第九十八段 日嗣御子
「兄は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。弟は天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊にます」(『先代旧事本紀』)
忍穂耳は日嗣御子と呼ばれていた。
天照と素戔嗚の誓約で生まれ、妣国への衝迫を最も濃く受け継ぐ彼は、天津神でありながらもそれに拘りがなく、高天原・葦原中国・根国を統合する象徴になり得るとされていたからだ。
ところが、そのような忍穂耳が別天津神の娘である妻の千々姫と天降るのにも拘わらず、それは秘密裏に進められていった。
天照たちは葦原中国を狂わせた黒い水が空亡に由来するのではないかと踏んでいた。
それゆえ、忍穂耳たちの天降りは秘かに行われなければならず、盛大な見送りなど以ての外だった。
黒い水を調査する任務は、誰にも漏らしてはならず、それは子どもたちに対しても当て嵌まった。
ただし、天降る前に一度は子どもたちに会っておくよう天照は忍穂耳と千々姫に言った。
「不審に思われてはならんが、天降る前に出来る限り子どもたちに時間を割いてやれ。あやつらが葦原中国へ降っても直ぐに再会できるとは限らんからな。葦原中国を無策のまま放ってはおけぬゆえ、下手をすればお主たちとあやつらの任務は同時に進行せねばならん」
空亡がらみの調査であるゆえ、何が起こるか分からなかった。
黒い雨の影響はどこまで及んでいるか分からない。
様々な地域を渡り歩いて情報を集めるには忍穂耳と千々姫が最適だった。
また、国譲りにおける忍穂耳たちの独断専行を見過ごすわけにも行かず、その落とし前を付けさせねばならなかった。
天照は高天原の主宰神として忍穂耳に下した判断を変えるつもりはなかったが、彼に最後まで居場所を与えられなかったことを悔いてもいた。
「お主にも苦労を掛けるな、千々姫」
千々姫に至っては、夫に巻き込まれたようなものだった。
「お父さんがあの子たちを天降らせるんだから仕方ないよ。余り甘やかすのもいけないんだろうけど、やっぱり無茶はさせたくないからね。親心ってゆうやつ?」
「俺らみてえのが親を気取んのもおかしな話だけどよ」
苦笑する忍穂耳と千々姫に天照は複雑な表情を浮かべた。
「親の因果ってのはどう働くか分からねえもんだな」
忍穂耳と千々姫がそうであるがごとく天照もまた親の影響に強く拘束されていたとも言えた。
皆が否応もなく、好き嫌いとかそれ以前の問題として親の影響に曝されていた。
忍穂耳は天照を親と実感することはなかったが、その点は共感していた。
「あいつらのことは頼んだぜ?」
「祖母としての甲斐性をあの子たちに見せてあげてよね?」
「任せろ。私を誰だと思っとるんじゃ」
寂しげな表情をしながらも天照は力強く頷いた。
◆
忍穂耳と千々姫は子どもたちと別々に暮らしていた。
それは子どもたちが祖父の高皇産霊から気に入られていたためで、彼らは穴宮で無精な両親と共に過ごすのではなく、高天原の地上で厳しい修行に励んでいた。
忍穂耳と千々姫が訪ねた時、二人の子どもである饒速日命と瓊々杵尊は修行のために与えられた宮で組み手を行っていた。
もっとも、それは互角のものではなく、兄の饒速日が弟の瓊々杵に稽古を付けてやっているようなものだった。
饒速日は最低限の基本動作で瓊々杵をいなしていた。
瓊々杵は必死に突きや蹴りを繰り出したが、饒速日に軽く凌がれた。
汗一つ掻いていない饒速日は、長く伸ばした金髪の毛先をきっちりと切り揃え、赤い服もしっかり着こなしていた。
対する瓊々杵は跳ねた金色の髪を短く切り、緑の水干は汗でぼとぼとだった。
もうすっかり成長して青年になった饒速日と比べ、瓊々杵はまだまだ見た目も幼く、顔は女の子のように可愛かった。
そのような面差しに疲労の色を浮かべながらも瓊々杵は饒速日の隙を窺っていた。
すると、饒速日が忍穂耳と千々姫に気付き、わざと隙を作った。
瓊々杵がそれに食い付いて饒速日に突きを放った。
饒速日はそれを片腕で捌き、もう一方の手で掌底を喰らわせ、怯んだところに蹴りを入れた。
しかし、瓊々杵は直ぐさま構えを取って防御し、饒速日が続けて振り下ろした手刀も防いだ。
それを逆転の好機と見て彼は兄に拳を撃ち込んだ。
だが、饒速日はその手首を捉え、捻って相手の体勢を崩し、腹部ががら空きになった。
そこを饒速日の指が軽く突いた。
実戦ならば急所をやられており、瓊々杵もそれを悟って構えを解いた。
「俺たちのせいで早々に切り上げさせちまったようだな、饒速日」
「瓊々杵、前よりも動きの切れが良くなったね!」
「父さん、母さん!?」
饒速日との組み手に集中しきっていた瓊々杵は、そこでようやく忍穂耳と千々姫に気付いた。
◆
じゃれるように千々姫が瓊々杵に抱き付いた。
「いやあ、息子の成長が見られて嬉しいねえ。身長は低いままのようだけど」
「ちょっ、母さん! 今は汗掻いてるから!!」
「じゃあ、久々にお風呂一緒に入ろっか」
「母さん!」
見かねた饒速日が口を挟んだ。
「母よ、余り弟をからかわないでくれ」
「でも、汗は洗い流さないといけないでしょ。瓊々杵を相手してた饒速日だってそうじゃない。みんなでお風呂に行こ?」
「……入浴は絶対に別々だからね」
最終的に瓊々杵も折れた。
恥ずかしがる瓊々杵と手を繋ぎ、千々姫は意気揚々と風呂場に向かった。
それを見守る忍穂耳に饒速日が問い掛けた。
「それで、どのような用件でここに?」
「気紛れだよ」
そう答えて忍穂耳は煙草を咥えた。
饒速日の表情は変わらず、彼が忍穂耳の回答に満足したか分からなかった。
ただ、饒速日はそれ以上の問い掛けはしなかった。
典拠は以下の通りです。
天之忍穂耳命が葦原中国へと天降る:『鎮西彦山縁起』
饒速日命が瓊々杵尊の兄に当たる:『先代旧事本紀』




