第八十五段 青柴垣
事代主が海の中から顔を出した。
しかし、それは一つではなかった。
依り代によって分身を何体も作り、どれが本物であるかを分からなくしていた。
だが、偽物も依り代を持っており、それを青柴垣に変えた。
柴垣は龍の顎門のように四方八方から建御雷と経津主へ襲い掛かった。
偽物が依り代を変化させた場合、本物がそうするよりも効果は薄まったが、そこは沼河姫の勾玉によって補われた。
「汝らの全力を見せろ」
そのような龍の群れに対し、建御雷は両手の剣を振るった。
依り代が変化した柴に触れると、そこから垣の中に呑み込まれてしまうのだが、建御雷の剣は青い閃光を放ち、刃が柴に触れる前にそれを焼き切っていった。
その斬撃はあたかも雷を振るっているかのようだった。
焼き切られた柴垣は依り代から離れるせいで呪力が通わず、本来ならば霧散する他なかった。
しかしながら、そうなるよりも早く建御名方が柴垣を液状化させ、八坂刀売がその一部を急激に高温化させて蒸気の爆発を起こした。
八坂刀売の呪能は生物の温度を操作できず、呪力ある者が触れているものへの行使も難しかったが、依り代は生命体に化けても無生物で、事代主が八坂刀売と呪能を感応させていた。
建御雷と経津主は龍の群れだけではなく、蒸気の爆発にも対処しなければならなかったものの、苦戦する様子を見せなかった。
建御雷は何ら感情の変化を窺わせず、雷の刃を振るい、経津主は蒸気の爆発も身軽に躱し、柴垣の龍に刀を突き立てた。
その切っ先は龍の核である依り代を的確に貫いた。
「少し賑やかになったくらいじゃ変わらないって」
核を破壊された柴垣の龍は、それだけで呆気なく霧散した。
的確に核を攻撃するのは、決して容易なことではなく、却って呑み込まれる危険があった。
けれども、経津主はどこが核であるのかを見抜くのに迷いがなかった。
◆
事代主たちのところに建御名方たちを向かわせた穴牟遅は、自身は彼らのところに行かなかった。
万が一を警戒していたからだ。
高天原は出雲が抵抗したとなれば、全力で叩きに来るかも知れなかった。
天照はそのような判断を下す人物ではない。
かつての穴牟遅ならばそう考えていただろう。
しかし、火明らとの対立で穴牟遅は外部やその影響を受けた者を猜疑するようになっていた。
(彦名ですら他神に誑かされ、日槍に国を奪われるかも知れん土壇場で私を裏切った)
内外は穴牟遅の手で連帯しなければならず、外部は彼によって解放される対象でしかなかった。
いや、出雲すら自分が指導しなければならぬものと思っていた。
そうなったのには穴牟遅が振るう呪能の性質も関係していた。
全てを情報として見下しえる穴牟遅の呪能は、彼自身の精神の有り様を黒く染めるようになっていた。
出雲とは穴牟遅が把握する情報の総体でしかなく、最早、慈しむべき者たちの個々は些末事に落ちていた。
その一人一人に心があるという当たり前は、居間の穴牟遅の認識からはすっぽりと抜け落ちていた。
それは我が子同然の百八十神さえ改竄可能な情報の集積体として見なすまでに歪んでいた。
描き手たる己さえ存続すれば、情報を再生するのは可能であるとまで考えるようになっていたのだ。
それゆえ、事代主や建御名方を建御雷たちに当たらせても、苦戦するようならその時に援軍を出せば良いと考えていた。
自身が帝王として君臨するのに万全を期すのが最も優先された。
何をも切り捨ててでも絶対者たらねばならぬと穴牟遅は妄信するようになっていた。
無力な過去を超克するためには大国主として立たねばならなかった。
立ち続けて在ることを穴牟遅は己に課した。
そこまで思い詰めた穴牟遅に出雲は委ねられていた。
そのような彼のところに報せがもたらされた。
古参の国津神たる地主神たちが造反し、高天原の側に付いて穴牟遅に反旗を翻したと。
また、出雲の勢力圏にある諸国でも地元の神人たちが蜂起し、駐屯する百八十神たちを襲っているとのことだった。
偶然にしては余りにも出来すぎていた。
実際、それは穂日の仕込みによるものだった。
穴牟遅に帰順した振りをしつつ、穂日は巧妙に監視の目を掻い潜り、大年や玉津日女と接触して彼らを叛乱に踏み切らせたのだ。
昼行灯を演じる穂日の姿は徹底的で、穴牟遅でさえも気が付かないほどだった。
もっとも、それは穂日だけの手柄ではなかった。
探女ら他神の協力もそこにはあった。
(地主神たちだけで監視を逃れ、高天原の動きに呼応できるわけがない。他にも裏切り者がいるはずだ。だが、今はその追究などしておれん)
そして、穂日や探女の策動にうっすらと気付いた穴牟遅は、外部への不信感を更に深めた。
◆
ここまで苦戦したのは日槍と戦って以来だった。
いや、日槍の時は穴牟遅がいた。
建御名方は建御雷と経津主にかつてない脅威を覚えた。
しかし、そうであるからと言って屈しはしなかった。
(こいつらの勝手にさせてなどなるものか)
寧ろ闘志を奮い立たせた。
(外の奴らがやることは変わらない。自分たちだけでこそこそと勝手に決め、それを押し付けてくる。そのようなものを誰が受け入れると言う!?)
穴牟遅によって視野を広げられた彼は、養父の視野が狭まると、自身もまた狭い身内意識を再燃させるようになった。
もっとも、それは国津神として出雲への想いを強め、そこで振るわれる呪能を強力なものにした。
怒りが高まると共に建御名方の呪能は事代主および八坂刀売とより強く感応し、龍の群れと蒸気の爆発が威力を増した。
その猛攻が建御雷と経津主を遂に捕らえようとした。
ところが、経津主はそれをも見切って回避し、建御雷は体を青白く光らせ、突如としてその姿を眩ませた。
「後ろだ、建御名方!」
事代主の叫びに建御名方が振り返ると、そこでは建御雷が一双の刃を振り下ろさんとしていた。
典拠は以下の通りです。
天穂日命が葦原中国の悪神を鎮めんとして天照大御神に報告する『出雲国造神賀詞』




