1 過去からの使者
夢から現実に戻る瞬間、アレクセイ・ジューコフはシェーラの髪に触れたような気がした。夢の中でシェーラは金色の花畑で微笑んでいた。あれが天国なのだろうか。隣ではエリザベートが彼に背を向けて寝息をたてていた。金色の長い巻き毛が彼の手に触れていた。アレクセイはそっと身体を動かし、彼女の髪の中に顔をうずめた。彼は彼女の細くやわらかい髪がとても好きだった。明るい金髪の中に顔をうずめると、まるで陽だまりの中にいるような気がするのだ。事実、彼女は彼にとっての太陽だった。出会った時は肩の上まで短く切っていた彼女の金髪は彼の要望で今では腰まで届くほど長くなっていた。エリザベートはどんな夢を見ているのだろう、と彼は考えた。自分がかつて愛したシェーラの夢を見るようにエリザベートもまたジークフリートの夢を見るのだろうか。
出会った日のことは今でも鮮明に思い出すことができた。婚約者のシェーラを結核で亡くしたアレクセイは、折しも始まったドイツとの戦闘で命を捨てようと思っていた。ドイツ軍の攻勢、泥の中を敗走につぐ敗走、雪の中の逃走。それでも彼の国は諦めなかった。多大な犠牲の上にスターリングラードを守り抜くと、今度は西へ向かっての進軍が始まった。ファシズムからヨーロッパを解放する……この大義。「悪の帝国ナチスドイツの首都ベルリン」を目指して西へ西へと進む日々。勝利を目前にしてもアレクセイの目に入る世界はずっとモノクロであり、すりガラスの向こうのようにも感じた。とりわけシェーラが逝った春が嫌いだった。棺を満たした花や墓場に咲いていた花を思い出すのもつらかった。戦争の間、多くの「死」を見てきた。そしてそのたびに思った。なぜ俺はまだ生きている…… シェーラを思い出して泣くことはさすがになくなっていったが、アレクセイは人生に生きる目的と希望を見出すことはできなかった。双眼鏡でベルリン市が見えるようになったとき、「ああ、もう戦争が終わってしまう。ドイツを倒すという目的がなくなれば、何を目標に生きればいいのだろう」とすら思った。
1945年4月25日……この日は世界史的にはソ連軍とアメリカ軍がエルベ河畔で出会い、ドイツの戦線が南北に断ち切られるという「エルベの出会い」として記憶される。しかしアレクセイにとっては彼の視界が再び色づいた日だった。ずっと目の前にあったすりガラスが粉々に砕け散ったような気がした。その夜アレクセイはある小部隊の隊長に用ができてわざわざ自分から部下の野営テントを訪ねたのだが、行ってみると部隊の中の十数人が消えていた。「森へ探検」にでかけたという。命令以外で勝手に隊を離れて行動するという規律違反の部隊を追い、数人の精鋭部下を連れて馬で追いかけたアレクセイの目に焼け残った大きな屋敷が現れ、叫び声が聞こえた。
小部隊が今まさに犯そうとしていた女……アレクセイが寸でのところで助けたのがエリザベート・フォン・リヒテンラーデだった。服を引き裂かれ、髪を乱して恐怖に震え、唇の端から血を流している女……ブロンド美人などドイツ領に入ってから飽きるほど見てきた。エリザベートが取り立てて美人だったというわけでもなかった。理由は彼にも分からなかった。しかし彼が興味を抱いたのはエリザベートだけであった。
あの日あのまま「部下が失礼をしました」と言って別れてしまうはずだった。けれどアレクセイはエリザベートをあのまま残していくことはできなかった。自国の軍隊による非戦闘員へのひどいふるまいに心を痛めていた彼は、今まであちこちで同じような暴行行為を止めたり加害者を処罰してきた。しかし未遂のうちに被害者を救出できたのはこの日が初めてだった。このことにより彼は自分が騎士として姫君を救出するという古典的な物語の主人公になったような気がしたのも確かだった。この混乱した戦乱の地で、彼女を一人で残していくことなどできなかった。後続部隊が次々と到着するだろう。また同じ目にあったとき、自分がいなくては助けられない……彼は部下と話し合って屋敷の接収を決めた。「もっと街道添いのいい物件があるだろうに」という反対意見もあった。さらに居住者を追い出さない接収などありえない話だった。しかしアレクセイは自分の主張を押し通した。
まもなく毎日のお茶の時間が彼にとっての一番の楽しみになった。エリザベートの夫がナチスの中でも一番の「悪の組織」である親衛隊のエリート大佐であることには驚いたが、彼女自身がそれをアレクセイに伝える時に全く躊躇していなかったことにはもっと衝撃を受けた。(むろん、後ろで執事がやきもきした顔を見せていたが) 彼女はSSという組織のことなど何も知らないのだ。夫のことを単なる官吏だと思っているのだ。
アレクセイが7歳の時にロシア革命が起こり貴族や皇族は皆国外へ亡命した。それゆえ彼の中の貴族のイメージは子供の頃に見た豪華な馬車や城郭と、学校で習った「ブルジョワと貴族」という共産主義の理想に反する悪、というイメージしかなかった。エリザベートはブルジョワ出身で貴族の奥方だった。執事を筆頭とする十数人の召使を支配し、絹の衣装をまとい、銀の食器を使う人種だった。反発しながらも憧れた上流階級の人間を初めて目の前にして、アレクセイは自分でも思いもしなかった甘美な感情に支配されるようになっていった。この世間知らずで善良な貴婦人にアレクセイは恋をした。人を疑うことを知らない、手を荒れさせたこともないお姫様に彼は心を奪われていった。彼女と一緒にいるとこちらまで心が洗われて美しくなっていくような気がした。実らぬ恋、片思い……誰かを好きになるということがこんなにも幸福なことであることを彼は長い間忘れていた。お茶の時間の後一緒に散歩した庭園の花々や、彼女に似た金髪の3人の幼い子供たちのことまで彼は好きになっていった。とくに末っ子のアルフレートは母親に生き写しだったので、彼はしょっちゅう抱き上げて可愛がっていた。
エリザベートを好きだという気持ちがつのっても、想いを伝えることはどうしてもできなかった。彼女には「夫」がいるのだ。返事は分かっている。「拒絶」の言葉を聞いて傷つくのが怖かった。彼に提供された最上の客用寝室で、何メートル歩けば彼女の……彼女と夫が過ごした寝室へ歩けるのだろうと、アレクセイは眠れぬ夜を過ごした。
7月のあの日……エリザベートのやわらかな唇を初めて味わってしまうと、彼はもう自分を抑えることが出来なくなり、彼女を床に押し倒してしまった。もちろん「嫌だ」と言われたらすぐにでもやめるつもりだった。未遂とはいえ、彼女はひどい目に合いかけたのだ。男に触れられることに嫌悪感があるかもしれない。しかしエリザベートは細い腕で彼の体を引き寄せた。彼女は俺が一歩踏み出すのを待っていたのか……? エリザベートは震えていた。彼女の心臓は破裂しそうなほどの鼓動をうっていた。落ち着け、焦るな、あの兵卒どもと自分が違うことを彼女に分からせなければ……彼は自分自身に言い聞かせながらそっと彼女の体に触れていった。
この日は邪魔が入ったため「未遂」で終わってしまったが、このまま進めばエリザベートと恋人同士になれるかもしれないという希望はアレクセイの日々の生活をとても幸せなものにしていった。諦めようと思っていた恋は一転して明るい未来を見せたのだ。彼の表情は目に見えて明るくなり、他人にも親切になっていった。仕事にしか興味のない、面白みのない軍人としかアレクセイを認識していない周りの人々は驚き、一体何があったのだろうとささやきあった。
しかしこの日の出来事は同時に彼を苦しめた側面があったことも確かであった。彼はその後エリザベートに会うたびに彼女の唇の感触や、髪や胸元の甘い香りを思い出した。衣服の上から触れた乳房や腰のやわらかさ、唇に感じた首筋の脈動が何度もよみがえった。引越しの日にアレクセイはエリザベートの寝室に初めて入った。「この姿見はどうしても持って行きたいの」と言いながら自分を何の警戒心もなしに寝室に招きいれた彼女に対し、怒りすら覚えた。この女は俺が次の段階に進みたいと考えていることなど想像もしていないのだろうか。男を寝室に招きいれることがどういう意味を持つのか、いい年をして分からないのだろうか。それとも、あの日のことは一時の気の迷いで、相手の情熱に流されてしまっただけだとでも言うのだろうか。
引越しが終わった夜、エリザベートが耳まで真っ赤にして「今度いつ会えるの」と言った時、アレクセイは心底彼女を愛おしいと思った。エリザベートは俺の愛情を受け入れ、応えようとしてくれていると確信した。だから湖の別荘で一泊しようなどという大胆な誘いが出来たのだった。
半年間彼の願い続けた、初めて共に過ごす夜は夢のようだった。エリザベートの体に吸い込まれるようにアレクセイは彼女の中に入っていった。彼女は彼の動きに合わせて反応を返し、ついには頭をのけぞらして小さな叫び声をあげて体を痙攣させた。エリザベートは自分がこんな風になったのは生まれて初めてだと告白してうっとりした顔をしていた。「信じられないわ、こんなことがあるなんて」彼女はうっとりとした様子で何度もそう繰り返しつぶやいた。
ようやくエリザベートの心を手に入れ、度々ベッドを共にする仲になっても、いや一線を越えてからのほうがアレクセイの心の不安は高まるばかりだった。「夫」が生きて戻ってくれば彼女は夫の元に戻るのではないかという不安だった。いや、確実に夫の元に戻るだろう。それをなんとしても阻止したいと思い始めた。やっと手に入れたこの愛と生きがいを奪われたら今度こそ本当に立ち直れないだろう。エリザベートに何度「一緒に暮らそう」と言っても首を縦にふらないことも彼をいらだたせた。彼女を完全に手にいれるためには何だってするつもりだった。もしジークフリートがソ連軍の捕虜収容所にいれば秘密裏に殺してしまおうとすら思っていたのだ。
その後念願かなってエリザベートはアレクセイの子を産み、内縁の妻として共に暮らしている。彼は今このライプチヒでの暮らしに満足し、ロシアに戻りたいとは全く思わなくなっていた。ドイツは分断され、この「東半分」にはずっとソ連軍が駐留し続けるだろうというのが彼の予想であり願望であった。
1年前、ドイツの西半分を占領する英米仏3カ国は突然通貨の切り替えを行った。ライヒスマルク(あるいはレンテンマルク)と新しいドイツマルクとの交換比率は現金が10:1、銀行預金が100:6.5というひどいものだった。3日後ソ連は同様に東半分に東ドイツマルクを発行、その後1年にわたって東西ベルリンの通行を防いだ。封鎖は今年の春には解除になったけれど西半分はドイツ連邦共和国(西ドイツ)としての独立を宣言した。今年中に東半分も同じように独立するだろうとアレクセイは思っていた。共産主義の大国ソ連の衛星国として。前線基地として。
通貨の切り替えでエリザベートの現金資産はほとんど紙くずになってしまった。フリードリヒスハインのアパートはソ連占領地にあるので国有化されてしまうだろう。そうすればもう家賃収入もなくなってしまう。何もなくてもいい……お前の心と身体だけ残ればいい。それらは俺だけのものだ。アレクセイは彼女を後ろから抱きしめた。お前がジークフリートと結婚していた事実は消せないけれど、過去はもうどうでもいい。未来を俺にくれ。
エリザベートがモゾモゾと動いた。
「なあに?」
不機嫌な声がした。まだ眠っていたいのだろう。
「ごめん、起こしてしまったね」
エリザベートを抱くときアレクセイは自分の肉体的欲求を満たすというよりは彼女の中に自分の愛情をすべてそそぎこむような感覚を覚える。しかしどれほど言葉で伝えても、身体で表してもエリザベートに自分がどれほど彼女を愛しているかを理解させるのは不可能だろう。自分が一人の女に対しこれほどまでに夢中になっていることが時々信じられなかった。戦時中、将兵の中には死と隣り合わせの恐怖からか、酒や娼婦や麻薬に溺れていくものが後を絶たなかった。今の彼はエリザベートに溺れているといえた。以前は女に溺れて借金を繰り返す兵士を軽蔑していたが、ようやくその心が理解できたような気がした。
二人の間に二年前生まれたレーナをアレクセイはとても可愛がっていた。そろそろ次の子供が欲しいとも思っていた。出産から一年後避妊をするのをやめたが、エリザベートが妊娠する気配はなかった。
ジークフリートの遺児のうちエドゥアルトとヘルムートは小学校に通い、アルフレートは幼稚園児になった。終戦時1歳前だったアルフレートは実父を全く覚えておらず、アレクセイのことを本当の父親と思っていた。上の二人もアレクセイに懐き、夜には勉強をみてやったり休みの日には遊んだりしていた。
1946年の夏、元国防軍のフィッシャー伍長の証言によりリヒテンラーデSS大佐が「死亡」とされ、簡単な葬儀が行われた。遺体がないので親衛隊の黒い制服を御棺に入れた。エリザベートは退職金は無理だとしても遺族年金が出ないかと思い、社会保険局に聞きに言った。しかしSSは犯罪組織として本人への恩給も行われないことになり、遺族年金など出るはずもなかった。また、ジークフリートの加入していた生命保険はSS職員互助会のもので、SS自体がなくなってしまっている世界では言わずもがなであった。
1948年の通貨改革とその後に続くベルリン封鎖でマルタの店とも行き来ができなくなり、エリザベートは仕事を失った。仕方なく彼女は家で子供の相手をしたり料理をはじめとする家事をするようになった。アレクセイは元々エリザベートには家にいてもらいたいと思っていたので満足していた。店に出ていたころは疲れてしまって夕食後にウトウトしたり、どうしても仕事の不満や愚痴を口に出すことがあったからだ。
「早く東ドイツも成立してほしいよ。そうなったらソ連と東ドイツは友邦国だ。晴れて正式に入籍できる」
アレクセイは最近口癖のようにそればかり言っていた。彼は戦争中に支給された給料をほとんど手付かずに持っていたが、遺言書も弁護士に預けて自分に万が一のことがあってもエリザベートが困らないようにしていた。ジークフリートのように自分の死後、妻を路頭に迷わせることだけはするまいと思っていたのだ。
アレクセイが頼りにしていた遠縁のジューコフ元帥は、終戦の翌年左遷された。長い大祖国戦争の英雄としてソ連国内で人気が出すぎ、スターリンの怒りを買ったためだ。アレクセイは自分の昇進が遅れていることもつらかった。終戦の間際に当時の上官が二人続けて戦死し、玉突き的な棚ぼた式にもたらされた「若い少将」であったので多少の遅れは納得できた。しかし中将になれば連隊内の権力も給料も違ってくるので昇進は待ち遠しかった。東ドイツが成立すれば駐留ソ連軍も再編成されるだろう。今年の四月、アレクセイと犬猿の仲であったソコロフスキー司令官が帰国し、新しくワシーリー・チュイコフ上級大将が総司令官になった。チュイコフとはスターリングラードを一緒に戦った仲であり、アレクセイはこの人事に小躍りして喜んだ。彼は今後も東ドイツに駐在し続けたいと新しい司令官に申し入れ、付け届けまでした。周りから「ドイツのブロンド未亡人にイカれてしまった」と陰口をたたかれていることなど百も承知だった。
彼以外にもドイツ女性と同棲している占領軍将校は山のようにいた。本国に本妻が待っている者も多かったが、帰国の時期が来ても帰るのを嫌がったり、果ては愛人とともに逃亡するものまで現れてソ連当局を激怒させていた。アレクセイの恋愛相談をしていたセルゲイ・ズボフスキー少尉は徴兵年限の終了により本国への帰還が決まっていたが、その直前にドイツ娘アリシア・ミュラーと共に西半分へ駆け落ちした。フランクフルト消印の葉書でエリザベートは事の真相を初めて知って腰を抜かした。住所は書いていなかったが二人でこれからも暮らしていくと書いてあった。どうやって生活していくつもりなのか、エリザベートは若い二人の無鉄砲さにあきれながらもそのエネルギーを微笑ましく感じた。
ライプチヒでの生活は特に大きな変化もなくこうして続いていったが、ある日西ベルリンの米軍からリヒテンラーデ邸、そしてシュミット弁護士を通じてエリザベート宛に書類が届いた。
「ジークフリート・フォン・リヒテンラーデSS大佐をデュッセルドルフで逮捕。至急ベルリン市米軍総司令部へ出頭されたし」
エリザベートはその場で気を失った。