第九十七段 邪神
百八十神の中には穴牟遅が国を譲っても服従せず、地方で抵抗を続ける者がいた。
そうした百八十神は、国譲りの約束に横車を押す邪神とされた。
そのような邪神の平定するため、高天原は建御雷と経津主を派遣し、葦原中国の兵法を出雲から学んだ二人は、草木や石のように詰まらぬ者であっても見逃さずに誅伐した。
しかし、中には強かな邪神もおり、天津甕星は逃げ回って容易に姿を現さなかった。
元々、甕星は天津神であったため、建御雷と経津主の恐ろしさは聞き知っており、正面から挑むような愚を犯さず、神出鬼没の抵抗を行った。
地の利がない建御雷と経津主はそのような甕星の戦術に手こずらされた。
二人が塩土老翁なる国津神と出会ったのは、甕星を追跡していた時のことだった。
塩土は枯れ果てた老人のように体が痩せ、白装束をぞろりと着流し、赤色の長髪からは閉じた眼が覗いていた。
海辺の岩場に坐していた彼は、甕星の情報を収集していた建御雷と経津主が問い掛けてくると、口の端に笑みを浮かべながら答えた。
「ああ、その神人なら知っている」
「本当か!? 何でもするから早く教えてくれよ!」
「安請け合いをするな、経津主。真偽のほども分からんと言うに」
手掛かりにはしゃぐ経津主を建御雷が窘めた。
「慎重なことだ。まあ、俺の話を信ぜずとも良し。潮の流れに乗れば、奴もお前たちも同じところに流れ着き、嫌でも顔を合わせる」
謎めいた言葉に建御雷と経津主は訝しんだが、塩土はへらへらし笑うばかりだった。
◆
甕星がいるであろうと教えられた場所に向かうため、建御雷と経津主が立ち去ると、残された塩土は感嘆の溜め息を漏らした。
「勢いの盛んな稜威を間近で感じるのは、やはり良いものだ」
そう嘆じて彼は後ろを振り向いた。
「お前たちもそれそのものになれて幸せだろう?」
視線の先にいたのは八十神の残党だった。
穴牟遅の謀略に利用されていた彼らは、国譲りの後に行方を眩ましていた。
そのような者たちが塩土に話し掛けられ、岩場の陰から出てきたが、建御雷と経津主が近くにいながら、彼らに気付かなかったのは奇妙だった。
いや、不審な点はそれだけに限らず、八十神の残党は様子もおかしかった。
皆が一様に夢見心地といった風で、塩土に返事をすることもなく、人形のように突っ立っていた。
それを塩土も気にしなかった。
「そうかそうか、嬉しいか。喜んでもらえて俺も幸せだ。あの建御雷と経津主でさえ気付かぬほどに、お前たちの存在を俺の天地に溶かし込んだ甲斐がある」
自分に都合の良いように解釈して塩土は微笑んだ。
「いずれ皆もお前たちのようになってくれたら。そして、その波があらゆる天地にも及ばんことを。高天原の猛き武神たちよ、日高見で甕星と出会うように運命なる潮の流れを操ってやったのだから、どうかその常世を八洲に引き込んでくれ」
塩土の瞼が開かれ、旭日のように輝く赤目が現れた。
「沼があらゆるものを呑み込むように全てを造り変えようではないか」
如来たちの目を欺くため、国津神に擬態した空亡が遂に葦原中国へと降り立った。
◆
甕星を日高見で見付けると、甕星の側にいた倭文神と建葉槌命が建御雷と経津主に投降し、甕星も高天原の軍門に降らざるを得なかった。
倭文と建葉槌も元は天津神で、高天原への未練が甕星よりかはあった。
邪神の平定を完了した建御雷と経津主は、高天原に帰還して天照たちに報告した。
すると、天照は忍穂耳と千々姫を呼び寄せて告げた。
「忍穂耳、千々姫、これよりお主たちには葦原中国に天降ってもらう」
「老いらくの恋で頭が茹だったのかよ?」
可愛げがこれっぽっちもない息子の返答に彼女は頬をぴくぴくさせた。
「言い方はともかくとして忍穂耳の意見ももっともだと思うよ。このぐうたらを葦原中国に天降らせてどうするの?」
「人のこと言える立場かっての」
「私の場合は君と違って体力を効率良く使ってるの」
「好い加減になさい」
笑顔でどすを聞かせた神皇産霊の一言に忍穂耳と千々姫は大人しくなった。
「お主たちに穂日のごとく国を治めろとは言わん」
「もしオレにまた何か手柄を立てさせようってつもりならお断りだぜ?」
「いや、責任を取ってもらうのが目的じゃ。私が気付いていないとでも思ったか? お主と穂日が出雲で仕組んだことに」
天照の鋭い眼差しに忍穂耳はぞくりとした。
「もっとも、私にも任命した責任があるがの。また、千々姫が異変を感じ取った例の黒い水は、私たちも懸念を抱いておる。じゃから、全面的に支援するゆえ、お主たちには葦原中国で黒い水の調査してほしい」
「拒んだら高天原から追い出しでもするってのか?」
「それぐらいでは高天原や八洲などどうでも良いお前を本気にはさせられんだろう」
高皇産霊が心から楽しそうに獰猛な笑顔を見せた。
千々姫が忍穂耳の手を握った。
父親がそのような笑顔を見せた時は、大抵、碌でもないことが起こった。
「回りくどい言い方はアンタの流儀じゃねえだろ?」
「そうだな。別に隠し立てすることではない。なに、お前たちの子どもを葦原中国に天降らせたくてな」
無言で高皇産霊に詰め寄ろうとする忍穂耳を千々姫が必死に止めた。
「精々、露払いをしてやれ。まあ、俺は娘も婿も孫たちも、やれば出来ると信じているがね」
忍穂耳と千々姫の間には二人の息子がいた。
そのどちらも高皇産霊は気に入っていた。
その危険性に無関心を貫けるほど忍穂耳も息子たちに冷淡ではなかった。
典拠は以下の通りです。
建御雷神と経津主神が邪神を誅伐し、倭文神と建葉槌命ともども天津甕星を服従させる:『日本書紀』
経津主神たちが葦原中国の兵法を伝えられる:『新当流兵法書』
塩土老翁が建御雷神と経津主神を先導する:『鹽竈社縁記』




