10 薬
新しい家に引っ越してずいぶんたつのにアレクセイの書斎だけまだダンボールが山積みになっていた。「きちんと分類して本棚にならべる」と本人が言い張るので使用人たちも手出しせずにいたが、掃除がやりにくいという声がちらほらと聞かれるようになった。こういうことはまとまった時間とやる気がある時にしかできないものなので、「明日こそは」と日延べになってしまいがちだった。とうとうエリザベートは業を煮やしてある朝言った。
「今日という今日は、私と皆で適当に並べておくからね」
アレクセイの抵抗があるかとも思ったが、彼は苦笑いしながら
「助かる。頼むよ」
と言い残して出勤してしまった。もしかするとこちらがこういう風に言うのを待っていたのだろうかと、エリザベートはあきれ返った。
ライプチヒの家では開封しなかった箱がここでもたくさん出てきた。いらないなら古本屋にでも売るか、人にあげるかでもすればいいのにと思いながらエリザベートは順に本棚に並べていった。
「ドイツ語初学本」ロシア語でそう書かれたダンボールが見つかった。あれだけ流暢にドイツ語が話せるアレクセイには、もう絶対に無用のものだった。新しく着任する将兵にでもあげるべきだと彼女は思った。中をのぞくとページにいろいろと書き込みがあったり赤線が引いてあった。4年間の戦争中、戦闘のない夜間などにテントの中で彼は勉強しつづけたのだ。ランプの明かりで一人本を読むアレクセイを彼女は想像した。学習用の本の下にまた箱が入っていた。箱の中に箱を入れるなんて、なんという不経済な収納方法だろうと呆れながら取り出すと、厳重にテープが巻かれていた。
学習本と一緒に入れているところを見ると、戦争中に使っていたものだろうか。エリザベートはこの箱に少々興味を覚えた。戦争中に男が一人テントで使う……もしかすると男が好んで見るという女性のひわいな写真だろうか、とわくわくしながらエリザベートはテープをはがしにかかった。いつもいつもえらそうに言い負かされているのでこれをつきつけて彼をからかってやろう。
しかし箱の中には予想に反して6つの瓶が入っていた。薬のようだ。一つを手にとってみる。エリザベートにもなじみの深いドイツの大手メーカーのものだった。「経口避妊薬」 開封されておらず、使用期限は1年前に切れていた。なぜこんな女性用の薬をアレクセイが持っているのだろう。すうっと体が冷えて行くような感覚とともに、彼女の心は4年前に戻っていった。
アルフレートを出産してから生理のたびに大量出血と激痛に悩まされるようになったエリザベートは、症状緩和の目的で戦争中からピルを処方されていた。アレクセイと付き合うようになってからはピルの排卵抑制効果のほうが大きな目的になってしまっていたが。
ピルを飲んでいたのにレーナを妊娠したエリザベートは妊娠判明後、持っていた薬をすべて捨ててしまった。だいたいこういう薬は毎月医師の処方でもらうものだった。6つもいっぺんに在庫を持ったことなどない。
この有効期限なら流通していたのは1946年ということになる。レーナを身ごもったのがこの年の7月……きちんと飲めば100%の避妊効果の得られるこの薬。子供を欲しがっていたアレクセイ……
けれどアレクセイは私がピルを飲んでいるのを知っていたはずがない。あれは毎朝飲む薬だ。彼の前では決して飲んだことはなかった……いや、ちょっと待って、旅行! スキー旅行に行った時、私はピルをラベルの貼られた瓶ごと持って行ったのだ。あれを見たのだろうか。化粧ケースに紛れ込ませて隠していたのに。私が風呂にでも入っている時間に荷物を調べたのだろうか。
アレクセイと一線を越えて4ヶ月たっても私が妊娠しないので彼は不思議に思ったのだろう。スキーの時たしかそんなことを言っていた。「君との絆が欲しい」と。ジークフリートが生きて戻ってきてもそうやすやすと私が元のサヤに戻れないように、私を妊娠させればいいと思ったのだろうか。
だけどどうやって薬を効かなくさせる? 偽物の薬に換える……あのころ私はマルタの店を手伝っていたけれど、家にはフリーダかギーゼラがいて子供の面倒を見ていた。忍び込んですりかえるなんて無理だ。薬…薬局……薬剤師! 雪の日に時計を買いに来たクリスティン・エーゲノルフ。あの日、彼女はまるでアレクセイを怖がっているような雰囲気だった。単にソ連兵の制服への恐怖かと私たちは解釈したけれど、アレクセイがその以前にクリスティンに会っていたとしたら? 彼女を脅すか買収するかして、薬をすりかえさせていたら?
エリザベートはここまで考えて「まさか」と自分の妄想を笑いたい気持ちもあった。アレクセイだって、そこまでするだろうか。いや、アレクセイならやりかねない。私を手に入れるためになんだってするだろうと思えた。今まで心の中でバラバラに散っていたパズルのピースがカチリと組み合わさったような気がした。そして一旦組み合わさってしまうとパズルは強力な接着剤で止められたかのように離れようがなく、妄想は確信となって彼女の心を支配しつづけた。
妊娠を宣告された時、エリザベートはふらふらと道を歩きながら建物の陰で吐いてしまったことを思い出した。あの時ナターリアが介抱してくれたのだ。しかし彼女はなぜあんな所にいたのだろう。そしてなぜすぐに妊娠を言い当てたのだろう。だいたい私が妊娠したって、初期なら日帰り手術で堕胎は可能なのだ。あのころ、強姦による妊娠が多発していたので非合法な中絶手術などどこででもできた。もちろん中絶しようなんて思ったこともないけれど、アレクセイはそれすら恐れていたのだろうか。それをさせないためにまさか尾行……アレクセイは私の彼への愛情を全く信じていないのだろうか。
妊娠したと告げた時のアレクセイの表情。「まるで作戦成功の報告を受けた司令官みたいだ」とエリザベートには見えたのだった。あれがすべて作戦だったのだとすれば……
フィッシャーのこともまさかアレクセイが仕組んだのだろうか。戦争で多くの人々が死んだ。東部では行方不明者も何万人にも及ぶ。戦死公報がない場合には、所属部隊が全滅したとか、一緒に戦っていた人の証言があれば役所は「死亡届」を受理してくれることになっていた。フィッシャーの「証言」……フィッシャーは確かにハンブルクからミュンヘンまでリヒテンラーデ大佐と一緒だった。けれど彼が看取ったのはリヒテンベルク中尉だったのだ。フィッシャーや中尉のことを調べたいというと露骨に反対したアレクセイ……
翌日朝一番に予約していた婦人科の健診の後、エリザベートはシュナイダー総合病院の院長室で院長夫人ユーリアを訪ねた。シュナイダー総合病院では副院長であったルドルフが院長となり、妻であるユーリアも理事の一員として経営に携わっていた。幼いころからスイスの女学校で共に学んだユーリアはエリザベートにとって数少ない親友の一人であった。終戦の前年ユーリアは肺を病んで子供と共にスイスの実家に戻って静養しており、戦争後の混乱期はそのままスイスで過ごしていた。1947年になって完治したユーリアはベルリンに戻ってきたが、今度はエリザベートがアレクセイの転勤に伴ってライプチヒに転居した。4年ぶりにお互いを行き来できる間柄に戻った二人はとても喜んでいた。なかなか会えない4年間であったが二人の間の手紙のやりとりは途絶えることがなく、会えない時間のことを何一つ説明する必要がない程、お互いのことをよく知っていた。
エリザベートの話を聞いてユーリアはしばらく黙っていたが、やがて紙にいろいろと書き始めた。
1 この薬が本物かどうか
2 すりかえられたとすれば、その場所と実行者
3 クリスティン・エーゲノルフの現況
4 ギュンター・フィッシャーの現況
「あなたの想像の根拠として、これだけ調べたら納得できるかしら。けれど証拠が上がって、あなたの言っていることが全部真実だったとしても……ジューコフ中将とはどうするつもりなの?」
「どうって?」
「結婚を取りやめるの? 別れるの?」
今度はエリザベートが黙ってしまった。自分を手に入れるためにこんな詐欺まがいのことをされたとなっては、別れを考えるのが当然だろう。けれどなぜだか分からないが「アレクセイと別れる」という選択肢は考えてはいけないような気がした。
ユーリアと昼食を共にした後すぐに帰ったので、アレクセイの帰宅時間まではずいぶんと余裕があった。くどくどと怒られるので早めの帰宅には常に気をつかっているつもりだった。
「今日はどうしていたの?」
いつも夕食時にアレクセイはエリザベートの昼間のことを聞いてきた。普通に考えれば家族の交わす当たり前の会話だろう。「妻の昼間のことなんて、大抵の夫は気にもしない」と文句を言っている既婚夫人たちから見ればアレクセイは理想の夫にも思えるだろう。しかし最近この夕食時の会話は警察署でのアリバイ尋問のようにも感じられるので不思議だった。彼が大抵喜ぶのは「他の将校夫人たちとお茶会」とか「レーナを連れて同じような子供のいる将校家庭を訪問」といった、ソ連軍人居留地内で過ごすことだった。
「今日は婦人科の定期健診に行ったわ」
「どこか具合でも悪いの?」
「単なる定期健診だけど……どうして次の子供ができないのか気になっていて」
結婚式の前ではあったが、妊娠すればアレクセイの不安症がおさまり、束縛がゆるむかとも思えたのでエリザベートは次の子供を望んでいた。いくら言葉で言っても、態度で示しても自分の愛情を分かってもらえないなら、「子供を産む」という究極の方法しかないとすら思っていた。詐欺まがいのことまでして子供を欲しがったアレクセイなのだ。しかし、避妊せずに一年以上が経過しても妊娠する気配はなかったので、自分の身体の具合が悪いのかと彼女は心配になってきていた。
「もう君は子供を望んでいないのかと思っていたよ」
アレクセイの言葉にエリザベートは驚いて彼の目を見た。
「どうしてそんな風に思っていたの?」
彼女は自分の心を見透かされたかのように思えた。私には「母性」というものがないのかもしれない。妊娠も出産も体への負担が大きいだけだし、産んだ後赤ん坊の世話をすることも楽しいと思ったことがなかった。
「いや、でもまあ」
アレクセイは、はにかんだように微笑んだ。
「君が俺の子供をもう一度産もうと思ってくれているのはうれしいよ。全然出来ないから、またピルでも飲んでいるのかと思っていたから……」
エリザベートはナイフを落とした。
「また……?」
また飲んでいる、というからには以前自分がピルを飲んでいたことを知っていたのだろうか。やはり、やはり自分の妄想は真実なのだろうか。彼が薬をすりかえたのだろうか。
「なんだい?」
アレクセイは自分の言葉のあやには全く気づいていないようだった。
「ねえ今『またピルを飲んでいる』って言ったわよね。どうして私が以前飲んでいたことを知っているの?」
「『また』なんて言ったか? 俺」
アレクセイは全然顔色を変えなかった。とぼけとおすつもりだろうか。書斎の整理を私に任せたくらいだ。完全に失念しているのだろうか。
「それよりさ、新婚旅行どこに行く? 暖かい所がいいかなって思ってるんだけど」
エリザベートは話の腰を折った。
「ねえアレクセイ、私たちの結婚って許可されるのかしら」
「なんだよ。そんなこと心配しているのか? 東ドイツも独立したんだ。結婚なんて個人の自由じゃないか」
「だって……周りを見てもソ連の軍人とドイツ人で『正式な結婚』をしている人は誰もいないんですもの。この居住地内でもヴァーゼムスキー中佐の奥様がドイツ人だけど、奥様だと思っていたら身分証明書はハウスメイドなの」
彼女はつい先日ヴァーゼムスキー「夫人」とともに基地のゲートをくぐった時にちらりと見えてしまった身分証明書のことを話した。
「え、あいつらそうだったのか……? ヴァーゼムスキーってロシアに妻子残してきているのか? そういう風には聞いたことなかったけどなあ」
話はそれていった。ピルのことは二度と二人の口にはのぼらなかった。
2週間後エリザベートはガリーナを伴って西ベルリンのシュナイダー邸へ向かった。ガリーナは使用人用の待機室に待たせ、エリザベートとユーリア、ルドルフ夫妻は客間のドアを固く閉めた。
「製薬会社に頼んで調べてもらったよ」
ルドルフは以前ユーリアから受け取ったピルの瓶をエリザベートに返した。
「非常にゆるい無害なビタミン剤らしい。10年飲んでも何の変化もないようなね。瓶とカプセルはこのメーカーのものに間違いないそうだ。ひとつひとつカプセルを開けて中身を入れ替えて詰めなおし、もう一度蓋をしてビニールコーティングしてあるらしい。ただこのビニールコーティングのされ方はこのメーカーの工場でのやり方とは違うって言っていた。まあこの作業だけならそこらへんの町工場でも出来るだろうけど」
エリザベートは瓶を手にとって青ざめた。偽物……やっぱり。こんなものを信じて飲んでいたのだろうか。
「こんなものをピルだと信じて飲んでいれば、早ければ一ヶ月で妊娠が判明するだろうな」
そこへユーリアが口をはさんだ。
「でもどこですりかえるっていうの? エリザベートは薬剤師が怪しいっていうんだけど」
「エリザベートの許可があったから、婦人科でのカルテも見てきたよ。通常は院長といえども婦人科のカルテなんて閲覧できないけど……睡眠薬のようにプラシーボ効果を期待して偽薬を出すってこともあるかもしれないと思ってね。けれど、毎月きちんと『本物の薬』が処方されていた」
「じゃあ薬局でもその通りに処方するわよね」
「まさか薬剤師が買収されて別の薬を出すっていうのは、考えたくないけど……」
ルドルフは頭をかいた。この病院の信用を大きく崩しかねない事件なのだ。
「そのクリスティンの件だけど、うちの病院をやめた後ミュンヘン市内の聖ミカエル病院へ転職している。そっちに問い合わせたら1948年の初めにフランクフルトの系列病院へ転勤した後、退職したそうだ。病院へは次の職場への紹介状を書いてないし、当時の届出住所も調べたけど該当者なし。スタッフにも聞いてみたが彼女の現住所を知っている人間は皆無」
「そうだったの……」
クリスティン・エーゲノルフを見つけたところで簡単に口を割りはしないだろうが、一縷の望みをつないでいただけにエリザベートは残念がった。
「それからフィッシャーさんの件だけど」
ルドルフはまた別の用紙を見た。
「1946年7月から偶然にも同じ聖ミカエル病院に入院。9月には終末患者用の病棟に移っている。1947年2月癌により死亡。家族の住所もあたってもらったが、こちらも不明」
「ごめんなさい……手間ばかりとらせてしまったわね」
エリザベートはルドルフに謝った。
「いや。このくらいの情報のやりとりは病院間ではしょっちゅうさ。気にしなくていいよ。けれどエリザベート、ジューコフ中将がやったにせよ、これでは証拠も何もないよ。たまたま瓶をリサイクルして作られた薬品を闇市で買った、とかとぼけられかねない。終戦直後は闇市でいろいろ売っていたからなあ……」
ルドルフは腕を組んで回想にふけった。彼もまた裏通りで何度となく「強壮剤」なるものを売りつけられそうになったことがあったのだ。
「ねえ、もともと飲んでいたピルの瓶は捨てたの? ジャムにでも使ってないの?」
ユーリアの問いかけにエリザベートは我に返った。
「レーナを妊娠した時に全部捨てたわ。持っていたって、消費期限が過ぎてしまうだろうと思って……」
「そう……瓶だけでもあれば製造番号が連続しているかもしれないって思ったんだけどな」
私を手元にとどめておくためにアレクセイはこんな手のこんだことをしたのだろうか。大抵の男は自分が戦地に行っている間に妻が不貞をしでかせば、離婚するだろう。他の男の子供なんて産んでいれば、「許す」男なんていないに違いない。万が一ジークフリートが生きて帰ってきたとしても……アレクセイはそう考えたのだろうか。
ルドルフは仕事に戻り、その後しばらくユーリアとエリザベートは話しこんだ。
「エリザベート、ジューコフ中将の子供を産んだことを後悔しているの?」
ユーリアの言葉にエリザベートは首を振った。
「妊娠が分かった時とても驚いたけど。その後は堕胎しようなんて考えてこともない。アレクセイは元々結婚したいって言ってくれていたし」
エリザベートは左手のエメラルドをなでた。スキー旅行の時にアレクセイがプレゼントしてくれたものだ。あの頃私は彼との恋に夢中になっていた。心の底から愛し、信頼していたのだ。予想外の妊娠だったけれど、愛する男の子供だった。妊娠発覚後私はアレクセイの家に引っ越した。そして妊娠中の彼女に彼がどれほど優しかったかをエリザベートは思い出した。
「じゃあもうこのことはジューコフ中将に問い詰めたりしないほうがいいんじゃないの。いまさらどうしようもない話だし。結婚式直前に二人の関係がおかしくなりかねないわ。もちろんあなたが中将と別れてジークフリートの元へ戻るというのなら話は別だけど……」
「そんなことできない……」
実家から受けとった金とグリューネヴァルトの屋敷を売った金につく利子に、自分も働けばなんとか暮らしていけるかもしれない。マルタの百貨店で売り子をするか、シュナイダー病院で掃除をするとか、働き口も選ばなければ仕事も見つかるだろう。あるいは少々不愉快だが、実家を頼るということも可能であった。
しかしアレクセイに「別れたい」なんて口が裂けても言えないとエリザベートは考えた。ライプチヒに戻った日、あれほど「別れたくない」と訴えた彼。私が去れば死んでしまうのではないかとさえ思う。兄の言うように金で済ませられる相手ではない。自殺……いやそれ以前に私のことを殺すのではないか。エリザベートは自分がアレクセイに別れを告げる場面を思い描いた。別れたくないと散々ごねたあげく、血走った目で私の上に覆いかぶさり、首を絞められる。殺される……確実に殺されるだろう。
シュナイダー邸から戻ると、アレクセイが帰宅していた。
「どこに行っていたんだ」
彼はとっくに帰ってきており、私服に着替えて居間で新聞を読んでいた。自分が帰宅した時に妻が留守だったという不愉快さが態度からにじみ出ていた。
「ユーリアのところ……でもちゃんとガリーナを連れて行ったし、車で行ったわ」
「友達に会いたいのなら、家に呼べばいいだろう。警備にあらかじめ言っておけば通してもらえるんだから」
まるで将校居住地から出るなと言わんばかりだった。
「ユーリアさんの家は西ベルリンなんだろう。あまり西側には行かないほうがいい。前みたいに封鎖になったら戻って来られなくなるぞ」
封鎖したのは『西』じゃない。ソ連軍だったじゃないか、とエリザベートは腹をたてた。
「私はドイツ人なんだから、国内の移動は自由にできるはずだわ。事実シュナイダー総合病院のスタッフの中にも東ベルリンに住んで西ベルリンに通勤している人もいっぱいいるらしいわ」
アレクセイはばかにしたように笑った。
「なんだよ、それ。まさかとは思うけど働きたいのか。前はマルタさんの店だったし、今度はユーリアさんの病院か。君の友達はまったく実業家が多いね」
「いつかまた働きたいとは思っているわ。このまま一生家に閉じこもっているなんて嫌だもの」
「欲しいものは何だって買っているだろう。生活に不自由があるか? 君また子供が欲しいと言っていたじゃないか。君は家にいてくれ。家庭を守ってくれ。女が家をしっかり守ってくれてこそ、男は外で安心して働けるんだ」
世間の大多数の家庭では女は結婚したら家事と育児に専念するのが当然とされている時代だったので、この多数派意見の前にエリザベートは黙りこくってしまった。確かにこんなにりっぱな家に住んでいいものを食べ、自家用車もあるし使用人もいる。アレクセイはドイツ駐留ソ連軍の中でも高い地位に登りつめ、ベルリン市長よりも権力があるだろう。これからの一生でエリザベートがたとえ眠らずに身を粉にして働いても、これほどの社会的地位と収入は得られないだろう。外で働いてお金を得て、それでなにか欲しいものがあるわけじゃない。そう、お金の問題じゃない。では仕事をするというのはなぜだろう? 生きがいか。マルタの店で働いていた頃だって、楽しかったのは最初のうちだけで苦労のほうが多くなっていた。自分は決してがむしゃらに仕事をするようには生まれついていない。それはよくわかっている。でもだからといって自分の残りの人生はこの男の庇護下でおとなしくすごしているしかないのだろうか。ここ最近はアレクセイが怒るのが怖くて言いたいことの半分も言えない日々が続いていた。自分には自活する能力も術もない。この家を出ても行くところがない。
エリザベートが言葉をなくし、うつむいてしょんぼりしているのでアレクセイはやさしい笑顔に戻った。
「ねえエリザベート、将校連中が次々に本国から妻子を呼び寄せている。そういう人たちにドイツ語とか楽器を教えてみたらどうだい? そういえばこの間チュイコフ司令官から夫人が君のウィーン菓子の作り方を教える教室を開いてほしいって言っているって頼まれたよ。この間のパーティーで君のケーキの評判はすごくよかったじゃないか」
「そういう仕事ならしてもいいの?」
「もちろんだよ。それほど疲れないだろうし、この家の中か場合によっては居住区内の集会所を借りればいいさ。俺はね、君が治安の悪いベルリン市内で危険な目にあってほしくないし、仕事をして数字の計算に頭を悩ませたり、美しい手を汚したりするのを見ていられないだけなんだよ。愛しいエリザベート」
アレクセイはエリザベートを抱きしめ、髪をなでた。
「金を稼いでこれないからって女を馬鹿にするつもりはない。ただ男には男の役割があり、女には女の役割があると思うんだ。君が家で待っていてくれるからこそ、俺は働きがいがある。俺の宝なんだから、君は」
アレクセイの指がエリザベートの髪をかきわけ、頭皮をまさぐった。彼の言葉の優しさとはうらはらに、冷たい指先を感じた。自分はこの男の手のひらの上から一生逃れられないのだろうか。