第九十一段 言向け
呆けたような表情で須勢理が夫の名を呟いた。
「穴牟遅……」
「後は俺に任せろ、須勢理」
かつて妻に夢を語った時と同じ横顔で穴牟遅が告げた。
それが懐かしくて嬉しくて安心できて。
須勢理は穴牟遅の袖をぎゅっと掴んだ。
「……遅いんだよ、莫迦」
「すまなかった」
穴牟遅は須勢理に侘び、それから、事代主らの方を振り向いた。
「お前たちにも苦労を掛けたな」
「お頭!」
「ここは引いてくれ!」
「私たちが食い止めるからその間に!」
須勢理さえ建御雷たちに歯が立たなかったのを見た彼らは、口々に穴牟遅が撤退することを求めた。
「親孝行をしてくれるのは嬉しいが、そう過保護になってくれるな。天詔琴で奴らのことは聞いた。俺なら奴らをどうにか出来る」
穴牟遅の手には越の八口など諸国の平定に用いた広矛が握られてあった。
「事代主、建御名方、それに、八坂刀売……お前たちを時間稼ぎなどという、小賢しい策に用いたこと、本当にすまない。俺の視野が狭くなっていた……俺は余りに思い上がりすぎていた。出雲を支えているのは俺だと」
自分さえいれば、どんな逆境からでも出雲は甦られるのだと。
「しかし、この出雲は俺が一人で造った国じゃない。須勢理がいて、お前たちがいて、その皆に支えられて、俺は出雲を造ってきたんだ。お前たちがいなければ、俺は呪能が少しばかり強いだけの、ただの国津神に過ぎなかった」
そう詫びて穴牟遅は妻子に微笑んだ。
「お前たちがいるからこそ、俺は大国主になれた……」
それから、彼は建御雷と経津主の方を振り向いた。
「汝も我らと戦うつもりか」
「ま、相手の大将を堂々と打ち破れば後腐れもないだろ」
穴牟遅に向かって建御雷と経津主も刀剣を構えた。
「ふん、天津神ども」
それを穴牟遅は鼻で笑って須勢理を降ろした。
「ようく思い知るがいい……この大国主の戦いを!」
そう言い放って彼は呪能を展開させた。
◆
建御雷と経津主も穴牟遅の呪能は聞いていた。
位置の情報を改竄して物体を瞬間的に移動させる。
確かにそれは驚異的な呪能で、建御雷だけなら苦戦していただろう。
自他を瞬間的に移動させられては雷の刃は届かず、雷光と化しての高速移動も無意味だった。
しかし、どれだけ強力な呪能を有してもそれが個の強さである限り経津主に封じられた。
建御雷が攻め立てている間に経津主が相手の動きを見切り、それを斬り捨てて雷の刃に討ち取らせれば良い。
「御大層な能書きの割に、切れの悪い動きじゃねぇか!」
経津主が穴牟遅と斬り結びながら煽った。
彼女が言う通り事代主たちや須勢理と比べ、穴牟遅の動きは彼らほど優れていなかった。
それでも、煽り立てて相手の動揺を誘おうとしつつ、経津主は決して手を抜かなかった。
「経津主、お前がどこに動こうとも、俺はその居所を置き換えられるのだぞ」
「はっ……オイラの前では無意味だし、決定打に欠ける呪能だしねぇ」
敵の大将であるからこそ完全に勝利しなければならない。
穴牟遅の動きは見切った。
後はそれを斬り捨て、建御雷が渾身の一撃を放てば良かった。
呪能を発動して経津主は穴牟遅の動きを斬り捨てた。
これで穴牟遅は建御雷の攻撃を避けられぬ。
勝敗はここに決した。
「だから、お前は匹夫なのだ」
ところが、穴牟遅の動きは斬り捨てられなかった。
◆
経津主はその現実を信じられなかった。
修行を始めた頃は、未熟さゆえに呪能が発動しないこともあった。
しかし、それとこれはまるで違う。
確かに経津主は呪能を振るった。だが、穴牟遅の動きに干渉できていない。
見切った可能性を斬り捨てる。
それが己の呪能ははずであるというのに。
驚きに強張る経津主に、穴牟遅は余裕たっぷりの笑みを見せた。
「俺の呪能はこの世の裏側にまで及ぶ。この世において顕わとなる出来事は、裏側の冥々なる力に支えられている。今、俺はこの世に穴を開け、裏側の力に呪能を及ぼし、お前たちの動きへ働き掛けられるようにした」
「っ!?」
経津主の呪能はこの世界での運動の因果に作用した。
だが、穴牟遅の呪能はその穴を衝き、世界の根源から効果を及ぼしたのだ。
呪能の権限は穴牟遅の方が上位にあった。
「……ここまで強大な呪能だなんて、思兼も読みを誤りやがったな?!」
知恵者として国津神にもその名を知られる思兼は、穴牟遅の呪能についても細部まで調べ上げ、建御雷たちに伝えていた。
「知の神人が知らぬのも無理はなかろう。全力を出すのは俺も今が初めてだ」
「じゃあ、今までのは全部、こちらを侮ってたってことかい? はんっ! 大国主様様だね!!」
「いいや、家族のことを思い遣れていなかった、俺の不徳の致すところだ」
穴牟遅の自嘲に経津主が訝しんだ。
「お前たちの勘違いは呪能のことだけではない。誰が俺だけで戦うと言った。確かに後は任されたが……お前たちの相手は出雲の帝王たる大国主だぞ? それがお前たちごとき匹夫と同じ戦いをするとは、実に見くびってくれたものだ」
強力な建御雷と経津主の動きを封じながら、穴牟遅は不敵な笑みを浮かべた。
典拠は以下の通りです。
大穴牟遅神が越国の八口を平らげる:『出雲国風土記』




