第七十四段 神集い
一人で高天原に帰った忍穂耳は、黒い水のことも含め、八十神のことや稚彦の寝返りなど視察の結果を天照たちに報告した。
「草木さえものを言うような予想以上の混沌だな」
天照と共に報告を受けた高皇産霊が興味深そうに頷いた。
「さて、これをどう捌くね、天照?」
試すように高皇産霊から問われた天照は立ち上がって答えた。
「神集いを開いてそれに諮る」
誠実な稚彦であるから相応の理由はあるのだろうが、それでも、やはり寝返りには衝撃を受けた。
忍穂耳の報告を信じたくないという気持ちもあった。
ただし、それでは誰も信じられず、疑いの沼に沈むばかりだった。
そのようなことにならぬよう天照は風穴を空けようとした。
風通しの良くない思考は疑念ばかりを生む。
一人で何とかしようと頑張るだけではどうにもならぬと天照は学んでいた。
「それに、高天原に離反者が出たからかも知れぬからこそ天津神たちと気持ちを引き締めねばならん」
養女の決断に高皇産霊は牙を剥いて笑った。
◆
神集いが開かれるまでの間、天照は高皇産霊および神皇産霊と事前に協議した。
本当は豊受もそこに加えたかったのだが、表向き格が違う彼女を喚ぶわけには行かなかった。
話し合われる内容の性質上、変に疑いを招くことは慎まれた。
「黒い水は高天原の地下を伝って葦原中国に降り注いだがゆえ、上にいる俺たちは気付かなかった」
「穴宮に網を張り巡らしていた千々姫だけが例外でしたけど、証拠が残っていなかったために私たちはあの子を信じませんでした」
「そのせいで対応せず、結果として今回の事態を引き起こす遠因となってしもうた」
「ならば、責任を取って身を引くか?」
「高皇産霊……!」
神皇産霊からきっと睨まれる高皇産霊に天照は首を振った。
「それこそ無責任と言うものじゃろう。穴牟遅が対処できているならまだしも、八十神さえ使役して自ら戦火を振りまいておる。いずれ奴そのものが八十神のようになるかも知れぬ」
「恐らくそれが父上の狙いなのでしょう」
俯く神皇産霊に対し、高皇産霊は部屋の天井を仰いだ。
「この天地は父者の創造したものだ。全て父者の都合に良いようことが運ぶとまでは言わんが、その方向に流されやすいよう出来てはいる。また、黒い水が高天原から降り注いだのを考えれば、父者は天上のどこかに身を隠しつつ、策を巡らしているのだろう」
それが天照たちの慎重に協議している理由だった。
天照だけではなく高皇産霊と神皇産霊も豊受によって仏法に触れていた。
そのことは以前より空亡に抱いていた懸念を彼らに確信させた。
そうして天照や豊受と協力し、空亡の神国が完成するのを防ごうとしていた。
次々と成り行く勢いが永遠に続く恐ろしさは、造物主の御稜威を知るだけに高皇産霊と神皇産霊が最も分かっていた。
空亡の稜威に手放しで感動するには二人とも余りにも多くのものを抱えるようになっていた。
「しかし、黒い水が降り注いだのは、何も出雲だけではありません」
葦原中国では出雲が最大の勢力だったが、他にも国々はあった。
それら諸国が出雲のようになっていないという保証はなかった。
そのことも視野に入れ、出雲に臨まねばならなかった。
◆
国津神として生きる道を選んだ稚彦は、百八十神の一員として出雲に迎えられた。
「稚彦、これが最終的な当日の配置だ」
事代主が稚彦の前に図面を広げてみせた。
それには出雲の新嘗祭で人やものをどう配置するかが描かれてあった。
稚彦はその警護役を任されていた。
穴牟遅の決定であるため、稚彦が百八十神となることに異議を唱える者はいなかった。
しかし、そうであっても稚彦を簡単に受け入れるにはやはり抵抗があり、高天原の間者ではないかという疑いも完全には払拭されていなかった。
そこで、穴牟遅は大勢の神人が関わる行事に稚彦を参加させ、共に働くことを通じて打ち解けるよう図った。
その目論見は功を奏した。
様々な行事を通し、稚彦と出雲の神人たちは徐々に垣根が低まっていった。
今や新嘗祭の要職に就いても反対されなかった。
「以前よりも円滑に配置を決定できたよ。君が頼りになるばかりじゃない。穂日にも大いに助けられた」
稚彦を監視するため、彼と同じく出雲に残った穂日も、その目的は隠しつつ、穴牟遅の国造りを表向きは手伝っていた。
いつも気弱げに微笑む穂日を穴牟遅は信用しかね、飽く迄も食客として遇し、任される仕事も手伝いの域を超えなかった。
それでも、昼行灯のように見える穂日は、それ故に警戒感をさほど抱かれず、柔らかな物腰で雑用を粛々とこなしたので、稚彦ほど劇的ではなかったが、それなりに信用を勝ち得ていた。
「周りの人たちに支えられてのことです」
稚彦の言葉は本心からのものだった。
特に下照姫は当人たちの意図せぬところで稚彦を助けた。
彼女は稚彦が百八十神となっても彼に突っ掛かった。
別に下照姫は天津神の出身者を目の仇にしているわけではなかった。
国津神となった他の天津神とは垣根なく接していたからだ。
穴牟遅から目を掛けられている新参の稚彦を競い合うべき相手と見なしている節が下照姫にはあった。
もっとも、それだけが理由ではないというのが大方の見方だった。
そのこともあって出雲の神人たちは稚彦に対する態度を軟化させていった。
下照姫は真っ直ぐであっても頑なではなかった。
稚彦が働き始めた当初、本人の知らないところで彼女は彼を邪険にしてくれぬよう周りへ頭を下げていた。
そのような態度を下照姫は稚彦に関してだけではなく、日頃から誰のためにでも取った。
そうであるからこそ下照姫の特別な相手を周囲を受け入れた。
典拠は以下の通りです。
天稚彦が出雲国の新嘗祭で神事を任される:『日本書記』




