第七十五段 雉の頓使い
出雲について神議りを行うため、高天原は天安河原で神集いを催した。
会場が天安河原であるのは天照の自制が働いてもいた。
天安河原は自分の暴走に対処するため、高天原の神人たちが集まってくれた場所だった。
そのような場所において天照は己も一介の神人でしかないと改めて自覚し、そのような者が主神を任された責任を更に深く肝に銘じた。
彼女は空亡という余りにも巨大な存在を考慮し、黒い水のことだけは伏せ、情報を公開して衆議を求めた。
天津神たちは意見を交わし、やがて思兼が発言した。
「今回の議案は忍穂耳の報告に基づいています。何も忍穂耳のことを疑うわけではありませんが、たった一人の言うことに従えば、どうしても偏りは免れません。ここはまず慎重を期すのは如何でしょう?」
そう述べて思兼は妹の夫である忍穂耳をちらりと見遣った。
彼がどのような反応をするのかが気に掛かったからだ。
知の力を神として祀るがゆえに思兼は忍穂耳のことが興味深かった。
知性は絶えず働けば、環境の縛りを振り払っていく。
感性もそれを常に研ぎ澄ますのなら、異なる道で似た地平を開けられた。
忍穂耳の異邦人としての感覚は思兼に刺激を与えた。
神集いでも忍穂耳に寄り添う千々姫も、彼のそのようなところに惹かれて嫁いだのかも知れなかった。
千々姫の網は既知から未知へと繋がることを欲した。
忍穂耳は天津神であると同時に何者でもなかった。
もっとも、忍穂耳の方は思兼の視線を気にしていないようだった。
自身の在り方は忍穂耳にとって当然のことで、取り立てて騒ぐことではなかった。
寧ろ千々姫の在り方に感嘆しているくらいだった。
最初から港がない忍穂耳と異なり、千々姫は陸に高天原という陸にいながらも海へ漕ぎ出した。
忍穂耳と連れ合いになり、穴宮という新天地の開拓に出航した。
漂流と航海は違う。別に優劣がそこにあるわけではない。
しかし、自身と異なる何かに惹かれ、穴を埋めようとするかのごとく一緒になった。
それは千々姫にとっての忍穂耳も同じだった。
千々姫の糸はどこまでも織物からしか伸びなかった。
その糸が自由に宙を伝うことはなかった。
忍穂耳となら互いに補って手を伸ばせるかも知れなかった。
「確認のためにまずは雉名鳴女を遣わしましょう」
思兼が推挙したのは鳥人の天津神だった。
鳴女はただの雉に化け、伝えたい相手の他には鳴き声にしか聞こえない言葉を発せられた。
鳴女に穂日と稚彦の真意を探らせることが議決され、彼女は出雲へと天降った。
◆
新嘗祭の警備をしていた稚彦は、上空に怪しげな鳥が旋回するのを見付けた。
怪鳥は不吉な鳴き声を発し、稚彦をぞっとさせた。
あれは何か禍を及ぼす鳥に違いないと稚彦は直感した。
それに論理的な根拠はなかったが、どうしてか稚彦は己の勘を疑わなかった。
禍を及ぼすとなれば、その対象は穴牟遅だろう。
実際、穴牟遅は何度もその身を狙われており、それを稚彦たちが防いだことは、一度や二度ではなかった。
今回もそのようにするまでだった。
稚彦は天照から授かった弓矢を構えた。
穴牟遅の身を守るのにはこれまで剣を用いてきたので、天梔弓を持ち出すのは初めてだった。
追い払えればそれで良かったから、まずは威嚇のため、当てぬよう天羽々矢を放った。
ところが、弓矢の威力は稚彦の想像を遙かに超え、彼の呪力を十二分に引き出し、凄まじい呪威を発揮した。
勢い良く飛んだ矢は怪鳥を蹴散らしたばかりか、どこまでも遠くへ飛んでいった。
これには稚彦も唖然とする他なかった。
天梔弓と天羽々矢をまじまじと見詰め、稚彦は決意を新たにした。
幾ら箔を付けるためとは言え、このような呪具を持たせて友好的な使節と称するなど、欺瞞も良いところだ。
やはり天照よりも穴牟遅が指導者に相応しい。
たとえ国造りが完遂されても高天原に譲ってなるものか。
(僕はここで生きていくんだ)
穴牟遅や百八十神ら同志たち、そして、下照姫の顔を思い浮かべ、彼は怪鳥のことを報告するため、その場を立ち去った。
◆
立ち去る稚彦を穂日と探女が陰ながら見送っていた。
「本当に思う通り騙されてくれるものですね」
怪鳥の正体は鳴女だった。
いや、鳴女を怪鳥と認識しているのは稚彦だけで、それは探女の呪能が関係していた。
探女は天文の力を神として祀った。
月は満月の時に出生が多いなど生そのものに影響を与えたが、星々もまた組み合わせることによって運命に干渉した。
星が織り成す文様の影響力を利用し、探女は特定の対象に干渉して短時間だけその認識を狂わせられた。
稚彦が鳴女を怪鳥と認識したのはそのせいで、事前に穂日は忍穂耳から連絡を受けていた。
「これで本人たちがどう思っていようとも稚彦は高天原に文字通り弓を引きました」
「葦原中国に介入する口実が出来たというわけか」
「ええ、大義名分さえあれば制圧できたも同然です」
穂日が探女の肩に手を置いてそう言うと、その物言いに彼女は顔をしかめた。
「誇りというものがないの──」
詰りかけて探女は止めた。
不意に穂日の姿が掻き消え、その気配を察せず、気付けば喉元に指を当てられていたからだ。
穂日は仮面のように笑顔を動かさないで告げた。
「私は日光の力を神として祀ります。日の光は直視すれば、目が見えなくなります。それにより相手の認識から外れ、逃げ隠れすることしか出来ない卑怯者なのですよ、私は」
探女から手を離し、彼は相手に背を向けた。
「それでも、このような私であるこそ出来ることもあるはずです」
居場所がないことも辛かろうが、与えられる場所に恵まれないことも苦しかった。
穂日は逃げ隠れせねばならぬことを運命付けられていた。
そうであるからこそ卑劣漢と誹られようとも目的の達成に拘った。
典拠は以下の通りです。
天探女が天津神に属く:『摂津国風土記』




