリザベートの首に巻いた。

「ごめんよ。俺は君にひどいことばかりしてきた」

 エリザベートはかぶりを振った。

「ごめんなさい……私のほうが……」

「エリザベートは謝らなくていい。ここへ来てくれた。雪の中で一人泣いていた。それで充分だ」


 二人はログハウスに入り、濡れたコートを脱いで毛布にくるまって暖炉の前のソファに並んで座った。

「何から話そうか……婚約していた恋人を亡くしてから俺は戦争で死ぬもんだと思い込んでいた。スターリングラードでは最前線にも出たよ。命が惜しくないから危険なことばかり買ってでた。勇敢だと言われたよ。偵察機に乗って低空飛行したり、身を乗り出して爆弾投げたり……ところがなかなか死ねないうちに、勲章ばかり増えて昇進するし。そうすると逆に危険のない後方の仕事に回されるし……皮肉なもんだった」

 アレクセイは自分の軍服の胸についた勲章に手を触れた。

「戦争の終わりってどんなふうだろうと思いながら西進してきた。戦火の果てに俺はいったい何を見るんだろうと……君に会って、君に恋して、生きていて本当によかったと思ったよ。片思いなのにこんなに幸せな気持ちになるのかって自分でも驚いた。俺は初めて君にキスした日のことを今でもよく覚えている」

「私も覚えているわよ。私はあの日自分もあなたに恋していることにやっと気づいたんだもの」

「俺は早くに両親を亡くしていたから、家族っていうものへの憧れが人一倍強かったんだ。シェーラが死んで、その思いは封印されていたけれど、君を愛して、より強い思いがわき上がった。君と結婚して一緒に暮らして、たくさんの子供たちに恵まれる………それが俺の望みだった。そのために……」

「ジークフリートがもう死んでいるってことを私に納得させようと?」

「結婚はともかく俺は一日も早く君と一緒に暮らしたかった。けれど何度誘っても君が『夫の生死がはっきりするまでけじめをつけたい』って言うもんだから……捕虜収容所の中を必死に探し回った。あとは君の想像通りさ。フィッシャーはジークフリートと途中まで一緒だった。米軍との遭遇と銃撃戦。どこの収容所にもリヒテンラーデ大佐はいない。少し拡大解釈した。君を騙そうと思ったわけじゃない。俺も彼が死んだと信じていた。いや、そう信じたかったんだ」

「そう……」

 予想通りの答えに、エリザベートはため息をついた。

「書斎でピルの瓶を見つけたって?」

「ええ」

「もう捨てたと思っていたよ。自分でも忘れていた」

「中身はビタミン剤。どうして私がピルを飲んでいることを知っていたの?」

「スキー旅行のときに。君が風呂に入っている時、君の荷物にけつまづいてひっくり返してしまったんだ。わざとじゃないぞ。その時に瓶を見つけた。驚いたし、ショックだった」

「だってあなた、全然避妊してくれなかったし……」

「初めて君と寝た時から俺は君の妊娠を望んでいた。君と俺の子供が欲しかった。君が妊娠を望んでいないのは、俺のことを拒絶されたようで悲しかった」

「ピルは避妊のために処方してもらっていたんじゃないの。アルフレートが全然母乳を飲まない子だったから、出産後2ヶ月で生理が再開したんだけど、毎回激痛と大量出血で寝込むぐらいだったの。ピルはね、月経困難症を和らげる働きがあるのよ。知らなかったでしょう?」

 アレクセイは驚いてエリザベートの顔をみた。彼の知識ではピルは避妊薬だった。自分がやってしまったことで彼女はまた激痛に見舞われたのだろうか。

「今でも具合悪いのか?」

「さあ……レーナを産んでからはそれほどでもないけど」

「次の子供ができないのは、何か予防しているのか?」

「何もしていないわ。レーナに長いこと授乳していたから、その間は排卵が止まっていただろうけど……また何か飲んでいると思っていたの?」

「いや……」

 ではなぜ妊娠しないのだろうとアレクセイは考えた。子供の数は勝ち負けの問題ではないが、ジークフリートの子を3人産んだのなら、自分の子は4人産んで欲しいとすらアレクセイは思っていた。

「もっと子供欲しい?」

「上の3人が学校に入ってしまっただろう。なんとなく家が広くてさみしいんだよ。レーナにも弟妹がいたほうがいいだろうし。俺の育った家は貧しかったけど、兄弟はたくさんいたんだ。にぎやかだったよ。みんなばらばらになってしまったけれど……今の俺には子供を何人でも育てられるだけの給料もあるし、死んだ後も君を路頭に迷わせたりしないように生命保険にだって入っただろう」

 エリザベートはくすくす笑った。

「あなたっていいパパよね。レーナの育児にも協力的だし。私もまだまだ子供産めると思うわ」

 彼女はそう言って、甘えるようにアレクセイの肩にもたれかかった。アレクセイが優しく髪をなでるのを感じた。この人の子が欲しい、とエリザベートは思った。上の3人の代わりだとか、アレクセイを安心させるためとか二人の絆のためではなく、愛する男の子供を妊娠し出産するという女としての最大の幸福を彼女は味わいたいと望んだ。レーナの時のような「思いがけない妊娠」ではなく、愛しあい心から望んで新しい赤ちゃんを迎えたいと思った。

「今から子供作ってもいいか?」

 この直接的な表現にエリザベートはふきだしそうになったが、彼以上に自分もその行為を望んでいた彼女はうなずいた。エリザベートがキスを求めるように唇を少し開いたのでアレクセイはたまらなくなって彼女の唇を激しく吸った。


 エリザベートはぼんやりした頭で今しがた自分に起こったことを思い出した。らせん階段を駆け上がるような絶頂感。呼吸が出来なくなり、頭の中が真っ白になって、その後は自分の激しい鼓動を感じるのだ。相手の体ととけあいながら波間にゆっくりとただよっているような余韻の中ようやく視界を取り戻すと、アレクセイが彼女の顔を間近に覗き込んでいた。彼女は荒い息の下で微笑んだ。

「君のあの瞬間の顔も美しいけれど、その余韻にひたっている顔も好きだよ」

 心から愛し合って抱き合うというのはなんて幸せなことなのだろうとエリザベートは実感した。力づくで押さえられた夜……夫の権利だと腕を引っ張られた夜……彼女は今やっとアレクセイの情熱も悲しみも理解できたような気がした。

「少し前にチュイコフ総司令官に呼び出されたんだ。ドイツとの講和条約は難航している。そもそもソビエト当局は国民が外国人と『親しい交際』をすることにいい顔をしないとね」

「それでヴァーゼムスキー中佐とシュザンナも正式に結婚していないのね」

「彼らは両家両親からも猛反対されたらしい。中佐は兄弟をドイツとの戦争で亡くしているし、シュザンナの父は元国防軍将校だった。おまけに妹はソ連兵に強姦されて自殺している。二人は悩みながらドライブして見知らぬ小さな町の教会で誓いをたてたらしい。二人とも家族親族とは絶縁したと言っている」

 人がどう思うかばかり気にしていたら生きていけない、というのはそういう意味だったのだろうかとエリザベートはシュザンナの言葉を思い出した。

「ヴァーゼムスキーは彼女を連れて西側へ逃げようかとさえ思いつめたらしい。けれど二人で話し合って、認められない関係でもいいからとりあえず生活に困らないベルリンにいようってことになった」

「大人よねえ……アリシアたちとは大違い」

 エリザベートはため息まじりに言った。

「アリシア?」

「ほら、前にセルゲイなんとかって人と西ドイツに駆け落ちした……」

「ああ、ズボフスキー少尉ね、あいつら元気にやっているのかなあ」

「私も心配しているの。どうやって生活しているのかしら。住所も書いてないから連絡のとりようもないし……」

「駆け落ちの前に一言いってくれたら餞別くらいしたのに」

 こういう逃亡兵をつかまえて厳罰に処すという自分の役割を忘れたかのようなアレクセイのセリフだった。

「セルゲイとは前々から知り合いだったの?」

「いや、君と街中探検した時に初めて会ったのさ。向こうは俺を知っていたみたいだけど……」

「セルゲイはドイツ人になりすまして生きていくのかしら」

「多分そうだろうね。彼もドイツ語は上手だったし、戸籍や住民票もめちゃめちゃになってるから偽名には不自由しないだろうし」

 アレクセイは4年前エリザベートに頼まれてセルゲイ・ズボフスキーからいろいろ事情を聞いた時のことを思い出した。出会った時の状況や本当に好きあってつきあっているのかなどを聞いているうちにアレクセイは興味本位で「どうやって告白した」とか「どんなタイミングで伝えた」など聞いてしまった。

「ジューコフ少将、片思いでもしてるんですか?」

 セルゲイの問いかけにアレクセイは動揺して調書を落とし、顔を赤らめてしまった。わが意を得たりとセルゲイは手をたたいた。

「もしかしてドイツ人? わかった! あの時一緒にいたアリシアのバイオリンの先生でしょう! 図星!!」

 これで完全に形勢は逆転し、話の続きは「勘定はジューコフ少将もち」のビヤホールで行われることになった。アレクセイより13歳も年下の茶色い瞳をした好青年は職業軍人ではなく徴兵組ではあったが武功をたてて少尉目前であった。

「恋愛なんてどちらかが一歩踏み出さないと何も始まりませんよ」

 何度も飲みに行き、そのたびにセルゲイは言ったのだ。そうだな。あいつの言うとおりだ。エリザベートと仲良くしたい時も仲直りしたい時もいつも俺のほうが先に一歩踏み出すんだ。そうすると彼女も一歩近寄ってきてくれる。男と女の違いなのか。俺のほうが彼女に惚れている度合いが強いからなのか……

「ねえ、何考えてるの」

「え?」

「にやにやしてる」

「してないよ」

 エリザベートはアレクセイの頬をつねった。

「ドイツに来てから楽しいことが多いよ」

 エリザベートが不思議そうな顔をしたので、アレクセイは続けた。

「本当さ。戦争が始まった時、将校はみんな英語とドイツ語の勉強を始めたんだ。1944年まで俺はもっとずっと戦線の後方にいた。年があけてすぐチュイコフ将軍の親衛軍からコーネフ将軍の第一ウクライナ方面軍に異動になって南からベルリンに入ることになったんだ。ゲオルギー・ジューコフの白ロシア軍にいたら東からベルリンに入っていただろうし、もし俺のドイツ語の出来が悪ければこんなに前線に出ることもなかったと思う。英語が得意な連中はもっと南方で米軍との合流を目指していたからね。あの日あの連中が規律を破ってでかけなければ……小隊長に用ができてなければ……森の中へ探しに行かなければ……どれが抜けても君に会えなかった。たくさんの偶然が重なり合って運命となり、俺は君に出会うことが出来た。君に会って生きる喜びを取り戻した」

「わたしそんなにたいした人間じゃないわよ」

 エリザベートは笑った。

「いや、俺にとって君は女神のようさ。君に嫌われることだけが怖い。以前も今もこれから未来も」

「私はあなたのことが好きよ。あなたのいない人生なんて考えられないわ」

「俺も君のすべてが好きだ。良家のお嬢様のような君、ケーキを見てはしゃぐ君、母親としての君、ベッドで淫らな声をあげる君、トラックから飛び降りたりフェンスを乗り越えて脱走する君……全部大好きさ」

「だからごめんって……」

 二人は軽いキスを交わした。エリザベートはアレクセイの瞳を見つめた。黒い瞳……初めて出会った時、彼の後ろにモンゴルの大草原が広がるのが見えたような気がしたことを思い出す。スラブ系の顔立ちの中にどこか東洋的な面影のあるアレクセイにそのことを聞いてみたことがあった。彼の母親にはモンゴルの血が入っていたので父方の親族は結婚に反対であったらしい。先祖の血が色濃く出た外見をしたアレクセイは、両親の死後父方の親族に引き取られたというが、どれほどの孤独と疎外感にさいなまれたことだろう。後に元帥となるゲオルギーだけがアレクセイの心の支えだったのかもしれない。

 ナチスドイツの世界観では金髪碧眼のゲルマン人が最も優秀とされていた。ヒトラーはスラブ民族を劣等人種と決めつけ、隷属させるべき、生かす価値もない連中だと言い放っていた。しかしあの価値観にどっぷりつかっていた自分が遠くアジアの血を引くスラブ人の黒髪の男を愛したのだ。恋の情熱の前に人間の考え出した人種の区別やイデオロギーなんてふっとんでしまうのだ。

「ねえ、私たちみたいな人種や国籍を乗り越えた結婚が増えていけば、いつか差別や戦争もなくなっていくんじゃないかしら」

「おもしろいこと言うなあ。イデオロギーとか宗教とか、人と人との間には乗り越えなければならない塀が多すぎる。俺たちの子供や孫のころには世界から戦争がなくなっていて欲しいよ」

「でも戦争がなかったら私たちは出会えなかったのよ」

「うーん……だから今回ので終わりってことで」

 二人は同時に笑いあった。


「エリザベート、ソビエトという国が外国人との結婚を認めない以上、君の身分証明書は一生ハウスメイドかもしれない。それでも俺と一緒に人生を歩んでくれるか」

「ええ、そのつもりよ」

 アレクセイはドイツ人との正式な結婚が出来ないと知ったとき、なんとかしてエリザベートにソ連国籍を取らせることができないかとも考えた。しかし戦中戦後を通し、ドイツ系移民が迫害を受けていたのを知ってこの考えを捨ててしまった。ドイツ系の移民たちはエカテリーナ女帝の要請を受けて200年ほど前に移民した人々の末裔であり、何世代もたっているのでドイツ語を理解できる者は少なかったにもかかわらず、ドイツ系だという理由だけでシベリア送りとなっていた。彼の祖国は外国人に対して寛容ではないのだ。自分に何かがあった時、彼女には「祖国ドイツ」を頼れるようにしておいてやったほうが得策だろう。

「共産主義は宗教をすべて否定しているんだ。けれど俺は君とレーナの存在に対し神に感謝している。人間の世界の紙切れ一枚よりも神の前で永遠の愛を誓うことのほうが真実だと思っているんだ」

「神様……信じているの? アレクセイ」

 エリザベートはちょっと驚いた。アレクセイは教会にも行かないし、食前のお祈りすらしない人間だったからだ。

「ずっと信じたことはなかったけれど、君に出会って君を愛して……信じるようになったんだ。200万のベルリン市民と、ベルリンをぐるりと囲んだ同じ数の赤軍将兵の中で俺は君と出会った。君に会って俺は救われたんだ。人間らしい感情を取り戻すことができた……ありがとう」

 エリザベートが信じ、熱狂した世界の崩壊から4年半。彼女はようやく今後の人生で自分の進む道が見えてきたような気がした。これから先もいろいろと迷ったり悩んだりしてしまうだろう。けれど以前のように流されて生きるのではなく、自分の心で考えて自分の足で歩いて行こう。10年前彼女はジークフリートに「ついて」ベルリンにやってきた。今エリザベートはアレクセイに「ついていく」のではなく自分自身の意思で彼と「共に歩む」という選択をするのだ。


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