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むかえごと 後編

 ご案内できるのはここまでです、と言う案内人にお礼を伝えると彼はぺこりと頭を下げた。

「ではまた、年が巡りましたら」

 それだけ告げてきた道を戻っていく。そういえば、わたしは帰り道がわかるのだろうか。と一抹の不安がよぎったが、まさかここで待っていてくれないかとも言えない。秋の訪れのような色をした彼が、新緑の世界を立ち去るのを眺めていた。小さな姿はすぐに見えなくなり、ひとつ大きなため息が漏れる。行かなければ。水中を白い線がまっすぐ中央の島まで伸びて、わたしを待っていた。

 リュックから長靴を取り出して履き替える。父から聞いておいて良かった、と思う。適当で調子のいいことばかり言う父だが、必要なものや手順はしっかりと教えてくれていたようだ。葉が擦れる音と、どこか遠くから聞こえる鳴き声が占拠する世界を、水音が図々しくかき分けていく。不思議なことに冷たくは感じない。水嵩は随分浅くわたしの脛半ばに届かないほどだったが、数歩脇に逸れると一気に深くなるらしくずいぶん遠くの底の方で水草が揺らめいているのが見えた。向かう小島には枯れ枝に覆われた小さな丘があり、足元の白い砂利を確認しながらそこに向かって歩く。

 水中だけでなく森の中も参道を白く表してくれていたらいいのに。そこまで考えて、はたと道中を照らしてい光を思いだした。歩くたび足元から舞い上がっていたそれは、白ではなかったか。そして、先ほど道を踏み外し尻もちをついた時、それらが現れた記憶がない。地続きの苔だというのに。もしかして参道の役割を果たしていたのは、あの胞子だったのではないか。


「参道は白色だ」


 今更父の言葉を思い出す。前言撤回。もっと分かりやすく伝えてほしかったと、無事帰宅したら言わせてもらおう。呑気に笑う姿が容易に想像できるけれど、しかし腹の虫がおさまらない。わたしの隣をすいと泳ぐ朱色の魚が父と重なってその姿にも腹がたつ。怒りに比例して足の運びが雑になり、水音が大きく響いて魚は身を翻して姿を消した。ようやく岸にたどり着いた時にはせっかく履いていた長靴の中もぐっしょりと濡れそぼっていた。

 こんもりと生い茂る苔を濡らしながら島に上陸する。陽の光がわたしの首筋を撫ぜた。リュックを適当な場所に下ろして長靴から神事のための烏皮履(うひり)に履き替えて、明衣をはおり帯を締める。足からしんしんと冷えが伝わってくるけれど、この際気にしないことにした。相手も気にしないでいてくれたらいいのだけれど、そういうわけにはいかないだろうか。

 たどり着いた島は直径五メートル程しかなく、大きめの砂山とも、小ぶりな丘ともつかぬものが中央に鎮座しているだけだった。枯れ枝と葉がこんもりと積もっている。その周囲をぐるりと歩いても目的の相手が見つからず、歩きづらい靴を履いていたのもありわたしは足を止めた。このまま待っていたら訪れるのだろうか、それとも間違えたか……。父から言われていたことを頭の中で反芻したけれど、ここ以外では考えられない。そもそも先ほどまで案内してもらっていたのだ。間違えようもない。

 自分を導いていた道が、水面と一緒に揺らいできらめく陽光と踊るのをしばらく眺めていると、背後でがさりと枯葉が踏みつけられるような音がした。まさか反対側から上陸したのか? 慌てて振り向くと、先ほどまで丘だと思っていたものが一回り大きくなり、纏っている枯れ枝の隙間から小さな双眸がこちらをじっと見据えていた。

「ひっ……」

 叫び声が喉で詰まって声にならない音が漏れた。新月の夜をたたえたその二つの瞳はわたしから目を離さない。がさり。大きな音と共にさらに大きく膨らんだかと思うと、枝葉がけたたましい音を立てて落ちる。砂埃と共に目の前に現れたふたつの穴から生ぬるい風が吹いて、髪と帯が揺れた。それが鼻だということに気付いた時には、巨大な猪と対面していたのだった。

 ゆっくりと立ち上がったその姿は大きいなどと簡単に言えるものではなく、円筒形の鼻はわたしの顔程もある。四肢や身体にはところどころ苔むしているようだった。太陽を背負い立っているためはっきりとは見えないものの、それがさらに畏れを増した。なにも言えず茫然と立ち尽くしていたことに気付いて慌てて顔を下げたが、時すでに遅しとはこういうことで。ふ、と空気が動いたことがひどく怖くてわたしは思い切り目を瞑った。

「あれほどの音をたてながら来ておいて、今更怖いというか」

 笑いを含んだ面白がっているような声が降ってきて、思いのほか怒っているわけではないということに驚いて顔をあげて、急いで視線を地に落とした。わたしの正面には変わらず鼻孔がある。思いのほか獣臭さはまったくなくて、初夏の新緑のような匂いが風と共に周囲を包んでいた。

「はじめてお目にかかります。ご挨拶もせぬまま、大変な無礼を」

「もうよい、顔を上げよ」

 もう二度も直視しているのに、改めて言われるとなんとなく躊躇してしまったが、顔を上げろと言われて従わないわけにもいかない。視線が絡め取られて吸い込まれそうだ。覚悟をしてきたつもりだけれど、やはり実物を目の前にするとそれも揺らぐ。しかし今更やめるわけにはいかないのだ。

「父上のことは、既に使いのものから聞いている。今は息災に暮らしているとのことであったが、確かか」

「ご心配ありがとうございます。すっかり元気ではありますが、腰を痛めてしまったため長距離での移動は厳しいかと。今は鶏や羊の面倒をみて暮らしております」

 そう答えると、猪はくつくつと笑う。身体が大きいだけに、それだけで島全体が揺れているような錯覚を覚えて思わずよろめいた。慌てて足に力を入れる。

「あの男が羊の面倒とはのう。分からんものじゃ。おぬしが来た時よりも、ずっと騒がしかったのをまだ覚えているというのに」

「は、あ」

 父からそういう話は聞いたことがない。毎年のむかえごとをスマートにこなし、最初からそつなくこなしていたと聞いていたが。それを伝えると耐えられなくなったらしい猪は身体を震わせて咆哮をあげた。小鳥が一斉に飛び去っていく影だけが遠くに見える。それが笑い声だということに気付くまでにそれほどの時間はかからなかったけれど、彼女と共に世界が震えるのをわたしはしばらく耐えなければならなかった。

 ようやく落ち着くころには生きているもの全てが世界から消えてしまったようだった。虫が草の上を歩く音すら聞こえない。

「おぬしより余程臆病で大雑把で、そのくせ不躾な男だったが。子には言えなんだか」

「そういう話は聞いておりませんね……」

 リュックから水の入ったペットボトルと大麻(おおぬさ)を取り出す。静かな今のうちに済ませておいた方が良さそうだ。まだ小刻みに震える猪のおかげで足元はおぼつかなかったが、必要なものを取り出すと立ち上がり、袴についた木の葉を払い落とした。頭からペットボトルの水を被り清め、決まった場所に残りの水を落とす。


「では始めましょうか、年神様」


 神事は滞りなく終わった。幼いころから何度も父の姿を見て、自分でも練習していたのが功を奏したのだと思う。終了と同時に猪、もとい年神様は枯れ枝の塊ではなく艶のある体毛に覆われていた。ゆるやかに身体を動かすと梅の香りが広がる。初春の気配に、いつの間にか戻ってきた鳥たちが色めき立つ。

「十一年待つことは、慣れているがやはり身体には堪える」

「そうでしょうね」

 大仕事を終え安堵したわたしは、片づけをしながら相槌を打つ。年神様は再び小さく笑った。それは既に世界を揺らすものではない。リュックも少し軽くなり、残りは帰路につくだけだ。年神様とはもっと厳かで近寄りがたい人だと思っておりました。思わずそう言うと、鼻先で蝶をあしらいながら猪はふんと鼻を鳴らした。

「それは十二年続けてから言えばよい。いいか、虎の巻など存在せんのじゃ。己の身で確かめ、己の目で見ることを大切にせえ」

「……はい。覚えておきます」

 軽はずみな発言だった。しかし初めての仕事としては、十分な出来だったと自負している。わたしはリュックを背負い、長靴に履き替えて改めて年神様に向き直った。苔むしていた地面からは、新芽が早くも顔を出している。蝶が飛びまわり、来た時に比べて命の息吹がそこかしこに感じられた。

 これが、わたしの仕事なのだ。

 案外いいものかもしれない。新しい年を迎える大切な役割のひとつを、わたしは担っているのだと思うと来た時とは一転口元がほころぶのが分かった。改めて周囲を見渡す。島の周囲は泉に囲まれているため、先ほどまで覆われていた空がよく見えた。頭上を大きな翼をもつ生き物が飛んでいて、目を細めた。竜だ。数年後に思いをはせる。悪くないような気がした。

はじめまして。読んでいただき、ありがとうございます。このお話は新年に合わせて書きたかったのに、気が付いたら旧正月の時期に書きあがった小説です。

本文中に、十二支が全て出てきます。見つけて下さったなら、嬉しいです。

皆様にとって、良い年になりますように、との願いを込めて。

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