死んだ聖女とぼくは踊る
薄暗い雲の下、ぽつりと一粒。
天幕から染み出した雨露がぼくの頬を伝う。外気の冷たさが火照った体の熱を逃がしていく。
眼下の断頭台にはマスクをかぶった執行人。
その隣には両手足と頭を拘束された女性が、血のりのついた台のうえに乗せられていた。
少し離れた天幕の中からでは彼女の顔は見えなかった。もしこの時彼女が何者か知っていたら、ぼくはこのばかばかしい行為を止めに入っていただろう。少なくとも今とは違う未来をたどっていたはずだ。
この場所に連れてきたのは、アズネ国の次期国王だ。
敵国との戦いで快勝を続けていたアズネ国が、友好国のわが国を祝賀会に招き、ぼくは父についていく形で参加することになった。
だが、ぼくは当時まだ齢10歳にも満たない子どもで、甘やかされて育てられていたせいもあったのだ。退屈さが顔に出ていたのだろう。
ぼくは「面白いショー」があると彼にそそのかされ、この場についてこられた。
曲芸だと思っていたぼくの想像とはかけ離れ、ショーは悪辣に満ちたおぞましいものだったが。
ようは戦争がひと段落して自分達に寝返らなかった敵国の王族や貴族、反乱分子をみせしめに処刑をする政だったのだ。
その中には件の「魔女フランシェ」も含まれていた。内情を知らないその時のぼくには、フランシェと魔女という言葉が結びつくはずもない。
「これより魔女の処刑を執行する」
執行人の言葉には、「はやくやれ!」、「魔女を殺せ!」という怒号を止めるには十分な力を有していた。皆がこれから起こることを固唾を飲んで見守っていた。皆が彼女の死を望んでいる。
ただの少女に勝手に期待して勝手に祭り上げた挙句、その末路がこれだ。
「よろしいですか?」
執行人が目配せしたのは、ぼくのとなりに座る次期国王だった。
「ああ、早くその女を殺せ」
あとで調べあげて分かったことだが、彼は魔女と呼称された彼女の元婚約者。
そして、そんなそぶりを見せずに死の宣告を淡々と告げたのだ。
処刑人は無言で言葉に頷くと、手に持っていた斧を勢いよく振り下げた。ゴトリと聞きたくもない音がして、すぐ雨音にかき消された。
その時、『彼女』と目が合って何者なのか理解した。
「面識も無い女が殺されても、何の余暇にもならないだろうに。悪趣味なところに呼んでしまったね」
その男は赤子をあやす様にぼくに話しかけてきた。
「……いえ、面識ならありますよ。何度か話をした程度で向こうは覚えていないでしょうけど」
「ふうん。薄情なうえに気の多い女だな、あいつは」
「…彼女がなにをしたんですか?」
「国家反逆罪、機密漏えい、内乱陰謀罪、まぁ、その他もろもろだよ」
ぼくが「本当に?」と訊ねると、男は薄ら笑いをした。
「少なくともこの国のえらい人達はそう決めたんだ。彼女が死ぬことは俺達両国にとっては良いことなんだよ。なにせ手にするパイが増えるわけだからね」
ぼくは続けて質問した。
「彼女のことを愛していた?」
「さぁ、どうだろうね。本当のところ俺にもわからないんだ。でも彼女の死をとめたい程の情は湧かなかったよ」
まるで飼っていた犬猫を捨てに行くように、その男は言うのだ。
そうだ。
この男がそう言うものだから、ぼくは決めたんだ。
――ああ、またこの夢か。
「お疲れのご様子ですね。アンドリア王子。ご体調は優れませんか?」
まぶたを開けると、金髪のあどけない少女がぼくの目の前に立っていた。
童話の世界から飛び出してきたような愛らしい容姿で、子どもと大人の中間くらいの年齢だ。
ピンクの可愛らしいフリルのついたドレスを身にまとっている。成長期だからか、数ヶ月前も彼女は同じ服を着ていたが、今ではやや体格に不釣合いのように思えた。
そう、彼女はたしか――ロイス・リア・ジャンヌ・ド・アズネという名前だったはずだ。
この国の王位継承権を持った一人娘。現国王のあの男と血のつながった娘というには、性格が正反対のとても純朴な心優しい子だった。
「おはよう、ロイス姫。すまない、長旅で疲れが出てしまったみたいだ」
どうやらぼくは、ソファに座りながら少しばかりうたたねをしていたようだ。
ぼくが傾いていた体を起こすと、ソファはぎしぎしと音を鳴らす。薄ぼけた意識が徐々に覚醒しだすと、ハープの演奏音とそれにあわせて靴のタップ音が、耳の奥に流れてきた。
貴族達は今、ダンスホールで踊っている最中だろうか。
社交界が終わる前に起きれたのは、幸いだった。
この居眠りは、ここ数日他国との交渉で各国を飛びまわった疲れもあったのだろう。しかしまともに睡眠を取れていないとはいえ、寝むりこけてしまうとは。
「怖い夢でも見られたのですか?」
彼女が不思議なことを聞くせいで、ぼくはどうしてと聞き返す。
「だって泣いておられたから」
ぼくは頬に流れている涙のあとを指でそう。どうやら彼女に恥ずかしいところを見せてしまったらしい。
「これでは紳士失格だね。嫌な夢を見るといつもこうなんだ」
ぼくの言葉に彼女は「いえ……」と小さく頭を横に振った。
「私嬉しいです。王子の寝顔が見れたから」
彼女はそれきり俯いてしまう。
「なにかご用だったかな?」
ぼくが話題を変えると、彼女はおずおずとヒナのように小さい口を開いた。
「王子、私とダンスを踊ってはいただけませんか?」
おおかた彼女の父に誘えと命じられたのだろう。あの男はぼくと彼女をどうしてもくっつけたい理由があるからな。
今日の晩餐会は他国のゲストはぼくを含めて少数しかいない、殆どがこの国の関係者の貴族だ。
ぼくが彼女とダンスを踊るのは、ぼくたち二人が婚約者になることを国内にアピールする意味がある。王家の血を引くぼくが彼女と結婚すれば、国交や国政がまだ安定しているということを身内に知らしめられるからだ。
ようはただの見栄だ。この国にとって敵とは、自身の優位性を示さなければ、いつ自分を裏切るかわからない身内なのだ。
「ごめんよ、ロイス。今回は遠慮させてもらう。残念だけど、どうも疲れがたまっているようだ」と言ってから、「それと名前の最後に王子はつけなくていいよ、王位継承権は弟に譲ったから、今はただの公爵だよ」と付け加えておいた。
今のぼくには、この国が望むような政略的な価値も以前ほど無いという事を、念を押すためだ。とはいえ当面は協力者のていは装っておくつもりだが。
「そ、そうですか……」
ぼくの返事に彼女はまた俯く。どうにもばつが悪く、こちらが悪いことをしでかした気になってしまう。気まずい空気がぼく達の間に流れた。
「かわりと言ってはなんだけど、ここでもう少しおしゃべりしないか」
「本当ですか!」
「ああ、君の話を聞きたいな」
ひまわりのように明るい彼女の笑顔がギャラリールームの照明に照らされる。
あまりに彼女が眩しくて、彼女の視線を避けて絨毯にできている影を見て言った。どうも彼女と話をしていると、調子が狂ってしまう。
「お話ですか……そういわれても、すぐには思いつかないですね」
そういうと彼女は考え込んで、客室の窓の方に向かって歩んだ。
窓の外は夜中の時間帯と言うのもあるが、この屋敷から下にそびえる城下町には灯り一つもなかった。深遠とした暗さが佇み、町に活気が無いのはすぐにわかった。十数年前までの栄華を極めたこの国では考えられない光景だ。
「そうだ。あの、じゃあ各地に現れる魔女の死体の話はご存知?」
「死体?」とぼくは即座に彼女に聞き返した。
「ええ、アズネ国にかつて現れた魔女の話ですよ。知りませんか」
この国で魔女といえば。フランシェのことだろう。
その話はこの国ではある種のタブーだった。ただ冷静に考えてみれば、あれからもう十数年も立っている。ロイスが生まれる前の話だ。こんな風に気軽に話題に出せるほど風化してしまっても不思議ではない。
それから、ロイスは流暢とは言いがたい口調で、言葉を選びながら話を始めた。
内容を要約すれば、だいたいぼくの知っている通りだった。
かいつまんで説明すると、フランシェという魔女が、聖女と偽ってこの国の王様に取り入り、国を滅茶苦茶にしたというものだ。
そして最後には彼女が処刑されてハッピーエンド。
「それでその魔女がどうしたの?」
「噂だと、処刑されたはずの魔女は実は死んでいなかったとそうです」
「死んでいない?」
「はい。魔女はなんとなまりの心臓に杭を打ち込まないと死なないんです。だから断頭台にかけられて頭と体を切断されても死ぬことはなかった。まるでデュラハンみたいに生きていたんです」
「そりゃおっかないね」
「その証拠に彼女の死体は後日共同墓地からなくなっていたんです。その数年後、魔女の死体は各地で目撃されるようになりました」
ぼくが話によく相槌をうつせいか、ロイスが気を良くしたのかはわからない。
彼女は屈託のない笑顔で、先ほどとは違い流暢に話を続けた。
たまにぐるぐる回転したり、じぐざぐ歩きながら会話にのめりこんでいた。
まるでプリマドンナように彼女は自身の主張を続けた。
「多分、処刑された後に蘇った魔女は、アズネ国を呪い、夜な夜な色々なところに現れては今も災いをこの国に振り撒いているんです。だからこの国は飢饉や戦争が終わらないと聞きました」
ぼくは彼女が話終わるのを待って、「興味深いね」と答えた。
「でも、殺されても魔女はこの国の事をうらんでなかったんじゃないかな」
ぼくの返事が意外だったようで、彼女は踵を返す。
「どうしてそうお考えに?」
「彼女から直接聞いたからと言ったらどうする?」
「うそ……」
「いや、本当の事だよ。ぼくと彼女はちょっとした知り合いでね」
彼女は一瞬言葉を失い、それから唇を山なりに曲げた。
おおかた自分がからかわれていると思ったのだろう。
実際、フランシェはこの国の人間も、この国さえも恨んではいなかった。
彼女は確かに聖女と呼ばれるべき神に愛されるにふさわしい、優しさと慈愛に満ちた善良な魂を持っていた。少なくともぼくとは違って。
「アンドリアさんって、面白いですね」
「初めて面白いなんて言われたけど悪い気はしないね」
それから、その会話を口火にぼくらは少しばかし他愛ない話をした。
内容の無い本当にどうでもいい話だ。趣味の話しだったり、最近彼女が始めた習い事のことだったり。昨日食べたスコーンが美味しくなかったとかとか、そういう類のものだ。
彼女がぼくに心から気を許しているせいだろうか。彼女との会話は日常の生活では味わえない、心がほぐれるような感覚があった。
ぼくらが会話のやりとりをかれこれ数十分ほどしていると、意外な人物がここに現れた。
この催しの主催者であり、先ほどまで会食を共にしていたアズネ国現国王だ。
「ここにいたのか、アンドリア公爵」
「半年ぶりだね。前あったときはぼくの弟の戴冠式の時だったかな」
彼は頷くと、のっそりと歩きながらぼくの座るソファに腰をかけた。
「ロイス、お父さんはこれから公爵と話があるんだ。早く部屋にもどって寝なさい。もう子どもは寝てる時間だぞ」
「はーい」とロイスは答えて、小さく手を振ってきた。ぼくはただ薄っぺらい笑顔を作る。
「それで、なにか用があるんだろ?」
ぼくが彼に尋ねると、彼は両手を組んで、すこし押し黙った。
それから何度かため息をついた。
その姿は、いつか、ぼくが見た時の自信に満ち溢れた彼からは想像も出来ないほど痛々しかった。彼の手に増えた皺と、年の割には多い白髪が彼のこれまで経験してきた苦労を物語っている。
幼少期に彼から感じた王としての残酷さも、カリスマ性も今はさび付いて見る影もない。
「すまない、また君の国に資金援助をしてほしくてな」
「頼みごとってのはそれかい?おいおいこの間融通したばかりだろう」
彼は頷くと、それから押し黙った。
「かまわないさ。ただこっちも王様が替わって、いろいろとあわただしくて融資が難しくなってね。だが弟には何とか頼み込んでみるよ。ぼく達の仲じゃないか」
「助かるよ」と彼はただ一言発して、それからシャンパンを一気にあおった。
「酒の飲みすぎはよくないぞ」
「ああ、医者も同じ事を言っていたな。だがこれが飲まずにいられるか」
もうこの国の国庫には金がほとんどないのは調べがついている。今年の厳しい冬を越すのも難しいかもしれない。
戦争にも負け続け領土を失っている。しかも民衆たちは救世軍という組織を立ち上げて、国のいたるところでクーデターが行っている有様だ。
しかもあろうことか、民衆が殺せとあおった「聖女」をその救世軍のシンボルマークにしているとはとんだ皮肉だ。
「ぼくに協力できることならなんでも言ってくれ、できることはやるからさ」
「すまない、俺が腹を割ってこういう話が出来るのは、もう君くらいしかいないからな」
ロイスは先ほどこの国に災いが訪れたのは魔女であるフランシェのせいだと言ったが、それは違う。
ましてや、聖女であるフランシェを殺したから天罰起こったというわけでもなかった。
確かに飢饉や自然災害などの偶然だってあるだろう。だが、災害や飢饉が起きても税を緩和することも、民を助ける事もしなかったのはこの国の貴族達だ。
巡りめぐってその報いを、今、受けているだけのことだ。
この国は死に向かっていた。
昔はアズネ国を愛し、忠義を示した貴族もいたのかもしれない。
だが、ぼくが大人になってこの国に訪れたときには、そんな人間は一人残らず、いなくなっていた。復讐を胸に、再びこの地を訪れたぼくが目にしたのは国を食いつぶす魑魅魍魎共。
この国を駄目にしたのは、そう言う連中だ。
自分の既得権益にしがみつき、私腹を肥やしてみにくい派閥争いばかりしてきた貴族達。
自分達と別の派閥が軍隊を出したら、支援することはなく足の引っ張り合い。そのような状態では軍の士気もあがるわけがなかった。無能な指揮官はコネでたくさんいるのも拍車をかけた。だから戦争にも負けるのだ。ようは全てが自業自得ということだ。
そして、ぼくはそういう連中に少しばかり手を貸した。
目の前の弱っている男もそういう人間の一人だった。自分の身内や逆らった者の粛清を繰り返した挙句、最後にはコウモリみたいなぼくだけが残った。
「これを受け取ってくれないか」
「これは?」
彼は、胸ポケットからおもむろに鍵をぼくに渡してきた。金の装飾と蝶々の形を象った可愛らしい鍵だ。この男が持っているには、似つかわしくなくて変な笑いが出てきそうだった。
「娘の部屋の鍵だ」
彼の言葉は短く、それ以上も、それ以下の言葉も発することはなかった。だが、彼の行為が何を示しているのか理解するのに時間はかからなかった。
一瞬、視界がゆがみ、怒鳴りそうになった自分を自制した。
得意の笑顔を顔に張り付かせ、「馬車も留めているから、そろそろぼくはホテルに帰るとするよ」と言ってからその場を後にした。その時後ろから彼の独り言が聞こえた。
「どうしてこんなことになってしまったんだ…」
妙に自分の足取りが重くて、ワインを飲んで火照っていた体は嫌に冷たくなっていた。
こんな夜は一杯酒をあおらないと、気分が悪くなる。
◇
ぼくは、社交界が行われた館を後にし、そのまま数キロ離れたホテルに戻った。
そのホテルは平原を越えた先の一等地に構えており、近くには湖が佇んでいる。
水面に反射した月が映える夜景が美しく、ぼくらはよく湖畔に遊びにいった。
元々は貴族の館だったが、今は売り払われ迎賓館のように使われている。今もその名残があってサルーンに舞踏室などがそのまま保存されていた。シーズンにもなればその一室が開放されるのだ。
この国に仕事で滞在している間、ぼくはもっぱらこの屋敷に泊まっていた。
王家の人間や高位貴族に人気の貸し宿で、ぼくの好みというよりは、フランシェが愛用しているのだ。なんでも昔すんでた田舎に近いからという理由だ。
距離が近いのかとたずねたら、彼女は「匂いが近い」と答えた。
「どんな匂いなの」とぼくが質問すると、あけっぴろげな感じに「草木の匂い」と答えた。
草木に匂いの違いを確かめようと都会育ちのぼくが何度嗅いでも見分けがつかない。反応に困る返事だったが、天然な彼女らしさを感じられた。
「わるい、遅くなったフランシェ」
三階の客室のドアをノックし、ぼくは彼女の返事を待った。
「フランシェ?」
しかし無常にも反応はなく、一つため息をつくことになった。部屋の前でうなだれるぼくをハウスメイドが見ていたら、ただの奇行に見えたことだろう。
帰りが遅くて彼女を怒らせてしまっただろうか。
正面の蝶番の扉を眺めていたら、ぼくは別の可能性に至った。
それからぼくはまたため息をついた。その足で階段を下りて一階の舞踏室に向かう。
舞踏室の大きな扉の向こう側からは案の定、床を叩く音が「たん・たん・たん」とリズミカルに聞こえてくる。
今、この屋敷には最低限の人間とぼくらしかいない。
とは言え、突然の来客が現れたらどうするのだろうか。
これまでの経験則から、あまり先の事は考えていないのだろうなと思い至り、何度かノックした。人の気も知らないで勝手に外に出るから、ロイスからも『亡霊』なんて噂されるんだ。
「入るよ、フランシェ」
扉が開くと、ドア越しに聞いていたよりも大きな音が反響した。床に敷かれた赤い絨毯から彼女の起こす振動が伝わってくる。彼女は、こっちの気もしらないで一心不乱にダンスをしていた。
「遅かったですね、アン」
彼女はぼくを見るや、ようやくダンスをやめてこちらに振り向く。
窓ガラスの隙間からこぼれる月明かりを背にし、彼女の姿は映し出された。
美しい赤茶色の髪と田舎生まれの健康そうな肌、髪の色とは間逆の翡翠の瞳、そして首と頭部を縫いつけた跡。それは死んだときと同じ姿のままの彼女だ――
「これでも急いで帰ってきたんだけど」
「待ちくたびれて一人でダンスを踊っていました。今はパヴァーヌを練習中です」
フランシェはこちらを見ずに、また足だけを器用に交互に移動させ、一定のリズムを取っていた。
まるで、その姿は情熱的に踊る貴婦人のようで、彼女が舞踏会に呼ばれたりしたら男たちがこぞって彼女とダンスを踊るために行列を作ったことだろう。そう夢想するほど、フランシェの姿は優雅で美しく、ぼくは見惚れるはめになった。
「ねぇ、ちゃんと聞いていました?」
「ああ、聞いてるよパヴァーヌだっけ?」
「流行ってると聞きましたが?メイド達が話しているのを盗み聞きしましたので」
フランシェは体を左右にゆらゆら揺らして、ゆっくりとぼくを中心に円をかきながら周囲を舞い始めた。彼女の踊りを見て、そういえば、ロイスもパヴァーヌの話をしていたっけと思い出した。
パヴァーヌとはここ最近、流行っているダンスで特に流行に敏感な男女に人気らしかった。
流行に流されやすい人代表のフランシェが練習しているのも当然の帰結だった。
そういうところも可愛らしかった。
「ねぇ、今失礼なこと考えていませんでしたか?」
「顔にでていたかい?」
「ええ、人を小ばかにする顔でしたね」
「それは失敬」
彼女はぼくの前で立ち止まると、気のないそぶりで右手を差し出す。
「ねえ、踊りましょう?」
「パヴァーヌを?悪いけどあんな情熱的な踊りはやったことがないぞ」と彼女の手を取りながら答えた。
「いいですよ。わたしが教えますから」
それからぼくは彼女に促されるままにダンスを踊り始めた。ダンスというには、足取りはおぼつかなくて、途中何度かこけそうになった。その度に彼女がぼくを支えてくれて、なんとか踏み留まった。
古い格式ばったやつなら得意なのだ。だけどはじめての踊りだとそうはいかない。ついつい古いほうのダンスの動きを体が覚えていて、ワンテンポ彼女の動きから遅れてしまう。彼女の美しい洗礼された白鳥のような動きと比べたら僕はアヒルだろう。
「こうですよこう」
こうといってもぼくはそれについていけるだけの技量はないんだけどな。それでもぼくは体を必死に動かして、なんとか動きに食らいついた。
「お上手ですね。だいぶ様になってきましたよ」
「君にそう言われて光栄だよ」
「本当?」
「ああ、本当さ。この間弟からもらった勲章よりもよっぽど嬉しいぐらいさ」
「それは光栄ですね」と意匠返しが帰って来た。彼女の笑顔は太陽のように眩しくて尊かった。
目の前で楽しげにダンスを踊るフランシェはすでに死んでいる。今の彼女は死体のままだ。その証拠に彼女の胴体と頭は分離し、10数年前に死に絶えた。
フランシュという少女は、ことアズネ国において短い間だが、「救国の聖女」と呼ばれていた。
彼女はもともと貴族学院に通う男爵の娘だった。
家はただの商家だったから、名のある貴族というわけでもなかった。
分相応という言葉の通り、本人はそれでもよかったのだろう。
とはいえ貴族にしてはマイペースな性格の善人だ。それでとても国の政に参加できるほどの我の強さもしたたかさも持ち合わせていなかった。
普段の学園生活も王族や上位貴族の子ども達の添えもののような印象の薄さ。つまり「聖女の儀式」を経て聖女として認められた彼女は、そういう人間のプライドを刺激する目の上のタンコブみたいになっていった。
彼女が聖堂で祈るだけで作物は豊作となり、他国との戦争に連戦連勝。
国土はどんどん広がっていった。
もしかしたら偶然の出来事が続いただけなのかもしれない。だが偶然も何度も続くと、少しずつ彼女を聖女と認めるものが現れだした。それと反比例するように彼女を疎ましい人間も増えていったのだろう。
いつしか彼女の奇跡が国王にまで認められた。アズネ国の王子の妃に選ばれるほどに。
男爵などの下位の貴族の令嬢がこのような待遇になるなど前代未聞だ。無論反発するものもいた。だが、これまで小国であったアズネ国にとって神頼みならぬ女神頼みに頼るほかなかったのだろう。
彼女がこの結婚に何を思っていたのかは分からない。
だが、この婚約を契機に彼女の人生は一変する。
よくない噂が流れ始めたのだ。
彼女のせいで王家に反対する勢力の貴族が亡くなったり、敵兵が軍の動きを知っていたり、世間的にみて不運なことが続いた。
前評判は覆った。次第に彼女の力を疑うものが現れ始めた。もともと目にみえる奇跡でもない。信じていたものも半信半疑だったのだろう。
だからたやすく人々は手のひらを返した。
やがて魔女と蔑まれるようになり――
その行き着く先に彼女にどんな未来が待ち受けるのか、だれだって想像がついたことだろう。
彼女が処刑台にあがるという未来が。
これがぼくが調べ上げた、「聖女」と呼ばれた彼女が「魔女」と呼ばれるまでの遍歴だ。
あの日から数年――
処刑されたフランシェをぼくが蘇生させた。
王位継承権第1位の地位も蹴ったのも、外交官として働いているのも、彼女を蘇生させる方法を見つけるためだった。彼女のためにぼくはすべてを投げうった。
土葬されていた死体を盗んだのもぼくだ。
そして遠方の地でぼくは本物の「魔女」を探し出し、取引をして彼女を蘇生させた。
魔女の対価はぼくの寿命。ぼくは魔女の言葉にすかさず二つ返事で了承した。
その結果が今のぼくと彼女の不思議な関係だ。
だから、ぼくは今、彼女の死体と陽気に笑いあっているということになる。
ぼくは彼女と色んな国を回りながら仕事をする傍ら、もうひとつの目的を達成するために、まだ生きのびている。
「でも驚いたよ。君が付いてくると言った時にはどうしようかと思った」
ダンスを踊りながら、ぼくは彼女に尋ねた。そうはいったが、ぼくら2人は国王に黙ってお忍びで何度かこの国の観光地を訪れたことがある。まぁ役得だ。
「生まれ故郷ですからね、一応今どうなっているか気になるものでしょう?」
「何年かぶりのこの国はどうだい?」
「思いのほか何も変ってなくて残念でした。あの時から時間はゆっくり流れていて、なにも変わらない。きっと世界ってそういうものなんでしょうね」
それは真実ではなかった。アズネ国は少しづつ終わりに向かっている。ぼくがそう仕組んだのだ。
あと半年もすれば、この国はぼくたちの手中に収まる。今日社交界に出た貴族たちはこの国を見限っている。殆どがすでに仲間だ。あの場で知らないのはあの男とロイス、それと数人の古くからの貴族くらいだろう。
「ねぇ、復讐なんてやっぱりやめた方がいいですよ…」
飽きるぐらい踊り続けて、ふいに彼女がポツリと呟いた。踊りをやめてぼくから離れていく。
月明かりに照らされたぼくらの重なっていた影は、一度離れた。
「わるいけどそれは出来ない。あともう少しなんだ。もう少しですべてが片付く」
ぼくは息を整えながら、自分の気持ちを正直に答えた。本当にもう少しなのだ。もう少しで、ぼくが10数年間してきた行いが全て報われる。
あいつらに復讐できれば、その後ぼくはどうなってもよかった。たとえ報いを受けて、地獄に落ちようとかまいやしない。
「それでも、復讐は無意味です。今を生きる人間は、過去じゃなくて明日のために生きるべきだから」
「君は優しいね。自分を殺した相手にもそんなに寛大になれるんだ?」
ぼくは縫い後のある愛おしい彼女の細い首を撫でた。もちろん人の温度は感じない。
外気よりも冷たい感触が伝わってきて、ああ、彼女は本当に死んでいるんだと嫌でも実感する。普段どうしても錯覚してしまうのだ。彼女は今も生きていると。
それがたまらなくつらかった。
ぼくは自分の指に軽く力をこめる。
あの男が彼女を見殺しにしたとき――
ぼくは笑っていた。ぼくの心には世界に対するどうしようもないどす黒い憎悪と、歓喜だけがあった。
自分の心の奥の真っ黒な感情が、あの日芽吹いたのだ。
邪悪でおぞましい、この世の悪辣を鍋で煮たような感情が。
これで彼女を自分のものに出来るという独占欲と陶酔感。
愛する彼女の全てをぼくが握ることが出来る。誰からも必要もされなかった彼女の生命、生き方、尊厳、それらはぼくだけのものなんだ。ぼくだけがこの世界で彼女を必要としている。その日、彼女はぼくにとって永遠の存在になった。醜く折れ曲がった彼女への愛情が、心を満たしていった。
「私はあなたの心が壊れてしまわないか心配なんです。あなたは泣き虫さんだから」
気付けば、あの日のようにぼくの瞳には涙が伝っていた。
目の奥がいつもより熱かった。
「ごめん、ぼくは最低だ」
「いいの――だって私はあなたのそういうところが好きだから」
自分の右手に力が柔らぐ。彼女の不意をつく所が、ぼくはいつもずるいなと思っていた。
彼女は本当に聖女にふさわしい人間だ。それと比べて自分が醜くて嫌になる。きっとぼくは彼女の隣に立つべき人間ではないのだろう。ぼくはこの国の王様とひょっとしたら同類なのかもしない。
「じゃあダンスの続きといきませんか?」
「ああ、喜んで」
お互いが正面を向き、体と手を重ねて同じ動きを始める。それからあまった片方の腕で彼女の腰を抱きしめてステップを刻み始めた。彼女のおかげで、ぼくはダンスがずいぶんマシになった気がした。
フランシェの表情は、今はもう見えない。
彼女の真剣な横顔からは、彼女が何を考えているか検討がつかなかった。
ぼくを好きだといったが、本心からなのだろうか?
フランシェはぼくを恨んでいるのではないだろうか?
死んで、蘇って、それで救われたのだろうか?
いま幸せなのだろうか?
ぼくは今まで、怖くて彼女にいろんなことを聞くことが出来なかった。それを聞こうとするたびに、彼女に対する自分の熱が引いていくのを感じた。
ぼくは彼女に対して酷く興奮している自分と、それを冷ややかな目で見る冷静な自分がいて、そいつらがせめぎ合うのである。ようは負い目を感じているのだ。
聖女である彼女を蘇らせるという行いは、どれだけ冒涜的なことだろうか。ぼくは自然の摂理に反逆し、神の寵愛を受ける彼女の魂を穢した。それがどれほどおぞましいことか、わかっていない彼女でもないだろう。
だが……たとえ彼女が聖女じゃなくてもきっと同じ事をしただろう。
ぼくにとって彼女が本当に聖女だろうが、奇跡の力を持っていようが、そんな事はどうでもよかった。
あの日、10数年前にしたぼくの初恋。一目惚れだった。式典で始めて彼女と出会った刹那の時間。その時間はぼくにとって今も永遠なのだ。
だがぼくの心は、今はもう何も感じない。
ぼくの心はきっと彼女が死んだあの日に一緒に殺されてしまったのだ。
復讐を終えるまで、ぼくの心は死に絶えたままなのだろう。
蘇った彼女と違って。
だけど、彼女と一緒にいるときだけは、ぼくは復讐心を忘れることができた。
彼女さえいれば、それだけで幸せだと感じる時がぼくにはあった。
いつか復讐を終えた先に、ぼくがまたそう思える日々が戻ってくるのだろうか?
ぼくの横にはいつも彼女がいて、日溜りの中で二人でテーブルを囲み、紅茶の入ったカップを片手に、お互いつまらない話で笑うのだ。
「どうしたの?わたしの顔に何かついていますか?」
彼女の横顔を眺めていることに気付いたのか、フランシェは、はにかみながら微笑んだ。
その姿が何よりも愛らしくて――やっぱり彼女はちょっとずるいなと思ってしまった。
それからぼくらはまたダンスに集中した。
殺されてしまった過去の2人に思いを馳せて、ぼくらはくるくる踊り続ける。
いつか、終わりを迎えるその時まで。