第七段 大日本国
大日が独鈷を一振りすると、日子と粟島が伊邪那岐と伊邪那美の手から離れた。
「日子、粟島!」
伊邪那美が大日の腕に収まった日子と粟島に手を伸ばそうとし、伊邪那岐がそれを引き留めた。
「母が向こう見ずなのに対して父は慎重……いや、単に自信がないだけか。まあ、良い。貴様たちも神人なら余に敵わぬことくらい分かるだろう?」
それは伊邪那美も頭では分かっていた。
神人たちの能力を複製してきたからこそ伊邪那岐と伊邪那美には彼我の実力差が直感的に理解できた。
その差は一個人と無限の宇宙を比べるようなもので、大日から感じられる力は底が知れなかった。
「余を敵にするなど狂気の沙汰だ。もっとも、盲目的でない狂気なら嫌いではないが。余は何かを狂的に極めようとしてこそ何物にも偏らぬ中道に至れると信じ、自らも完全者たらんとして両性具有の身でいる」
先程まで泣き喚いていた日子と粟島は、大日の力によるものか、泣き止んで寝入っていた。
「賢しらな道理を踏破して究極を追い求める意志。それを魔術と呼び、葦の豊かに茂るこの地には優れた呪力が期待できる」
水辺の草である葦は稲作の豊穣を示し、呪力があるとされた。
「それゆえ、貴様たちには神の道を開き、神々の力でここを整序してもらわねばならん。そうして産まれる国で仏法を広めるために」
「仏法……?」
「生きとし生けるものが救われる法だ。貴様たちがそうしなければ、この子たちも救われん」
大日がすやすやと眠る日子と粟島を掲げてみせると、また伊邪那美が彼らを取り返そうと身構えた。
「今の貴様たちには救えんから止めておけ。さっきまで大わらわだったのはどこのどいつだ。この子たちは水蛭子神および淡島神と名を改め、水に縁のある龍神たちに育てさせる」
呪力は名前にも込められ、「水蛭」および「淡」はどちらも弱々しいことを意味し、そのおかげか日子と粟島から感じられる力は弱まっていた。
「悔しければこの子たちを無事に暮らさせてやれる親になれ」
大日は独鈷に填め込まれていた勾玉を取り外し、その玉を伊邪那岐に投げて寄越した。
「余の言うことを信用できないなら、その印文を持って国之常立に尋ねよ。ただし、この子たちに無事でいてほしければ、他の神人には言うな。どこに貴様たちの造物主、空亡の目が光っているか余にも分からん」
伊邪那岐と伊邪那美は顔を見合わせた。
神人たちの造物主たる空亡の存在は二人も知っていたが、実際に会ったことはなかった。
そのような空亡のことを大日は忌々しげな様子で口にしていた。
「ここは葦に化けた金剛杵の中であるゆえ、空亡に勘付かれることもない。だから、ここでのことは胸に秘め、国之常立と内密に話をしろ。その間はこちらで用意した神人に自凝島の番をさせよう」
すると、勾玉が空中に高々と上がり、八尋殿の屋内に薫りの満ち満ちた霧を立ち籠めさせた。
大日を取り巻いていた龍がその霧を息で吹き払った。
霧が晴れて視界が開けると、伊邪那岐と伊邪那美の目の前に一人の女性がおり、逆に大日と龍、そして、水蛭子および淡島の姿はなく、大日の声だけが響いた。
「甘露の力を神として祀る豊受大神だ」
豊受は水蛭子と淡島の猛威により荒れ果てて乾き切っていた自凝島を潤し、それを見た伊邪那岐と伊邪那美は、ひとまず豊受に留守を任せて高天原へ昇った。
◆
天浮橋を伝って高天原に里帰りすると、伊邪那岐は伊邪那美に故郷で骨休めするよう告げた。
伊邪那美は見るからに疲れ切っており、国之常立との面談に耐えられそうではなかった。
しかし、伊邪那岐と伊邪那美は一刻も早く国之常立と会い、水蛭子と淡島を迎えられる親になるための方策を授けてもらわねばならないと思っていた。
それゆえ、伊邪那美は自分も同行すると言った。
それに対して伊邪那岐は己の非力さに自覚的であるべきだと言い返した。
伊邪那岐の言葉に伊邪那美は辛そうな表情で黙り込んだ。
伊邪那美が食い下がらなくなったので、伊邪那岐は彼女を残して国之常立の御殿に向かった。
道すがら伊邪那美の顔を思い出し、彼は心に痛みを覚えた。
一人でいることがいつもよりも淋しく感じられた。
◆
内密に話がしたいと言われ、国之常立は太占の儀式をするという名目で御殿への立ち入りを禁止した。
伊邪那岐はこれまでのことを包み隠さずに打ち明け、大日の印文も見せた。
国之常立は大日の言ったことを肯定した。
「ああ、私が卿たちに国産みを命じたのは、一切の根源である阿の字が冠された葦原中国を大日本国に、つまり阿字ノ原を大日を本とする国へと整序するためだ」
「分からないことが多すぎて頭がどうにかなりそうですけど、これだけはどうか教えてください。水蛭子と淡島はどうしてしっかりと神を祀れなかったんですか?」
「卿と伊邪那美の契りに問題がある。いや、原因は卿にのみ帰せられるべきか」
その答えに伊邪那岐は胸が疼き、声に劣等感を滲ませて再び問うた。
「……僕に力が足りなかったから?」
「伊邪那美を愛するという点でな」
予想外の返答に、彼は純粋な驚きで目を丸くした。
しかし、国之常立に冗談を言っている様子は見られなかった。
失望を隠さずに国之常立は告げた。
「卿は伊邪那美の想いを踏みにじった」
「そんな、そんなことありません!」
席を蹴って伊邪那岐は叫んだ。
その時ばかりは国之常立の覇気などに怯んではいられなかった。
自分までもが伊邪那美を傷付けたという指摘に耐えられなかったからだ。
典拠は以下の通りです。
伊邪那岐神と伊邪那美神が神道を開いて仏法を広めるよう言われる:『日諱貴本紀』
「水蛭子」は「日子」を示唆する:『神代評撰記』
水蛭子神が龍神の下で育てられる:『古今和歌集序聞書三流抄』
日本の支配権を保障する大日如来の印文として玉が授けられる:『三輪流第二重即位灌頂分』
豊受大神が勾玉から化生する:『神祇譜伝図記』
「葦原中国」が「阿字ノ原」を意味する:『天照皇大神宮鎮座次第』
「大日本国」が「大日の本国」を意味する:『平家物語』




