11 逃走
翌朝アレクセイはエリザベートに対し、一週間の外出禁止を言い渡した。
「帰宅時間を守らなかった罰だ」
あっけにとられてエリザベートは一瞬相手が何を言っているのかわからなかった。まるで子供に罰を与えるようにアレクセイは続けた。
「次破ったら、もっと長いからな」
と言い残して、公用車に乗って出勤してしまった。
あまりのことにエリザベートはしばらく玄関で突っ立っていたが、やがて彼女と共に見送りにでた使用人に対し
「私も出かけるわ! 車を回しておいて」
と叫んだ。しかし下男は昨夜のうちにアレクセイから厳重に命令されていたらしく
「約束をやぶったら私がクビになります。妻子を路頭に迷わせるわけにはいきません。奥様、お許しを」
と言って、決して車を出そうとはしなかった。エリザベートは自分では運転できないので、ますます怒り狂って部屋へとってかえし、コートを着て財布を握った。そして玄関から何も言わずに走って飛び出した。
ちょうど朝の出勤時間で高級将校の乗るベンツが何台か彼女の横を通り過ぎた。
「みんなドイツをばかにしているくせに、車はやっぱりメルセデスに乗るんだわ」
そんなことを考えながら走ると、すぐに将校居住区の出口に到着した。いつものように身分証明書を見せて歩行者通路を通ろうとするエリザベートに対し、若い兵士は彼女の行く道をさえぎった。
「あなたをお通ししないように命令されています、ジューコファ夫人」
「私はまだジューコファ夫人じゃないわ、通して。ただのハウスメイドよ。買い物にいくのよ」
エリザベートは女性の場合に名字が変化するロシア式の発音に力をこめた。門番を務める二人の兵士は困った顔を見合わせた。彼女は彼らの階級章を見た。一等兵と伍長だ。
「あなたたちがフェンスの中に入る人間を厳重にチェックするのは分かるけれど、中の人間が外に出るのは自由でしょう? 私がここに住んでいる人間だってこと、あなたがたもよく知っているでしょうに」
彼女はにっこりと社交的な笑顔を浮かべてみせた。
「あの……それでは、中将閣下に電話をして確認してみてもよろしいでしょうか? 先ほど出られたばかりですので、司令部到着は今しばらくかかると思いますが、少しお待ちいただいて……」
この若い二人にとって中将は雲の上の人間なのだろう。そう考えるとエリザベートはこの二人をあまり困らせるのは気の毒だと思えてきた。彼女が後ろを振り向くと、ガリーナが来ていた。自分を追いかけてきたのだろう。エリザベートは若い使用人に声もかけずに家のほうへ戻り始めた。
「あの……奥様。この居住区内は自由に出歩いてもおとがめはないと聞いています。お店もあるし、お友達もいるし、一週間くらい……」
「日数の問題じゃないわ!」
エリザベートは強い口調で言った。この娘に当たっても全く意味のないことなのに声を荒げずにはいられなかった。
「あの人は私のことを奴隷か何かだと思っているんだわ。家に閉じ込めておいて、何でも自分の思い通りにしようとして……」
「でも奥様、どこの家の夫でも自分より先に妻には家に戻っていてほしいものですよ」
それはそうだろうと思えた。しかしエリザベートは納得できないまま家に入って自分の書斎でふてくされていた。朝の支度の終わったレーナが「ママ」と言って入ってきたが、エリザベートはじゃけんに扱い、部屋から追い出した。幼子は廊下で泣きだし、ガリーナが抱いて連れて行く気配を感じた。もはやレーナにも何の愛情も感じなかった。自分の人生を破滅に導いた一つの要因のようにすら思われた。
しばらくすると電話が入った。
「いい鹿肉をいただいたんだけど、昼食に来ない?」
ヴァーゼムスキー中佐の「ハウスメイド」シュザンナからの誘いだった。
「中佐とのディナーに置いておかないでいいの?」
「ミハイルは鹿肉嫌いなんですって」
そこでエリザベートは3軒隣のヴァーゼムスキー邸へ出かけた。シュザンナは栗色の髪をした美人で28歳とは思えないほど落ち着いた貫禄を持っていた。話し方や物腰にも知性と教養があふれていた。エリザベートは自分より3歳若いこの同じ境遇のシュザンナを尊敬し、彼女のように冷静で静かな人柄になりたいと願っていた。「夫」の階級はアレクセイのほうが3階級も上なのに、なぜ自分はこうも感情的で意地ばかりはってしまうのだろう。
30歳のヴァーゼムスキー中佐は誠実な明るい人柄で居住地内の夫人方にも人気があった。シュザンナとミハイルはどこから見てもお似合いの夫婦で、事実1歳になる男の子もいるのだが、彼女の身分証明書はハウスメイドのままだった。彼女はシュザンナ・ヴァーゼムスカヤではなく、ドイツの姓のままシュザンナ・ハイルナーを名乗っていた。中佐には故国に妻子がいるのだろうか? ドイツ滞在中の相手としてシュザンナと同棲しているだけなのだろうか? 中佐がそういうことをする人間には見えなかったが、直接聞いてみる勇気をエリザベートは持ち合わせなかった。
「今朝あなたが血相変えて走っていくのが窓から見えたわ」
エリザベートはあわてて今朝のことをシュザンナに話した。シュザンナはにっこり笑って言った。
「ミハイルがいつも言っているわ。ジューコフ中将はとても時間に厳しい方だって」
「自分に厳しくするのは自由だけど、人にまで押し付けないでほしいわ。だいたいロシアなんて国は鉄道が時間通りに運行したためしもないって聞いたわよ」
「でもそういう中将だからこそ、ドイツ女性とつきあえるんじゃないのかしら。ドイツ人って世界一時間や物事に杓子定規って言われているらしいし……あなただって彼のそういう部分に惹かれたのでしょう?」
確かにシュザンナの言うとおりだった。以前はアレクセイがドイツ人以上にいろいろなことに折り目正しくきちんとしているのを尊敬もしていたし、好ましいと思っていた。いつからこうも喧嘩が多くなり、二人の間の信頼が崩れてしまったのだろう。
「中将はあなたを愛するあまり、リヒテンラーデ大佐への嫉妬に苦しんでいるんだと思うわ。死んだと思って納得していたライバルがいきなり現れたんですもの。あなただって中将の『過去の女』がいきなり現れたらどんな気がする?」
エリザベートは起こってもいないことを想像するのは苦手だった。アレクセイには確かにシェーラという婚約者がいた。しかし彼女は結核で亡くなったと聞いた。お葬式にも埋葬にもアレクセイは立ち会ったのだ。シェーラが生きて帰ってくることはありえない。シェーラの前後に恋人がいたのかどうか聞いたことはなかったが、別に気にもしていなかった。多少は遊び相手くらいいたのか? 戦闘が激しかった日の夜は娼館を訪れて自分の生を実感したのだろうか? 占領地で仲良くなった女は? 彼女はアレクセイが自分のことだけを愛してくれているのを疑ったこともなかった。しかし終戦直後アレクセイが笑顔で若い女性兵士と会話しているのを見て嫉妬の気持ちを抱いたことを思い出した。
ジークフリートとミュンヘンで会ってから、アレクセイとの間はいろいろとおかしくなってしまった。別に自分は浮気をしたわけでもアレクセイを裏切ったわけでもない。死んだと思っていた夫が生きていたのだ。
「ねえ、エリザベート。市内の治安はとても悪いのよ。強盗殺人もしょっちゅう起こっているって聞いたわ。私だってどうしても必要な時以外はここから出たくないの。外出するときはミハイルにもつきあってもらっているくらい。結婚式の前にあなたに怪我でもされたらって、中将は心配しているのよ、きっと」
シュザンナのいうことももっともだった。終戦から4年半もたつのにソ連兵による強姦事件はやまないし、飢えた少年による犯罪や強盗以外にも東西分離に反対したデモや集会も行われて、警察隊と揉め事の際には怪我人や逮捕者もでていた。そんなのはみんなソ連軍のせいだ、とエリザベートは考えた。占領体制が悪いのだ。そしてそれを統括するメンバーの主要な位置にアレクセイはいるのだ。
「でもこのままじゃ、どうしても気がすまないわ」
エリザベートの言葉にシュザンナはため息をついた。
その後いつものように台所で夕食作りの指示と味見をし、アレクセイを出迎えて着替えを手伝い、一緒に夕食の席についたが、エリザベートは必要以上に口を聞かなかった。問いかけられれば短く返事をしたが、あくまで必要最低限にとどめた。
険悪な状況の中、いつものようにアレクセイからベッドに誘われたのでエリザベートはびっくりした。
「今日はしたくない」
彼女はそっぽを向いた。一緒の部屋で眠るのさえ、いとわしかった。どうしようか。エドゥアルトのベッドが空いているから、子ども部屋にでも逃げようか。レーナがママを恋しがっているとでも言おうか。アレクセイはエリザベートの手首を握ってひっぱった。
「これは夫の権利だ。行使させてもらうよ」
エリザベートが何か言いたげな顔をしているのでアレクセイがそれを代弁した。
「私はまだあなたの妻ではありませんって言いたいのか。では情婦だというのなら、もっとこれの相手をする義務があるだろう」
ひどい言葉だと思った。だが抵抗しても無駄だと悟ったので、エリザベートはおとなしく目を閉じて横たわった。これ以上ひどい言葉を浴びせられ、力づくで押さえつけられるなんてごめんだった。せめて心の中で何か別のことを考えようとした。彼女はひるがえるハーケンクロイツの旗と整然とした街並みやドイツ軍の行進を思い出した。なぜ戦争に負けたのだろう。あんなに幸せだったのに。連合国は「ドイツをファシズムから解放してやった」という。「自由にしてやった」とも。けれど自分はずっと豊かで自由に暮らしていたのだ。祖国の東半分はソビエトの属国になってしまった。そして自分の人生もソビエトの兵士に支配され、自由を奪われているのだ。
終わるとアレクセイは何も言わずに身体を離し、エリザベートの反対側を向いて眠ってしまった。彼はいつもエリザベートの反応を楽しんでいるようだったのに、今日の何の反応も返ってこない情事に対しなんとも思わなかったのだろうか。エリザベートは自分が娼婦にでもなったような気がしたが、娼婦と客でも少しくらい会話するだろうと想像できた。お愛想で「アイ・ラブ・ユー」くらい言うだろうし、過剰な反応を返すだろう。「もうだめだ、もう耐えられない」エリザベートは自分の心が悲鳴を上げるのを聞いた。体を洗いたいと思ったが、立ち上がる気力が湧いてこなかった。ミュンヘンでの肉体的な暴力の後では、バスルームまで走って行くだけの力が残っていた。しかし今の生活の精神的な暴力と抑圧のせいで、彼女にはもう何も残っていなかった。「何もない……私にはもう何も残っていない」絶望と屈辱感の中、彼女もまたアレクセイに背を向けて眼を閉じた。
エリザベートの規則正しい寝息が聞こえ始めると、アレクセイはそっと起き上がっていつものようにウォッカをあおった。瓶の中身は少なくなっていた。また台所から一本持ってこないといけないと、彼は憂鬱げに考えた。
せっかく生き残った命なのに、そしてようやくめぐりあえた愛する人と一緒にいるのに、どうして自分はこうも命を粗末にするべく酒と煙草に溺れているのだろう。普通の人間にとって婚約期間というのは一生で一番幸せな時期と聞いたこともあったのに、今の自分はなんというていたらくなのだろう。つい先日、ジューコフ中将は悪寒を覚えて仕事を早退したことがあった。召使たちはレーナを連れて散歩か買い物にでかけたらしく、彼は自分で鍵を開けて家に入らなければならなかった。誰もいないと思い込んでいた家からはピアノの音がした。音楽の知識のないアレクセイには何の曲なのかはわからなかった。張り裂けるような悲しい情熱を表現しているような音だった。まるでジークフリートが演奏しているような錯覚を覚えた。彼は音に引き寄せられるように部屋の前に立ち、静かにドアを開けた。エリザベートが一人、ピアノの前に座り一心不乱に演奏していた。
ジークフリートのピアノ。グリューネヴァルトの家を売る際、エリザベートがぜひにと持ってきたものだった。アレクセイにはわからなかったが、なんでもかなりの値打ちの品ということだった。バイオリンを趣味で演奏するエリザベートはピアノもたしなむらしく、昼間はしょっちゅう練習しているということは聞いていたはずだった。
「どうしたの?」
エリザベートはすぐに演奏をやめてかけよってきた。
「顔色が悪いわ。熱があるみたいよ」
ピアノを演奏していたのはジークフリートの亡霊ではない。アレクセイの愛する女だ。いや、ジークフリートの妻だった女だ。女はかいがいしく中将の世話をした。服を着替えさせてベッドに寝かされ、彼はおとなしく従った。冷たい氷をはさんだタオルを額に当てられ、彼は彼女に聞いてみた。
「あの曲はなんていう曲なんだ?」
「え?」
「今君が弾いていた曲だ」
「ああ。熱情よ。ベートーベンのピアノソナタ『熱情』 私は楽譜を見ないと弾けないけれどね。もう弾かないわ。静かにしているから、ゆっくりしていて。すぐにお医者様も来るわ」
エリザベートは優しかった。意識をもうろうとさせながら、アレクセイは考え続けた。ジークフリートのピアノ。ジークフリートの楽譜。おそらくジークフリートの好んだ曲なのだろう。彼なら楽譜を見ずに弾けたのだろうか。エリザベートは夫を思い出しながら演奏しているに違いない。アレクセイは最近しょっちゅう自分の心の狭さがいやになった。エリザベートの過去をすべて理解したうえで愛したはずなのに、こんなにも自分の心は混乱し続けるのだ。
アレクセイはベッドの傍に椅子を引き寄せ、エリザベートの無防備な寝顔を見た。そして彼女の長い金髪の毛先を持ってキスをした。やさしくしてやりたいといつも思っていた。エリザベートにはいつも笑っていてもらいたい。どうしてこんな風にいさかいばかりになってしまうのだろう。心の中でどれほど嫉妬がうずまいていようと、それを表面に出さずに穏やかに暮らしていける方法はないのだろうか。明日は……明日こそは優しくしてやろう。彼女の好きな花とケーキを買って帰ろう。
翌朝いつものようにレーナとエリザベートにキスをした後
「今日は早く帰るよ」
と言い残してアレクセイは出勤した。車が見えなくなるとエリザベートは作り笑いをやめ、レーナを使用人の腕に預けて自分の部屋に戻った。クローゼットに隠しておいた着替えの入ったボストンバッグを取り出し、髪をたばねてブーツに履き替えた。使用人たちはこのあとしばらく朝食の後片付けや掃除と洗濯に追われることを彼女は知っていた。
エリザベートはころあいを見計らってそっと部屋から滑り出し、音を立てずに階段を下りた。ちょうど玄関ホールの掃除が終わったばかりで使用人たちは客間の掃除にとりかかっているようだった。彼女は小走りにホールを横切り、玄関から外に出た。そのまま居住区内の遊歩道を突っ走って幼児用の小さな公園を抜けると、独身士官用の集合住宅が見えた。ここの裏はすぐフェンスになっていてその先は一般のドイツ人の住宅が立ち並んでいて人通りが少ないことを彼女は知っていた。
エリザベートは建物のかげからそっと外の道路を見た。見張りの兵士がバイクで見回っている。通り過ぎた後がチャンスなのだ。打ち合わせ通りタクシーが一台止まっているのが見えた。門番の歩兵が時々巡回しているらしいが、姿は見えなかった。
意を決してエリザベートは走り出し、ボストンバッグをフェンスの向こうへ放り投げた。そして自分はフェンスをよじのぼった。警報音がなっているのが聞こえる。飛び降りたときに足をくじき、手をひどく打ってしまった。
「早く!」
ボストンバッグをつかんだユーリアがタクシーに乗り込んだ。士官用のアパートの窓からいくつもの顔がのぞいていた。エリザベートはタクシーに飛び乗り、急発進させた。車は入り組んだ路地を走り、一つの店舗の前で止まった。二人はタクシーをおりてその店に飛び込み、奥へと急いだ。
「この店は反対側にも出入り口があるのよ」
ユーリアの後について反対側のドアから外へ出る。そのまましばらく歩き、二人は小さなアパートの一室に入った。
「私の兄が仕事で来るときのために借りているの。ジューコフ中将はいくらなんでも私の旧姓までは知らないでしょう? 兄はしばらく来ないらしいし、掃除しておいてくれるなら使ってくれるのは大歓迎だって」
エリザベートは窓の外を見た。追いかけられている様子はない。ロシア人の居住区を飛び出してから1時間もたっていなかった。けれど自分は今自由を手にしていた。ここは西ベルリンなのだ。資本主義経済の自由な世界。彼女はカーテンの隙間から窓をのぞいた。
「エリザベート……本気なの?」
「何が?」
ユーリアの問いかけにエリザベートはぼんやりしていた。
「ジューコフ中将と別れること。夜中にあなたから電話でこれを頼まれた時には、とうとう決心したのかと思ったけど」
「わからない」
「ちょっと待ってよ。これって家出なのよ。こんなことまでしでかしたら、いくら中将だってあなたのこと……」
「少し冷却期間を置きたいだけよ」
ユーリアはその後病院の仕事に向かったので、エリザベートは一人で掃除をした。狭いアパートはフリードリヒスハイン時代を思い出させた。貧しいながらも幸せだったあのころの生活が懐かしかった。アレクセイとの恋に夢中だった。仕事帰りに待ち合わせをして、雪の中を歩いた。冬の夜なのにちっとも寒くなかった。アパートの入口まで送ってくれた彼と別れるのが嫌で、夜中に長い時間階段に座って抱き合ったりしていた。一緒に暮らすようになって、離れていたころの心細さを忘れてしまったのだ。しかし外出制限というのは明らかにアレクセイの横暴だった。なんとかして彼に非を認めさせなければならない。
エリザベートは黒髪のカールのかかったかつらと帽子をかぶって眼鏡をかけて変装した。こうして街にでると本当に自由な気分がした。途中ソ連軍のMP車に出会ってどきどきしたが、なんとなく痛快にさえ感じた。
本やお菓子をどっさり買い込み、午後はアパートでゆっくり過ごした。アンネリーゼの発行する雑誌もその中にあった。頑張っているんだなあとひとごとのように感じた。どうせ私にはこんな才覚はない。マルタとアンネリーゼは30を過ぎても結婚せず仕事を拡張していた。自分にもこんなことができたら、アレクセイからあんな横暴な仕打ちをうけることもなかっただろうか。それにしても私の不在に気づいた使用人たちはどうするのだろう。すぐにでもアレクセイに電話するのだろうか。それとも帰宅したアレクセイは妻の不在を告げられるのだろうか。
彼女が退屈し始めた午後2時、ユーリアから電話が入った。
「ジューコフ中将からじきじきに電話をいただいたわよ。あなたがうちに来ていないかって。努力して平静を装っていたけど、あれはかなり焦っている様子だった」
「そう……」
「おおごとになる前に帰ったほうがいいと思うけど」
「わかってる。けれど今日はここにいるわ」
エリザベートは早めにベッドに入った。パトカーのサイレン音が聞こえた。まさか自分を探しているのではないだろうと思ったが、気になって眠れなかった。ベッドに一人きりというのはこんなにも寂しいものだったのだろうか。アレクセイも今頃一人で眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。それとも私を探しているのだろうか。あれほど怒りに燃えて決行した家出であったが、考えることはアレクセイのことばかりだった。
翌朝起きたときエリザベートは一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。軽い朝食をとっているとまたユーリアから電話があった。
「夜にもジューコフ中将から電話があった」
ユーリアは暗い声で言った。
「恥ずかしながらって事情を話してくれたわよ。市中の治安が本当に悪いから出かけないで欲しかっただけなのに、あなたには監禁のように思われたようでって。あなたから連絡があれば無事でいることだけでも自分に知らせて欲しいって何度も私に頼むの。なんだか私かわいそうになっちゃったわ……」
「まさか私の居場所を教えたの?」
「言ってない。けれど言おうかって何度も思った。話し合う気はないの?」
「話し合える相手じゃないわ。いつもいつも一方的に命令するのよ。自分が悪かったって言うまで許さないわ」
「レーナちゃんがママに会いたがっているとも言ってたわ」
「私は別にレーナにも会いたくないわ」
アレクセイが自分を探しているというのは少しいい気分だった。怒って心配してやきもきすればいいんだわ。こちらの受けた苦しみの何分の一かでも味わわせてやらないと気が済まなかった。
ミュンヘン旅行から戻ったときに、別居するべきだったのだ。そうすればもっと落ち着いてつきあえただろうし、結婚式を迎えることもできただろうに。結婚式のことを考えると頭が痛かった。今さら取りやめるわけにはいかない。けれどこんな気持ちのままでは永遠の愛を誓うこともできないし、その後予定されているパーティーでも笑顔でいることはできないだろう。
レーナのことを考えると少々心苦しい点もあった。4人の子供を産み、自分には母性本能というものが備わっていないことが充分わかってきていた。むしろ彼女は「子どもが嫌いだ」と思うことのほうが多かった。泥だとかお菓子だとかがついたままの汚い手で近づいてこられると、「あっちへ行って!」と叫んでしまうこともしばしばあった。世間の母親たちが「子どもは自分の命よりも大切だ」と声高に言うことを彼女は全く理解できなかった。ザルツブルクに男の子3人を置いてきたり、小さいレーナと1か月以上も離れていても自分は平気だったし、家出に伴おうなどとは夢にも思わなかった。
3日目の朝、ユーリアが出勤途中に寄った。
「昨日ジューコフ中将が病院にやってきた」
エリザベートはびっくりして咳き込んだ。ユーリアの話ではアレクセイは私服で来て、ひどく憔悴して見えたという。置手紙すらせずに家をでてきたのだ。アレクセイはこちらの真意を分かりかねているのだろうか。
「ルドルフなんて、本当に親身になって、中将の話を聞いていたわ。まあ、このフラットのことはルドルフも知らないから、ばれようがないだろうけど。どうする? そろそろ電話くらいしたら?」
「しないわ」
この日の午後エリザベートは一日ぶりに外へ出た。黒髪のかつらと眼鏡をかけて西ベルリンにいるかぎり、ソ連軍の手が及ばないため安全なのだが、彼女は怖いものみたさで東側へ足を踏み入れた。あまり人通りのない小さな道を歩いていると、後ろから走ってきた三人組とぶつかった。彼らの手から紙の束がこぼれおちたが、拾いもせずに走り去ってしまった。ころんでしまったエリザベートにも一言も謝らなかった。3人を追ってきたらしい二人組が彼女の傍で立ち止まった。
「名前と年齢は」
「エリザベート・フォン・リヒテンラーデ。31歳です」
「住所は」
エリザベートは少し迷ったが正直に現在住んでいるソ連将校居住地を述べた。警察署に連行されてしまった今、誰かに迎えに来てもらわなければ釈放してもらえないだろう。家出中だが、このまま拘留されるよりは家に戻ったほうがましだった。
「職業はハウスメイドか?」
「いえ、あの……私ジューコフ中将の婚約者なんです」
取調べの刑事は調書から顔を上げた。
「大きくでたねえ、奥さん。初代総司令官の名前を出すとは。残念ながらジューコフ元帥はとっくに帰国してしまったよ」
「元帥とは別人です。遠縁だから同じ苗字なんですけど……もっと若い人です。ウソじゃありません。家かソ連軍司令部に問い合わせてもらえませんか」
「ふざけるんじゃない!」
刑事は机をたたいた。
「そんなことでいちいち司令部に電話なんかできるか! だいたいなあ、こんなビラを貼り歩いている女がソ連将校の婚約者だと? 変装までしやがって……お前が本当にその中将とやらの恋人なら、なぜこんな反ソビラを作るんだ」
「だから……私はそれを作った人たちとは関係ないんです」
「お前がそこに住んでいるなら、身分証明書があるだろう」
「いえ……それは家に置いてきてしまって……」
「それ見ろ。じゃあどうやって家に帰るつもりだ?」
エリザベートは黙りこくってしまった。家出中だなんて、家庭の恥をさらすのもいやだし、どうすれば信じてもらえるのだろう。
「あんたがその将校とつきあってるのが事実だとしても『婚約』だなんてありえないだろう」
「本当です」
さすがに腹が立ってきたので彼女は左手のエメラルドを見せた。
「ソ連なんていう国はな、外国人との結婚を認めやしない。あいつらは滞在中だけドイツ女と遊んで捨てて帰る連中なんだよ。暴力をふるわずに金を出すようになっただけもありがたいもんだよ、まったく。だまされてるんだよ、あんた」
この刑事は戦時中から警察官だったのだろうか、とエリザベートは考えた。刑事警察も親衛隊の資格を持っている人は多かったのに、戦後は無罪放免だったのだろうか。
「わたし、帰れないんですか?」
「身元がはっきりするまではな。一晩留置場にいれば自白する気にもなるだろう」
エリザベートは女性警察官につれられて地下の留置場に入った。鉄格子の部屋の中に二段ベッドが二つ置いてあり、先客が二人いた。二人とも髪を赤く染めて派手な格好をしている。二人は「アニー」「サラ」と名乗った。
「虫も殺さぬ顔をして、何やったの?」
アニーが言った。
「それが……私にもよく分からないんです。なんだか巻き添えをくってしまったみたいで」
サラが大笑いした。
「この国じゃあ、ナチの昔から誰でも彼でもひっつかまえてブタ箱に送るのよ。あたしなんて、なんにも悪いことしてないのに」
今度はアニーが笑った。
「売春婦が客ともめてただけなのにね」
「あいつが悪いのよ。約束していた金の半分しか払おうとしないんだから」
「だから先払いにしろって言ってんのに」
エリザベートは二人の会話を興味深く聞いていたが、ふいに話をふられた。
「ねえ、エリザだっけ、あんたは何やって生活してんの」
エリザベートは自嘲した。結婚もせずに何年も敵国の男に養われて子供まで産んでいる自分の職業は何なのだろう。
「あなたたちと似たようなものよ」
二人は驚いて騒ぎ出した。
「ええ、そうは見えないけれど。でもあんたみたいに普通っぽいほうが人気でるかも」
「誰かのオンリーさん?」
「そんな言い方あるの? そうよ。私はある人のオンリー」
二人の女はへええ、と顔を見合わせた。
「アメリカ?」
「いいえ、ロシア人よ」
二人はさらに驚いた。
「あたし、ソ連兵は嫌だわ。いくら金積まれたって嫌……病気もちばっかりだもの」
「何言ってんのよ。金次第よ」
二人は小突きあった。
「個人個人を見てりゃ、どこの国の男もそう変わらないわ。親切で優しい人もいるし、ケチで乱暴なのもいるし……」
それもそうだな、とエリザベートは思った。
「あんたのいい人は金持ってるの?」
「そうね。お金は充分渡してくれるけど、その分束縛も強いわ」
二人の女は「当たり前だ」と言った。
「40払う男は20払う男に比べて倍の時間あたしたちと遊べるのよ。金と時間は比例するの」
消灯、という放送と共に電気が消された。3人は話をやめてベッドに横になった。こうしてエリザベートは家出の3日目の夜を留置場で過ごすことになった。ソ連という国は外国人との結婚なんて認めない、という刑事の言葉がいつまでも耳に響いた。
家出4日目の朝、パンと牛乳という簡単な朝食の後、警察官に連れられてエリザベートは昨日の取調室に入った。アレクセイが従卒と共に立っていた。
「本当にご婚約者の方ですか?」
昨日の警察官は信じられないという顔をしていた。
「間違いありません。もう連れて帰ってもよろしいですか」
刑事はアレクセイに平身低頭といったありさまだった。こちらの言うことを全く信じずに横柄な態度を取り続けた刑事をエリザベートは睨みつけた。
警察署の車寄せまで従卒が公用車を回す間、アレクセイとエリザベートは黙って立っていた。彼は何一つ彼女に声をかけなかったし、事情を聞こうともしなかった。「心配したよ」と抱きしめてもらいたいと思ってしまう自分が情けなかった。
アレクセイはエリザベートだけを車に乗せ、従卒に対し
「彼女を家まで送れ。私はここから歩いて出勤するから」
と言った。エリザベートは驚いた。
「一緒に家まで帰ってくれないの?」
「あいにく少々忙しいんだ。話は夜にしてくれ」
アレクセイは冷たくそう言って、乱暴にドアを閉めた。やっかいなことをされた……その程度にしか思っていないのだろうか。
車が走りだすと従卒に話しかけられた。
「奥様……ロシア語はおわかりですか?」
「理解できるわよ。なあに?」
エリザベートは公用車には乗らないので、この若い従卒と話すのは初めてだった。
「中将殿、ほとんど寝ずに奥様のこと探しておいででした。ほうぼうに電話なさって……あんなそっけない態度を取っているけど、本当はとても心配していたんですよ」
「どうかしら」
「本当です。奥様も意地張らずにいてあげてください。もっと甘えたらうまくいくと思いますよ」
エリザベートはため息をついた。まだ20歳そこそこの少年のような兵士にこのようなことを言われるとは……
「あなたは恋人いるの?」
「一応」
「ドイツ人?」
「いえ、以前部隊が一緒だったロシア人です。僕の彼女も意地っ張りで時々手に負えない」
意地なんて張っていても仕方がない、というセリフは一歩高みに立って見ることのできる他人の恋愛についてならいくらでも言うことができるのだ。
「ねえ、中将は39歳で、私は31歳なの。昔は30代ってとても大人なんだろうと思ってたわ。落ち着いて子供の世話をして、婦人同士でお茶を飲みながら世間話をして……そうやっておだやかに月日が流れていくものだと思ってた。けれど自分が30代になってみるとまだまだ若い気なのよね」
「だからフェンスを乗り越える気になった?」
エリザベートは大笑いした。久しぶりに笑った気がした。
「ちょっと怪我したけどね」
車は将校居住区のゲートをくぐった。これでもう結婚式まで外出は出来ないだろう。いや、結婚式なんてできるのだろうか。
「ここのフェンスの中はドイツ全土の中で楽園のように平和で美しいわ。ガレキの山も物乞いの子供もここからは見えない。こんなところに住んでいる私は祖国の裏切り者なのだろうか」
彼女はそんなことを考えながら車を降りた。