第六段 国産み
以前に見て回った葦原中国と違い、自凝島は景色の揺らぐことがなく、地が国土として固められて整序されてあった。
いつもならそれに感嘆すること頻りだったろうが、その時ばかりは伊邪那岐と伊邪那美にそのような余裕はなかった。
葦原中国の景色そのものには見慣れていたということもあったが、何よりも伊邪那岐と伊邪那美にとって初めての二人きりだった。
無論、それまでにも二人でいることはあったが、その時間は短かったし、複製の能力を磨くことに意識が向いていた。
しかし、今回は自分の力を開発するのではなく、協力して使命を果たすのが目的だったので、勢い相手のことが気になった。
すると、それだけで心臓が高鳴り、体が火照って呼吸することさえ苦しかった。
そのようなことがどうしてか気恥ずかしく、心を落ち着かせるため、伊邪那岐と伊邪那美は二手に分かれ、島を互いに逆の方向で一回りして八尋殿で落ち合うことにした。
それでも、天御柱で落ち合った途端、二人の胸が激しく脈打った。
視線を外そうとしても出来ず、頬が赤らんで息も荒くなり、気付けば伊邪那美が伊邪那岐を押し倒していた。
「伊邪那美……?」
「好き……なのかな、これが」
ぽつりと漏れた伊邪那美の呟きに伊邪那岐は虚を突かれた。
生き物がつがいを求める感情は、伊邪那岐も神人たちの祀る力を伊邪那美と見てきたことで知っていた。
それでも、どれだけ神人を見てきても自らを省みていなかった伊邪那岐には己の感情が分からなかった。
「……うん、これが好きってことなんだと思う」
「ちょっ、待っ──」
ただし、伊邪那美の方は暫し考え込むと、やおら納得したような様子で伊邪那岐に覆い被さってきた。
それを伊邪那岐は制止しようとしたが、伊邪那美は口付けして彼を黙らせた。
唇を重ねられた伊邪那岐は考えるのを止めた。
(今まで伊邪那美のやることに間違いはなかったんだし、これも問題はないよね)
心の中でそう自分に言い訳し、彼は相手の背中に腕を回して脚も絡ませ、互いに体を貪った。
◆
神人は人間のようであってそうではない。
他の神人によって化生させられることで生まれ、その場合は既に成長した姿をしている。
ただし、人間のようでもあるから男神と女神が性交しても産まれる。
もっとも、空亡や別天津神たちが化生により神人を生んでいたので、敢えて性交で産もうという者はこれまでいなかった。
それゆえ、性交による妊娠と出産は伊邪那岐と伊邪那美にとって初めての経験だった。
高天原の天津神たちに助言を仰ごうかとも考えたが、二人は強く結び付けられる余り、自分たちだけで全てを何とかしようと試みた。
そうして人間ほどには負担なく赤ん坊が二人も産まれた。
男の子と女の子の赤ん坊だった。
ところが、男の子は水のあるところにいる蛭のように、女の子は泡のように未熟で、どれだけ経っても育たなかった。
それでも、神人としての本能から男の子は日の、女の子は葦原中国の粟を散らしたような島々の力を神として祀ったが、虚弱な身では祀りきれず、却って力を暴走させた。
伊邪那岐と伊邪那美は男の子を日子神と、女の子を粟島神と名付け、新たな命の誕生を目の当たりにした感激もあり、八尋殿で子育てに励んだが、我が子の暴走する力に振り回された。
その対処に手一杯で、彼らは天津神たちに相談することも出来なかった。
◆
伊邪那岐と伊邪那美は体力の限界を迎え、心もぎりぎりの状態にあった。
これまで挫折したことのない伊邪那美は初めて物事が上手く行かなくて取り乱した。
そうなれば伊邪那美に頼ってばかりいた伊邪那岐も、動揺する他なかった。
「どうしたら良いの、伊邪那美……?」
「分かんない……分かんないよ!」
日子の力は一日の時間を滅茶苦茶にし、粟島の力は自凝島に天変地異を起こした。
伊邪那岐と伊邪那美が必死に押し止めたので、暴走する日子と粟島の力は、自凝島でだけ猛威を振るった。
しかし、もし伊邪那岐と伊邪那美が力尽きれば、被害は葦原中国の全体に及びかねなかった。
どうすることも出来ず、伊邪那岐は自分ばかりか伊邪那美もまた無力であると思い知らされた。
だが、他の神人たちにも助けを求めようとしなかった。
伊邪那岐にとって伊邪那美は神人が有する可能性の象徴だった。
神人でない何かに伊邪那岐は救いを請うた。
それが何であるか知らなかったし、いるかどうかも分からなかった。
それでも、彼は祈らずにいられなかった。
隣を見れば伊邪那美が傷付き、疲れ果てているのが目に入った。
普段の姿からは想像できないほど弱々しく映ったが、そうであるからと言って失望することはなかった。
寧ろ伊邪那美のことが、気を抜けば掌からこぼれ落ちてしまいそうなほど儚い存在に思えた。
(伊邪那美だけでも、誰か……!)
「その願い聞き入れよう。有り難く思うが良い。余が貴様たち全員を救ってやる」
思い掛けない声が聞こえ、荒れ狂っていた日子と粟島の神威がぴたりと止んだ。
それに驚いた伊邪那岐と伊邪那美が声を上げる暇もなく、八尋殿の床が割れて地の底から海の水が涌出した。
涌き出る海水は珠のようなものを載せていた。
その珠には「バン」という種字が印されてあった。
そして、そこから金髪の色白な如来が赤い蓮華の台上に坐して現じた。
魔女帽子と黒衣を着けているだけだったが、それのみであたかも宝冠や瓔珞などの宝飾品で飾られているかのごとき豪奢さを感じさせた。
天御柱に巻き付いていた龍蛇も、本物の龍に変成して如来を守護するようにその周りを取り巻いた。
伊邪那岐と伊邪那美は如来なる存在を知らなかったが、それでも、目の前にいるのが神人から見てもただならぬ相手であることを悟った。
龍の頭を撫でながら如来が言った。
「余の名は大日如来。遙か高みより下されし霊智だ、空亡が泥土よりこね出し男と女よ。……ああ、如より来たりしと言った方が良かったかな」
大日如来と名乗った如来は独鈷を振りつつ、片目を瞑ってみせた。
典拠は以下の通りです。
伊邪那岐神と伊邪那美神が自凝島で大日如来とまみえる:『神祇官私記』
伊邪那岐神と伊邪那美神が始まりの男女とされる:『本教外篇』