第九十三段 国譲り
美保之碕に向かう直前、穴牟遅は大年らに使者を送り、自身の投降と引き換えに停戦を申し入れていた。
大年はそれを受諾すると、未だ進軍している大物主のところに直ぐさま赴いた。
油断ならぬ大物主が国譲りの混乱に乗じ、出雲の領土を掠め取るかも知れなかったからだ。
そして、実際、大物主は占領を進めていた。
「約束が違うんじゃないのかい?」
その行く手に大年は兵を引き連れて立ち塞がった。
「穴牟遅が位を退いたようだけど、その領地を国津神だけで治めるのは大変だろうから、分担してあげてんのよ」
大物主に悪びれたところはなく、大年は呪能を発動した。
年の力を神として祀る彼は、時間の加速によって物質を急激に老朽化させられ、大物主の率いる魑魅魍魎を朽ち果てさせた。
それでも、彼女に付き従う他神らには効果がなく、どちらもそれで引こうとはしなかったので、両軍の激突は必至だった。
ところが、第三の勢力がそれを止めた。
「どちらとも矛を収めてもらおうか」
高皇産霊が双方の間に天降ったのだ。
「穴牟遅も広矛を献上し、戦いに幕を引いたのだ。その心を汲んでやれ。もっとも、俺を楽しませたいのなら話は別だがな」
剣呑な笑みを浮かべ、高皇産霊は両手を光らせた。
それには国津神と他神も従わざるを得なかった。
そうして以前のように他神の自由を保障するという条件で大物主たちは大和へ帰っていった。
ただし、大物主が抜け目なくまた策動しないよう高皇産霊は娘の三穂津姫命をお目付役として連れ合わせた。
これにより出雲から大和にかけては安定した。
しかし、大物主の絡みで早急に対応しなければならない問題はまだ存在していた。
◆
但馬では未だに第六天が荒れ狂っていた。
日槍たちが食い止めていたが、押し返すまでは至っていなかった。
客人として但馬に滞在していた天王たちも、日槍たちに加勢していたものの相手が悪かった。
「こりゃ巨旦よりも厄介だな」
「ええ、あれ以上のことがあるとは思いもよりませんでした」
天王の嘆きに淡島が頷いた。
二人が話題に挙げているのは、巨旦将来という夜叉のことだった。
それはまだ素戔嗚が曽尸茂梨にいた時の出来事で、蘇民将来なる夜叉が弟を助けてほしいと頼んできた。
夜叉とは怪人の天人で、一般的には天竺にいたが、巨旦と蘇民の兄弟らはそこに馴染めないで曽尸茂梨へ流れてきたのだ。
その間に巨旦は力が荒れ狂って黄泉神のようになってしまった。
天王は淡島と素戔嗚だけではなく、妻との間に儲けた八人の子どもたちとも協力し、やっとのことで巨旦の力を分解した。
巨旦は他神として落ち着き、その骨肉からは紅白の鏡餅が、皮膚からは蓬の草餅が、頭髪からは菖蒲の粽が、筋からは小麦の素麺が、血液からは黄菊の酒が生じてそれらの力を祀る神人たちが現れた。
そうして一件落着し、巨旦の娘たる乙姫女郎が天王の勇姿に恋をして淡島が焼き餅を焼くという後日談もあった。
そのように最後は笑い話で終わったが、戦いそのものは決して生易しくなかった。
そして、第六天の幻力は巨旦のものよりも遙かに悪辣だった。
「丸腰で自分の武器に立ち向かわされるとは酷い話だ」
第六天が司る天の法は、煩悩の力を制した。
彼は周囲の者から能力を略奪し、自分の能力に追加させられ、能力を奪われた者は、それを使えなくなった。
略奪できる能力に制限はなく、幾らでも奪って好きに用いられた。
もっとも、第六天に他者の能力を理解しようとする気はなかったので、無闇やたらに振るうばかりであって能力の真価が発揮されることはなかった。
また、他者の能力を持っているのが厭わしく、幻力を解除して相手に投げ返すこともあった。
ただ、そうであっても能力を奪われた天王たちには呪具を使用するくらいしか基本的に反撃の手段がなく、周りに及ぶ被害を抑えるのがやっとだった。
◆
神皇産霊が強い口調で言った。
「そんな馬鹿げたことを口にするのではなりません」
対する天照も強気の姿勢を崩さなかった。
「たとえ神魂の義母上がそう思おうとも私の考えは変わらん」
天照と神皇産霊が言い争っているのは第六天の件だった。
彼のことは高天原にも伝わっており、何とかしなければならないということは天照たちも意見が一致していた。
ところが、それについて天照は自ら出向くと述べたのだ。
「穴牟遅という権威が崩れ、葦原中国は混乱した状態にある。そのようなところに高天原の権威を受け入れさせるには国譲りの誓いだけでは足りん。主神たる私が自ら葦原中国の脅威を取り除くなどして威厳を示さねば、心からの承認は得られんじゃろ」
「貴方が失敗すれば逆に高天原の権威が損なわれ、今までの努力が無駄になってしまうんですよ? それに、もし貴方の身に何かありましたら高天原そのものが揺らぎます。そのようなことも分からない子に育てた覚えはありません」
「私の呪能くらいしか奴の幻力に対抗できるんじゃろう。ならば、奴を止めるのは私の責務じゃ。主神としての責務から逃げてはならんと私は神魂の義母上から学んだ」
神皇産霊は言葉に詰まった。
第六天が相手の能力を略奪することも天照たちは聞いていた。
少なくとも神人の中でそれに対抗できるのは、他者の力と同調できる天照の呪能だけで、それならば第六天に奪われても繋がりを保って能力を行使できた。
「私の命令で忍穂耳や穂日、稚彦、建御雷、経津主、皆が懸命に責務を果たそうとした。その私が責務から逃げて良いはずがなかろう……。逃げた自分の代わりに誰かを行かすなど私には出来ん!」
穴牟遅がどのように国を譲ったかも、天照は建御雷と経津主から報されていた。
譲られた身としてそれに恥じぬようあらねばならなかった。
踏みにじってしまった想いに報いるにはそれしかなかった。
典拠は以下の通りです。
高皇産霊尊の娘である三穂津姫命が大物主神と連れ合う:『日本書紀』
素戔嗚尊と蘇民将来および巨旦将来に関わりがある:『備後国風土記』
夜叉たる巨旦将来の骨肉からは紅白の鏡餅が、皮膚からは蓬の草餅が、頭髪からは菖蒲の粽が、筋からは小麦の素麺が、血液からは黄菊の酒が生じる:『祇園牛頭天王縁起』
巨旦将来の娘である乙姫女郎が牛頭天王に恋をする:「天刑星の祭文」




