第七十一段 天津神
下照姫は考え事をしながら歩いていた。
今日はあいつをどこに連れていってやろうか。
あいつとは稚彦のことで、下照姫は彼との逢瀬に心を躍らせながら、高天原の使節が泊まる宿に向かっていた。
「下照姫、ちょっと良いかな?」
そのような下照姫に事代主が建御名方を伴い、声を掛けてきた。
「どうしたのですか?」
兄貴分である二人には下照姫も礼儀正しかった。
「また天津神のところに行くのか?」
咎めるような建御名方の言葉を和らげるように事代主が補足した。
「君が天津神に誑かされないか心配なんだ」
本人は決して認めなかったが、下照姫は稚彦と会うのを楽しみにしていた。
初め稚彦の案内を下照姫が引き受けたのは、彼をやり込めるためだった。
何も知らない天津神が偉そうに指図するのではない。
そう憤って下照姫は稚彦に出雲を案内した。
確かに高天原のごとく整序されてはいないが、出雲にも人々の営みがあり、それに誇りがあった。
下照姫も出雲が理想郷ではなく、様々な問題を抱えていることは否定しなかった。
しかし、穴牟遅の下でなら少しずつであろうとも解決に向け、歩いていけると信じていた。
そのような下照姫の意気込みを稚彦は馬鹿にせず、それどころか感銘を受けた様子で更に話を聞きたがった。
相手に突っ掛かったつもりの下照姫は押し返されずに受け入れられ、つんのめって稚彦の胸に飛び込む形となり、傍目にも二人の仲は親密に見えた。
「私が高天原の暮らしに憧れるほど軟派と思われていたとは心外です!」
だが、下照姫は事代主たちの懸念を別の意味に受け取った。
天津神が葦原中国へ降れるのに対し、国津神は高天原に昇れず、高天原は葦原中国よりも整序されていたので、国津神の中には高天原での暮らしに憧れる者も少なくなかった。
葦原中国には高天原を皮肉る声も多かったが、それは劣等感の裏返しという一面もあった。
天津神でない者が高天原に昇れることもないわけではない。
岩戸開きの際に思兼は常世から長鳴鳥を高天原へと連れてきた。
しかしながら、それはやはり緊急事態であるからこその特別措置だったのだ。
「……あっ、声を荒げてしまい、申し訳ありません。しかしながら、天津神に媚びを売って高天原へ昇ろうとは夢にも思っておりません。どうか信じてください」
そう言って下照姫はぺこりと頭を下げた。
事代主と建御名方は困って顔を見合わせた。
下照姫は稚彦と男女の仲を疑われているとは気付いていないようで、初心な妹分に事代主と建御名方は呆れた。
◆
稚彦が国津神に好意的なのは父親である天津国玉神への反発が大きかった。
天津国玉は天津神であることに誇りと責任を持ち、自他に対して鬼のごとく厳しかった。
そのような父から幼い頃より苦しい試練を与えられ、稚彦は天津神の貴公子へと鍛え上げられた。
しかし、彼はそのことを喜ばなかった。
寧ろ父の誇りを満たすための道具にされたとしか思わなかった。
息子が試練を乗り越えても天津国玉は当たり前とばかりに彼を褒めようとせず、稚彦は父が一員たることを誇る天津神よりも国津神に好意を持った。
ただし、葦原中国に天降るまで稚彦にとっての国津神は空想上のものでしかなかった。天津国玉への反発から好意的になったので、父と同じく道具としていたのかも知れなかった。そのような稚彦に対し、葦原中国で二人の人物が国津神もまた生きた存在であることを教えてくれた。
その一人は下照姫だった。
稚彦に初対面から下照姫に叱り付けられたが、それは天津国玉のような厳しさではなかった。
天津国玉は稚彦のことを省みず、ただ頭ごなしに言い付けるだけだったが、下照姫は彼と正面からぶつかり合った。
そのことが稚彦を怒らせるよりも奮い立たせた。
自分は何も知らないのに分かったような振りをしていた。
そうした恥の意識もあって稚彦は熱心に学び、高天原からの命令よりも出雲での生活に気持ちが傾いていった。
「この葦原中国は我ら国津神が治めているが、いずれ天津神に譲っても良いと私は考えている」
出雲の視察を案内する穴牟遅の発言に稚彦は驚いた。
「苦労して造った国をどうして?」
「まだ国造りは終わっていない。それに、私が造ろうとしているのは、皆が誰とでも繋がれる国だ。そこには国津神と天津神の違いもない」
稚彦に国津神のことを再考させたもう一人が穴牟遅だった。
国造りは既に整序された高天原にはないもので、その活力に稚彦は魅了された。
そして、それは穴牟遅への憧れに繋がった。
「そのような国を共に造らないか、稚彦? 国造りを終えるまでが私の仕事だと考えている。その後は喜んで高天原に譲ろう」
それゆえ、穴牟遅から勧誘されて稚彦は驚くと共に喜んだ。
彼は穴牟遅に父の代わりを見出していたのかも知れなかった。
そのことを穴牟遅も見抜いていた。
◆
忍穂耳および穂日と須勢理は従兄弟姉妹だったので、視察の傍らに彼らは親戚付き合いも行った。
「この呪力に心当たりがないかだって?」
その席で須勢理は忍穂耳から一枚の呪符を渡された。
呪符は思兼が作ったもので、それには千々姫の糸が捉えた例の黒い雨を記録していた。
完全な再現は無理である上に危険だったが、それでも、その一端は窺わせた。
「ああ、黄泉神に詳しいお前なら分かるかも知れねえと思ってな」
「根国へ調査に行けたら良いのですが、そこまで好き勝手は出来ませんからね」
他の人物に呪符を預けるという手段もあったのだが、流石にそうするにはことが重大すぎた。
また、内密の話をする際に使えと豊受から呪符を渡され、須勢理との話し合いにも用いていたが、それをほいほいと貸すことのも躊躇われた。
これらのことを忍穂耳と穂日は天照や高皇産霊、そして、稚彦にも教えていなかった。
典拠は以下の通りです。
天稚彦の父が試練を与える鬼とされる:『天稚彦物語』




