第七十八段 夷振
爆音を聞き付けて穴牟遅も事代主や建御名方ら百八十神を引き連れ、稚彦の家へと駆け付けていた。
「一体これは何のつもりだ?」
高皇産霊の姿を認めた穴牟遅は、別天津神が相手であっても臆せずに問い質した。
「稚彦は出雲の国津神となった。たとえ別天津神であってもどうこうする権利はない。高天原は何を考えている?」
彼は稚彦と下照姫が位置する場所の情報を改竄し、二人を自分の傍らに移動させた。
「使いに出した天津神に稚彦は矢を放った」
その返答に穴牟遅たちは驚いた。
もしそれが本当ならば、稚彦は高天原に介入の口実を与えてしまったことになる。
しかし、有無を言わせずに射掛けるなど稚彦らしくなかったし、穴牟遅に相談をしなかったのも変だ。
「弓を引かれたのだから高天原としては落とし前を付けてもらわねばならん」
高皇産霊の呪力が渦巻いた。
事代主と建御名方が穴牟遅を守るように飛び出して高皇産霊へと襲い掛かった。
だが、高皇産霊は光の盾で二人を弾き飛ばし、光の矢による追撃で薙ぎ払った。
出雲で最高の戦力である事代主と建御名方が赤子の手を捻るようにあしらわれて神人たちは驚愕した。
「しかしながら、こちらは天津神の稚彦が高天原に弓を引いたと認識していたが、その稚彦は死んだ。いるのは国津神としての稚彦と確かめられたゆえ、制裁すべき裏切り者おらず、この場は立ち去るとしよう。ただし、出雲が高天原を先に攻撃した事実は消えんぞ?」
再び宙に黒い穴が空き、その中に高皇産霊は消えていった。
◆
意識が戻って事情を聞いた稚彦は、出雲を離れたいと穴牟遅に告げた。
自分がいれば皆に迷惑を掛ける。
稚彦は未だ鳴女を怪鳥と認識しており、あれがどうして高天原からの使いなのか訝ったが、現にそうであったため、これ以上は出雲に害をもたらしてはならなかった。
「国津神となったことで命拾いしたのなら、稚彦という天津神としての名も捨てます」
穴牟遅は稚彦の覚悟を汲み、彼に阿遅鋤高日子根神という名前を与えて神度剣をも授けた。
高日子となった稚彦は、儀式的に自身の喪屋を作ると、知らずに害した鳴女を偲び、鳥人の神人たちに葬礼を取り仕切ってもらった。
それぞれ河雁が付き添いに、鷺が箒を持つ役に、翠鳥がお供えの食べ物を司る役に、雀がお供えの米を突く役に、雉が鳴き女に定められ、八日八夜の葬儀を行った。
その最中に天津国玉が妻子を連れ、高天原から降りてきた。
高皇産霊から事情を聞かされた天津国玉は、自分のやり方が間違っていたのではないかと初めて己を疑い、息子と話し合いに来たのだ。
しかし、稚彦は人違いであると怒って神度剣を抜き、喪屋を斬り伏せて足で蹴飛ばした。
それは天津国玉たちを巻き込まないための演技だった。
話をしたいと縋る父親に稚彦も思うところはあったが、高天原に弓を引いてしまった。
そのような自分と関わりを持っていたら、家族に累が及ぶかも知れなかった。
それゆえ、彼らと縁を切った。
稚彦は出雲から遠く離れた美濃国に流れることとなった。
しかし、旅立とうとする稚彦を待ち構える者がいた。
下照姫だった。
「どうしてここに君が……?」
下照姫は旅支度をしていたので、同行しようとしているのは明白だったが、それでも、稚彦は問わざるを得なかった。
「美濃は出雲と全く勝手が違う。まだ葦原中国に来て日の浅いお前を放ってなどおけるか。出雲にいられなくなったとは言え、百八十神の繋がりまで断たれたわけではない」
「だからこそ、君たちを巻き込むわけには行かない」
「そもそも、お前に出雲の何たるかを教えたのは私なんだから責任を取らせろ!」
「なら、僕の好きにさせてくれ!」
「それでは、私も好きでお前に付いていく!」
売り言葉に買い言葉の果てにそう言い放ち、下照姫ははっとなって頬を紅潮させた。
稚彦も相手の気持ちを察して顔を赤らめた。
やがて下照姫は胸に手を当て、震え声でおずおずと問うた。
「お前は私が嫌か?」
稚彦と下照姫は藍見川の川上に移り住み、琴を作る木を植えるなど土地の開拓に努め、夷振という地方色の豊かな歌を生み出しもした。
◆
下照姫が稚彦に付いていったことは、穴牟遅も許可しており、高姫命という稚彦と揃いの名を下照姫に贈った。
真面目すぎる下照姫はその能力では最前線で活躍できないのを気に病み、それを補おうとするかのごとく過激な方向に走りがちであるのには穴牟遅も気付いていた。
いつか致命的な無茶をするのではないかと危ぶんでいただけに稚彦と連れ合って穴牟遅は安心した。
しかし、最大の懸念は未だ解決していなかった。
高天原による国譲りの要求をどうするか。
あの高天原が方針を転換したのだから、この程度で終わらせてくれるはずなどなかった。
確かに高皇産霊は最終的に稚彦の一件を見逃してくれた。
稚彦が本当に高天原からの使いに弓を引いたのか今でも疑問だったが、誓約で確認できるような難癖を付けてくるとは思えなかった。
それに、出雲が高天原に弓を引いたと誓約によって証明されれば、立場がますます不利になった。
そして、別天津神の圧倒的な力は穴牟遅に改めて危機感を抱かせた。
たとえ正統性が欠片もなかろうと、自己の意志を押し通す強さが別天津神にはあった。
その気になれば、穴牟遅であっても勝てるか分からず、出雲は滅ぼされてしまうのではないか。
自身の敗北を穴牟遅は出雲の滅亡と直結させていた。
出雲という国は余りにも大国主たる穴牟遅に依存していた。
そのことは穴牟遅の内に自身こそ国そのものであるという傲慢な自意識を育ませた。
典拠は以下の通りです。
天稚彦が琴を作る木を植える:『宇津保物語』




