第七十二段 丹波国
穴牟遅は出雲に宮殿を構えていたが、丹波にも離宮があった。
丹波は日槍の但馬と大物主の大和に近く、穴牟遅が彼らと定期的な会談をするのによく利用した。
未だ三者は対立しており、いつ抗争に発展するか分からなかったので、高天原の視察を受けている最中であっても穴牟遅は日槍と大物主との会談を欠かさなかった。
「大変なことになったな、穴牟遅」
会談の場で日槍が穴牟遅に言った。
「しかし、安心しろ。視察の間は出雲に手を出さない。今のお主と戦ってもまた前のように水を差されかねないからな」
そう言って日槍は大物主に視線を遣った。
「別にどうでも良いわよ。葦原中国を誰が治めたって。他神の安全が保障されるなら」
大物主は煩わしげに手を振り、それから、穴牟遅に流し目を送った。
「君が他神の権利を拡大してくれるなら、手を貸してあげるけど?」
「お前たちの扱いは変えないから、この件には手を出すな。それで満足しておけ。藪を突いて蛇を出したくはないだろう」
「あたしにそんな言い回しを使うなんてね」
彼女は髪を結い上げる蛇を笑いながら撫でた。
そうして穴牟遅は日槍および大物主と協定を結び、視察が終わるまでの不戦を約束した。
もっとも、それは調略まで禁止してはいなかった。
◆
日槍および大物主との会談で穴牟遅が出雲を留守にしている間、忍穂耳と穂日は秘かに足名椎および手摩乳と若比売に会った。
それを段取りしたのは須勢理だった。
出雲の留守は事代主に任されていたが、彼は須勢理を慕っており、彼女の行動を監視するようなことはしなかったのだ。
須勢理も自分の行動が穴牟遅への裏切りになるとは思っていなかった。
忍穂耳は黒い雨が記録された呪符を須勢理に見せると、それが高天原の機密に当たるゆえ、もし何か心当たりがあれば、内々に教えてほしいと言った。
呪符から感じられる異様な稜威に須勢理は納得した。
これほどのものなら慎重な扱いが求められても不思議はなく、揺るぎない存在であるはずの高天原でそのような異変が起こったと知れ渡れば、人心の動揺は計り知れなかったので、天津神らが隠したがるのも仕方なかった。
須勢理は穴牟遅の妻だったが、忍穂耳と穂日は彼女が出雲の諸勢力を調整する立場にあることを見抜いていたので、その均衡を崩すような混乱は望まないと睨んだ。
そして、須勢理には心当たりがあった。
それはかつて出雲を拠点に葦原中国を荒らし回った八十神で、彼らは穴牟遅によって根国に逐われていた。
流石に根国から八十神を呼び出すわけにも行かなかったし、呪符を貸し出すのなど以ての外だったので、彼らについて良く知る若比売たちを忍穂耳たち紹介した。
出雲の地主神であった若比売たちは須勢理よりも密に八十神と接していた。
忍穂耳は若比売たちにも呪符を見せると、彼らも呪符から感じられる稜威が八十神にあったことを認めた。
「そもそも、八十神ってのは何者なんだ?」
「元は彼らも僕らと変わらなかったよ」
足名椎が煙管を吹かして答えた。
「それが急に狂いだした」
「黴雨が降り続く時期のことだったね」
手摩乳と若比売が話を補足した。
忍穂耳と穂日は視線を交わした。
黒い水と黴雨が無関係であるとは思えなかった。
しかし、若比売たちも顔を見合わしていた。
何か迷っているような様子だった。
やがて若比売が意を決して口を開いた。
「八十神は根国に逐われたんだけどね、全員がそうなったんじゃないんだよ」
「未だ何人かが葦原中国にいるということですか?」
穂日の問い掛けに若比売は頷いた。
「まさか出雲にいるって言わねえだろな?」
「当たらずしも遠からずといったところだね。彼らは出雲の勢力圏にいるけど、国境に送られている。最前線で他国を攪乱するために」
「そのようなことを命じられるのは……」
「穴牟遅だ」
言い淀む穂日に手摩乳がきっぱりと告げた。
◆
穴牟遅の代理として一日の仕事を終え、事代主は建御名方と酒を酌み交わした。
「やはり今からでもあいつらを連れ戻すべきではないのか?」
建御名方が事代主に言った。
あいつらとは忍穂耳と穂日のことだった。
彼らが若比売たちに会うことを建御名方は快く思っていなかった。
「女将が決めたことだ」
事代主は首を左右に振った。
「あの人を信じるんだ。ぼくたちが疑いの心から勝手なことをすれば、ただでさえ大変なお頭に更なる苦労を掛けてしまう。愚直にお頭と女将を信じるのがぼくたちの役割だ」
彼は杯を手に取り、酒の水面に映る自身の顔を見詰めた。
「だから、お頭が仲間に加えようとしている稚彦をぼくたちも信じて受け入れるべきだろう」
「あいつは高天原から送り込まれた天津神だ」
「出雲にとって余所者という点ではかつてのぼくやきみと変わりはない。それに、そのような違いを乗り越えるのがお頭の夢だったからこそ、ぼくたちは百八十神になったんじゃないか。お頭が稚彦を信用できると判断したのなら、同志として迎え入れよう」
そう言って酒を啜り、事代主は建御名方の顔を見た。
「きみが余所から来た者に頑ななのは家族への情が深いからだ。その一員になれてぼくは嬉しい。それを稚彦にも感じさせてやってはくれないかい?」
建御名方は黙って杯を傾けた。
気に喰わなければ言下に切り捨てているはずだった。
素直でない肯定に微笑みながら、事代主は酒を飲んだ。
典拠は以下の通りです。
丹波国に大穴牟遅神の宮がある:『丹波国風土記』




