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日本神紀  作者: flat face
巻第四 天神本紀 忍穂耳
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第六十八段 天浮橋

 忍穂耳が天照の御殿に参上すると、そこには母の他、高皇産霊と天津神の若者が二人いた。

 その二人とは穂日ほひ天稚彦あめのわかひこだった。

 穂日は忍穂耳の弟、稚彦わかひこは高天原の俊英だった。


「忍穂耳、お主には正使として出雲に行ってもらう。副使として穂日を、随員として稚彦を付ける」


「使節の目的は何なんだ?」


「穴牟遅に国を譲らせる」


 高皇産霊が口を挟み、娘婿である忍穂耳の疑問に回答を与えた。


「高天原が穴牟遅に葦原中国の統治を委任したのは、奴なら適切に治められると期待したからだ。しかし、どうやらそれは間違いだったのかも知れん。よって、高天原には穴牟遅の統治が本当に圧政かを調査する責任がある」


「じゃが、暴力に訴えるのは本意でないし、国津神らの名誉も守りたいのじゃ。そこで、素戔嗚との誓約で生まれた私の息子たちであるお主と穂日、それから、葦原中国に好意的な稚彦を遣わすことにした」


 出雲において素戔嗚は神々の始祖とされるほど尊ばれ、穴牟遅に国の統治を委任した天照も、名目上の主としてある程度の敬意を払われてはいた。

 また、高天原に対する葦原中国の態度が単純でないように天津神たちも国津神らに関する立場は様々だった。

 葦原中国に無関心な天津神もいれば、そちらへ移住する者もいた。


 しかしながら、忍穂耳は天照の人選が争いを避けることだけを目的としてはいないに気付いた。


「出雲に行ってくれるな?」


 念を押す母の表情に彼は憂いや心配を見て取った。

 忍穂耳は昔から高天原に馴染めないでいた。

 彼は天津神のはぐれ者たちが巣くう穴宮にいたが、そうすることによっても満たされてはいないようだった。


 天照にはその原因が分かった。

 忍穂耳は天照と素戔嗚の誓約で生まれたが、その誓約は素戔嗚の妣国に往かんとする心を問うものだった。

 そして、それを是として真っ先に生まれたのが忍穂耳だった。


 ここではないどこかにある妣国を求めて素戔嗚は流離った。

 やがて彼はその衝迫を断ち切ったが、それから生まれた忍穂耳は、本能としてあらゆる場所が異郷に感じられるのだろう。

 彼は高天原に馴染まないからと言って葦原中国や常世を流離おうとはしなかった。


 それでも、実際に高天原の外に出てみれば、何かが変わるのではないか。

 そうして天照は忍穂耳に国譲りの使命を与えた。

 そこには素戔嗚との一件に対する負い目があった。



 派遣が正式に決定し、忍穂耳たち三人は天浮橋に向かった。

 稚彦は天羽々矢(あめのはばや)天梔弓あまのはじゆみを持たされた。

 それは使節の見栄えを良くするためだった。


「それで、念のために伺いますが、何か方針はありますか?」


 地上へと天降る前、協議の席で穂日は眼鏡のずれを直しながら忍穂耳に尋ねた。

 金色の長髪を腰の辺りで束ねた彼は、細目の優男であって些か頼りなさそうだった。

 忍穂耳は穂日の問いに煙草を吹かしながら答えた。


「お袋たちに心配を掛けねえ形にしてえもんだな」


「……稚彦は何か意見は?」


 穂日は忍穂耳の目配せに無言で頷くと、稚彦の方を振り向いた。

 稚彦は黒髪を伸ばした長身の美男子で、弓籠手を身に着けており、如何にも真面目そうな感じだった。


「穴牟遅殿は自国を閉ざしているそうだから、僕たちに対しても国の内幕を覗かせないはずで、調査のためには伝手を持たなくちゃいけない」


「その点は高皇産霊閣下が既に協力者を見付けていらっしゃいます」


 稚彦の言葉に穂日は再び眼鏡のずれを直した。



 忍穂耳たちは釜のような形の船に乗り、天浮橋から出雲へと天降った。


「お前たちが高天原からの使者か?」


 大庭釜ヶ谷(おおばかまがたに)に降り立った三人は、一人の神人に出迎えられた。

 大柄な鬼人の女性で、白と黒に染まった髪からは二本の角が生えていた。

 日に焼けた肌は、真紅の装束に包まれていた。


天探女あめのさぐめです。僕たちの協力者になってくれます。漂泊の他神として」


 探女さぐめに挨拶した穂日が彼女を忍穂耳と稚彦に紹介した。

 諸国を行き来する他神は、出雲では厳しく監視されていたが、移動を全く禁じられているわけではなかった。

 他神がもたらす風聞や舶来の品は出雲も欲しかったし、出雲の産する文物を他神も求めていた。


「出雲に移住して国津神になった天津神に頼んで、協力を取り付けた」


「そいつらから話は聞いてる。出雲がまた昔のようになるなら私も大歓迎だ。天津神のお偉方は知らないだろうが、今の出雲は私のような余所者には息苦しくて仕方ないからな」


「貴重なご意見をどうも」


 忍穂耳は探女の文句を軽くあしらった。

 穴牟遅が多くの民を苦しめる暴君かどうかはまだ疑惑でしかない。

 何か深い事情があるなら、場合によっては穴牟遅を助けるよう天照は命じていた。


「それはともかくとして我々がここでずっと話していては誤解を招きかないから、穴牟遅殿を訪ねるとしよう」


 見咎められぬよう忍穂耳たちは探女の指定したところに降りたのだが、それでも、どこで監視の目が光っているか分からなかった。

 穴牟遅を訪問した後は、もっと厳しくなるだろう。

 その前に皆で顔を合わせたのだ。


 探女が高天原に来られたら、そのような手間を掛けなくて良かった。

 しかし、天浮橋は天津神にとっては葦原中国に天降るための架け橋だったが、何故か国津神にとっては高天原に昇天するのを妨げる壁だった。

 国津神になった天津神もその例外ではなかった。

 伊邪那岐でさえも、素戔嗚との一件があった直後、丹後の速石はやしにある久志浜くしはまから天上へ昇ろうとしたのだが、途中で道そのものが倒れ、天橋立あまのはしだてとなってしまったのだ。


典拠は以下の通りです。


素戔嗚尊が神々の始祖とされる:『詞林采葉抄』

天照大御神が国の主とされる:『神祇門』

高天原から葦原中国への天降りが釜によってなされる:『神魂神社由緒注進』

伊邪那岐神が丹後国の速石にある久志浜から高天原に昇ろうとするが、その道が落ちて天橋立となる:『丹後国風土記』


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