第八段 産霊
伊邪那岐が激昂しても国之常立は座したまま退屈そうにしていた。
「ならば、どうして流された?」
「えっ……?」
「卿が伊邪那美の想いに答えを返さなかったのは、万が一にも自分と相手の気持ちが違っていたらと恐れたからではないのかね? 成り行きに任せることで責任を全て相手に押し付け、自分は旨みだけを得ようとした。それを卑しいと思わんとはな」
言葉に詰まって伊邪那岐は突っ立った。
自分は天才肌の伊邪那美に劣等感を抱き、彼女のすることに間違いはないと思い込んでいた。
しかし、それによって全てを妻である妹に丸投げしていたのではないか?
その癖してさも最大の理解者のように振る舞って恥じない。
己は夫や兄ではなく、親の脛を囓りながら、一人前のようにしたり顔をしているガキだ。
それでも──
伊邪那岐の脳裏に様々な伊邪那美の姿が蘇った。
いつもこちらの心まで温かくしてくれるような笑顔や世界への尽きぬ好奇心に輝く表情。
それに、愛ゆえに傷付きながらも彼に気取られぬよう悲しみを押し殺すその背中……。
「……皆まで言わせるな」
礼を述べるように国之常立へ頭を下げ、伊邪那岐は御殿から走り去った。
◆
伊邪那美は川原で膝を抱えていた。
たまにそこの石を取り上げ、川に向かって投げた。
神人の能力を行使することもなく、石は川の水面を跳ねて遠くまで飛んだが、伊邪那美の気が晴れることはなかった。
(伊邪那岐に嫌われちゃったのかな?)
これまでずっと二人でことに当たってきた。
それが初めて伊邪那岐から断られたのは、自凝島での失態が原因で失望されたからか。
水蛭子と淡島のことで心身ともに疲れ果てていた伊邪那美だったが、伊邪那岐とのこともそれに劣らず彼女を苛んだ。
(もう何もかも分かんないや)
泣きそうになった伊邪那美は、膝に顔をうずめた。
伊邪那美が自由奔放に振る舞えたのは、才能に自信があったことに加え、伊邪那岐から大事にされているという自覚があったからだ。
自分には帰るところがあるという安心感が伊邪那美を支えていた。
「お腹でも痛いのですか?」
うずくまる伊邪那美に声が掛けられた。
伊邪那美が顔を上げると、神皇産霊が心配そうに覗き込んでいた。
少し離れたところに高皇産霊が興味深そうな表情で立ってもいた。
「外の空気を吸うのも良いですけど、余り無茶をしてはいけませんよ?」
表向き伊邪那美は水蛭子と淡島を死産して葦舟で水葬し、傷心を癒やすために伊邪那岐ともども帰郷したということになっていた。
高天原の神人たちは伊邪那美たちに同情的だった。
伊邪那美の朗らかさが周囲の心証を良くしたということもあったが、彼女は複製する能力の一つ一つに目を輝かせ、それに敬意を払った。
そのような伊邪那美を神人たちは好ましく思い、神皇産霊も彼女を可愛がっていた。
造化三神である神皇産霊の能力は伊邪那美であっても容易には複製できず、神皇産霊は伊邪那美の修行にしばしば付き合った。
伊邪那美も神皇産霊に憧れていた。
別天津神たる神皇産霊は力が玄妙なだけではなく、高皇産霊が天津神を生み出しているのに対し、国津神を生んで彼らから御祖と呼ばれていた。
御祖とは母親に付ける美称で、伊邪那美から見ても神皇産霊はその呼び名に相応しく慈愛に満ちており、神皇産霊のような母となるのが国産みを命じられた伊邪那美の目標だった。
そして、それ故に死産の傷心を癒やすのに帰郷したと嘘を吐くのが心苦しかった。
その苦しさが神皇産霊の心遣いに触れ、口を衝いて出た。
「ごめんなさい……」
震える声で伊邪那美は謝った。
「神皇産霊さまみたいなお母さんになれなくて、ごめんなさい……。いっぱいボクに教えてくれたのに……。ボク、神皇産霊さまみたいになりたかったのに……」
終いには嗚咽と化して言葉にならなかった。
それでも、師母として神皇産霊は教え子の伊邪那美が何を伝えたいか、本質的なところを掴んだ。
屈み込んで目線を合わせ、彼女はきっぱりと告げた。
「貴方はなれません」
「……!」
「貴方だけでは。母というのは何です? 子や父もなしに母である者などいないではありませんか」
伊邪那美の両頬に手を添え、神皇産霊は俯く彼女に前を向かせた。
「自分の力でなるのではなく、家族がいて彼らのおかげで母にしてもらうのです。ですから、一人で悩むのが貴方のすべきことではありません。彼へ会いに行きなさい」
「いや、向こうからやってきたぞ」
それまで黙っていた高皇産霊が口を挟むと、その言葉通り伊邪那岐が伊邪那美のところに駆けてきた。
◆
息を切らしながら伊邪那岐は伊邪那美の前で立ち止まった。
彼は両膝に手を突いて呼吸を整えた。
思わず立ち上がった伊邪那美は、涙で赤くなった目を見られたくなくて顔を背けようとしたが、神皇産霊からたしなめられて彼に向き直った。
「伊邪那美……」
「う、うん?」
「僕の……」
伊邪那岐は高皇産霊と神皇産霊の方を見たが、それは一瞬のことで、伊邪那美しかその場にいないかのごとく叫んだ。
「僕のお嫁さんになってください!」
伊邪那美の目が驚きに丸くなり、暫し沈黙のあった後、見る見る涙を溢れさせた。
「はい!」
「あらまあ」
神皇産霊は幸せそうに微笑み、高皇産霊は哄笑しながら光の矢を宙高く放って爆発させ、その祝福の花火は国之常立の耳目にも届いて、彼に笑みを浮かべさせた。
典拠は以下の通りです。
伊邪那岐神と伊邪那美神が高皇産霊尊と神皇産霊尊から祝福される:『古事記伝』