第八十段 天安河
天安河の河上には天岩屋があった。
そこは天斑駒の一件で責任を取った国之常立が幽閉されており、脱走せぬよう河水が逆しまに堰き止められ、急流を作っていた。
そして、それをなしているのが迦具土だった。
また、幽閉の場所に選ばれただけあり、外部から脱走の手引きがなされぬよう天岩屋は近付きがたいところにあった。
天安河原から天岩屋へと至る道は、険しい岩山が続き、足の竦むような絶壁を歩かされ、底が見えない峡谷を渡らなければならなかった。
空を飛べる鳴女がいれば容易かったのだが、彼女は出雲で療養していたので、鹿の獣人である天迦久神が天岩屋を訪ねた。
天迦久は身軽に河上へと上っていき、迦具土たちのいるところまで辿り着いた。
そこでは逆しまに堰き止められた河水が滝となり、轟々と音を立て、見る者に息を呑ませた。
しかし、人を驚かせるのはそればかりではなかった。
天安河の河上は天岩屋を含め、土地が広く開けていた。
そこで二つの影が高速で動き、ぶつかり合っては落雷のような閃光と轟音を引き起こした。
その度に地も大きく揺すられて土煙が巻き上がった。
巨大な火花と地響きを生じさせる二つの影は一組の男女だった。
男は朱い頭巾を被って白い覆面をし、その奥から覗く目が刃のように鋭い眼光を放っていた。
彼は黒い手袋に覆われた両手にそれぞれ一振りの剣を握り、がっしりした長身を紅い戎衣に包んでいた。
対する女は黒髪を無造作に結った娘で、緑の道着は袖が破れ、しなやかな腕が剣を振るった。
男女の剣が斬り結ぶ度、稲光が走ったけれども娘は不敵な笑みを絶やさなかった。
その様に天迦久が恐怖して立ち竦んでいると、男が彼に気付いた。
男の姿がふいに消え、次の瞬間、天迦久の前に現れた。
天迦久は持ち前の脚力で逃げ出そうとしたが、何故かそう出来なかった。
彼は男に刃を向けられて叫び声を上げた。
「止めろ、馬鹿ども!」
だが、思い掛けぬ一喝に男の動きがぴたりと停止した。
◆
一喝して男を止めたのは迦具土だった。
男が天迦久から退き、迦具土が彼を助け起こした。
落ち着いた天迦久が迦具土に用件を伝えると、迦具土は天迦久を天岩屋の家に上げ、男女もそれに付いていった。
男は迦具土の息子である建御雷、女は磐筒男神と磐筒女神の娘たる経津主神だった。
迦具土の家で彼と天迦久、建御雷、経津主は囲炉裏を囲んだ。
迦具土が天迦久に頭を下げた。
「まずは愚息たちの無礼を謝らせてくれ。驚かせてすまなかった」
建御雷は何も言わずに頭を下げ、経津主は悪戯が見付かった子どものような表情で頭を下げた。
迦具土の語るところによれば建御雷は天岩屋で経津主とひたすら修行に明け暮れていた。
別天津神と三貴子を除けば、迦具土は高天原で最強の武神と評され、建御雷はそれに勝るとも劣らぬと目されていた。
そして、その大きすぎる力で周囲に被害が及ぶのを避け、迦具土は無人の天岩屋で建御雷に強さを磨かせていたのだ。
それを聞いた天迦久は、建御雷と経津主が戦う光景を思い出して納得した。
経津主は天迦久のように鹿の力がなくても天安河を遡れる猛者で、建御雷の相手も務められた。
「ああいった時に建御雷を止めるのもお前の役目だろ?」
「ごめんごめん、アニキと力を振るい合うのが楽しくてつい……」
彼女は叱られて頭を掻いた。
迦具土は溜め息を吐き、天を仰いで暫し考え込んだ。
それから、天迦久の方を振り向いて言った。
「それで、神議りの決定についてだが、謹んで従わせてもらう。ただ、私は天安河を堰き止めていないといけないから、建御雷と経津主を向かわせる」
天安河を堰き止めているのは迦具土の呪能だった。
「建御雷、命令された範囲でのみ行動しろ。経津主、今度こそ建御雷のことをちゃんと見ていろよ」
「了解した、父よ」
「任せろってんだ!」
建御雷は静かに頷き、経津主はどんと胸を叩いた。
◆
天迦久が建御雷と経津主を連れて去ると、迦具土は天安河に行った。
そこでは迦具土の呪能で作られた溶岩が冷え固まり、河の水を堰き止め、逆流させて滝のようにしていた。
迦具土が滝の前に立つと、その奥から声が掛けられた。
「卿が赴くべきではなかったのかね?」
国之常立だった。
「ここは私を閉じ込めるための牢獄でもある。そのために私はお前の牢番を志願した。一時であっても抜け出すことは罷り成らない」
「建御雷についてもそうであったからこそ彼を連れてきたというに、そちらは外に出すのだな」
迦具土は言葉に詰まった。
自身の呪力が暴れ狂ったせいで母の力を暴走させ、彼女を夫から引き離し、黄泉に追い遣ってしまった彼は、自罰的なところがあった。
そして、建御雷にかつての自分を見出していた。
建御雷の呪能は余りにも強力なものだった。
その使い方を誤れば、取り返しの付かない罪を犯してしまうのではないか?
それ故に迦具土は建御雷を同行させた。
しかし、それは迦具土の独り善がりであるとも言えた。
そのことを突き付けるかのように迦具土と暮らす建御雷は、父親にも増して己の感情を押し殺しようになり、機械が動いているかのようだった。
経津主と出会って多少は改善したが、天迦久から天津国玉と稚彦の話を聞き、迦具土は改めて自らの行動を省みさせられた。
建御雷の能力に対する懸念は消えていない。
だが、天岩屋に閉じ込めていては却って歪ませるのではないか。
その思いが迦具土に建御雷を外へ出させた。
「向き合うことも必要だが、時には距離を取らねばならぬこともまた愛情だろう」
伊邪那岐と伊邪那美の別離に思いを馳せながら、国之常立は迦具土に慰めの言葉を掛けた。
典拠は以下の通りです。
火之迦具土神の息子である建御雷神の父親が天之尾羽張神とされる:『古事記』




