第七十三段 国津神
穴牟遅が八十神を使役していると若比売たちに教えられ、穂日は宿舎へ帰る道すがら忍穂耳に尋ねた。
「これからどうするのです?」
八十神が不適であるから穴牟遅は統治を委任された。
その穴牟遅が八十神を利用している。
訊くまでもないような背信だったが、敢えて穂日は忍穂耳へ問うた。
調査の方針に意見はないか質問した時、忍穂耳は母たちに心配を掛けない形と答えた。
自由人の兄が敢えてそのような言い方をしたので、穂日は何か裏があると察していた。
忍穂耳に共感できなくても弟としてそれくらいは理解できた。
妣国を求めて流離った素戔嗚の衝迫は、忍穂耳ら五兄弟の内、長兄である彼にしか受け継がれなかった。
別の言い方をすれば、この天地に対する疎外感は、忍穂耳が一身に背負ってくれていた。
天照とはまた別の負い目が穂日ら弟たちにはあり、穂日は親子や兄弟の絡んだことに敏感だった。
その感覚は忍穂耳が出雲と何か別なことを探っていると告げた。
「お袋たちに報告するしかねえだろ」
忍穂耳もそのような穂日のことを信用していた。
確かに忍穂耳は高天原に疎外感を抱いていた。
しかし、個々の天津神たちと繋がりを断っているわけではなかった。
「なら、稚彦のことを懸念しなければなりませんね」
もっとも、稚彦との間にはそのような紐帯がなかった。
◆
宿舎に帰ってきた忍穂耳と穂日に稚彦が言った。
「僕は国津神になる」
「……出雲の側に付くってことか?」
忍穂耳の問いに稚彦は頷いた。
「出雲などを実地に見て回り、国津神の人たちと直に触れ合って確信した。葦原中国には大穴牟遅神のような指導者が必要なんだ。その国造りを僕も支えたい」
「天津神としての使命はどうするのです?」
穂日の言葉も稚彦の気持ちを動かさなかった。
「高天原のやり方が葦原中国でもそのまま通じるとは思えない。寧ろ噛み合わなくて余計に混乱させるだけだ。今だって問題があるのは事実だけど、それもいずれ改善していく」
「なるほど……」
口に手を当てて穂日は暫し考え込み、やがて忍穂耳の方を振り向いた。
「私も稚彦の言うことには理があると考えます。今回の件に関して高天原は自らの原則に固執していると言えましょう。高天原の理屈も筋は通っていますが、それは八洲の全てに通用するものではありません」
「出雲の理屈にも同じことは言えるんじゃねえか?」
「いえ、彼我の差別を無くしていこうとする出雲の原則は、いつか高天原よりも普遍的なものとなりましょう。私も大穴牟遅神に接してそう感じさせられました。高天原にあのような指導者はいません」
穂日が稚彦に歩み寄ってその傍らに立った。
「私と稚彦は出雲に残ります。高天原に背く償いと言っては厚かましいですが、私たちが探女らと裏でやっていたことは暴露しません。お互い気持ち良い形で別れましょう」
稚彦は穂日から肩に手を置かれ、思わぬ心強い味方に顔を輝かせた。
「……分かった。俺も乗り気じゃなかったしな。上にはお前たちが新天地を見出せるくらい出雲の統治は上手く行ってるって伝えとくよ」
そう言い残して踵を返す際、忍穂耳と穂日は稚彦に気付かれぬ形で視線を交わした。
◆
探女が穂日を睨んだ。
「裏切りだ」
「それは誤解というものです」
心外とばかりに穂日は嘆息した。
「ここで揉めましたら平和的な解決は望めません。私は稚彦に味方した振りをして彼を監視し、その間に兄は高天原に戻って上と対策を練る。決して葦原中国の解放を諦めたわけではありません」
「何も確かな保証がない。そう言って有耶無耶にするつもりだろう。所詮、高天原にとっては余所事だからな」
「貴方こそどうしてそこまで感情的になるのです?」
「!?」
改めて探女は穂日の顔を見詰めた。
一見、穂日は先程までと同じく気弱げに微笑んでいるように映った。
しかし、その微笑は能面のようで、糸のように細められた目は、感情というものを窺わせなかった。
「貴方たち他神が自由な市場に拘るのは理解できますが、それは利であって情ではないはずです。実際、大物主は少なくとも表向き穴牟遅と妥協しています。それなのに、天地を流離う貴方が何故にそこまで葦原中国に拘るのですか?」
「……約束したからだ」
挑むように探女は穂日に告げた。
かつて彼女は黄泉神になりかけていた。
呪力が荒れ狂って苦しむも黄泉への道は閉ざされていたので、想像を絶する痛みに暴れ回ることしか出来なかった。
それを救ってくれたのが未だ出雲にやってくる前の素戔嗚だった。
素戔嗚は探女の暴走する呪力をものともせず、その猛気を分解してみせた。
耐えきれぬ苦痛から解放してくれた恩人に探女は付いていくことを願い出た。
だが、まだ旅路にあった素戔嗚は、その手を振り払った。
それから二人が再び出会ったのは、素戔嗚が奇稲田たちと共に根国に赴く途上だった。
他神となっていた探女は、その地位を捨ててでも素戔嗚に同行することを願った。
素戔嗚は探女が新たに得た生き方を捨て去られたくはなく、彼女と約束を交わした。
もし自分のようなものに恩義を感じてくれるのなら、自らが残して去り行くこの国をどうか守ってくれないか。
新たな生において生みの親とも言える素戔嗚とのその約束を探女はずっと守ろうとしてきた。
典拠は以下の通りです。
素戔嗚尊が猛気から天探女を生む:『先代旧事本紀大成経』




