第六十七段 穴宮
高天原は巨大な浮島だった。
その大きさは横に広いだけではなくて縦にも広かった。
高天原の地下には穴宮という広大な空間があり、敢えてそこに巣くう天津神たちもいた。
彼らは言うなれば天津神のはぐれ者だったが、別に呪力が暴走しているわけではなかったため、咎められることはなかった。
むしろ、穴宮は歓楽街が形成され、整序された高天原を息苦しいと感じる天津神たちに息抜きを提供したので、公認はされないものの重宝さえされていた。
また、穴宮は裏であるからこそ表で出回りにくい情報も流れ込み、表より早く最新の情報が手に入った。
「きみ、葦原中国に行かされるかも知れないよ」
寝床でいつものようにじゃれ合いながら、千々姫が天之忍穂耳に教えてやった。
穴宮は共有であったけれども奥には個人の住居もあり、彼らもそれを有していた。
忍穂耳は三貴子である天照の息子、千々姫は別天津神たる高皇産霊と神皇産霊の娘で、二人は夫婦の間柄だった。
「上の奴ら、頭が湧いてんじゃないのか?」
千々姫が教えてくれた情報を聞き、忍穂耳は自分たちが地下にいることと引っ掛けて上層部の別天津神と天津神を嗤った。
母譲りの金髪を短く切った彼は、その悪人面も軽薄そうだった。
対して千々姫は母の神皇産霊や兄の思兼と同じ紫髪をぼさぼさにし、丸い眼鏡を掛け、人懐っこい表情をしていた。
忍穂耳が悪い狼なら、千々姫は悪戯好きの猫だった。
「お父さんに関してはその通りだね」
「湧いてるどころか、爆ぜてるって感じだな」
「否定はしない」
高皇産霊の暴走を思い出して噴き出す千々姫に忍穂耳は低く笑った。
「やれやれ、いつもながら耳の早いことですが、それなら、報せに来る私の労力も省いてくれたら有り難いのですがね」
声を掛けられて忍穂耳と千々姫が振り返った。
そこには思兼が立っていた。
高皇産霊たちが忍穂耳と千々姫に用のある時、思兼がよく遣わされた。
◆
妹と義弟の裸身を見ても思兼が動じることはなく、くいっと眼鏡を押し上げながら告げた。
「父たちが喚んでいますよ」
そのいつも通りでいるところが却っておかしく感じられ、忍穂耳と千々姫は揃って吹き出した。
「少しは申し訳なさそうな顔しろよ」
「急を要する件ですし、この時間まで寝ていた貴方たちも問題です」
「ああ、それくらい緊急の案件だと見なしてんのか、上は」
「……その様子を鑑みますに、千々姫の糸で殆ど知っているのですね?」
思兼が忍穂耳から千々姫に視線を移すと、彼女の指からは糸が伸び、天井に繋がっていた。
千々姫は織物の力を神として祀った。
彼女は呪力の糸を絡めた対象から情報を抜き取れ、高天原のあらゆるところにその網を張っていた。
様々なものの根っことなる部分に糸を絡めれば、それを伝って至るところに耳を澄ませられた。
それが千々姫の地下にいる理由だった。
思兼の妹らしく千々姫は知ることに貪欲で、別天津神や三貴子が情報を遮断してもその隙間を掻い潜った。
「それでも、平気な顔されんのは何だかなあ」
「貴方の裸体がどうでも良いこと甚だしいのは勿論、妹の裸も見慣れていますから今更です」
「聞き捨てならねえことを耳にしたぞ」
「実家にいた時の千々姫は服を着るのが面倒と言って裸で過ごしていましたから、嫌でも見る羽目になります」
「だから、やらねえ日も寝る時は全裸なのか」
「面倒ってのもあるんだけど、服を着て寝るのは落ち着かないんだよねえ」
「まあ、服着て直ぐ行くから、そう伝えといてくれや」
ひらひら手を振って忍穂耳は思兼を下がらせた。
◆
忍穂耳は頭巾の付いた外套を衣の上に羽織り、千々姫の方を振り向いた。
千々姫は蜻蛉の羽のように薄い織物を着崩していた。
煙草の煙を吸い込みながら忍穂耳が問うた。
「この呼び出しはあの黒い水と関係ありそうか?」
以前、千々姫の糸は高天原の地面に染み込む黒い水を感じ取った。
その水は高天原の底まで伝わり、黴雨に混じって葦原中国へと降り注いだ。
千々姫は糸を介して水の存在を感知しただけだったが、対象から伝わる稜威にもう少しで呪力が暴走するところだった。
いや、力が荒れ狂うだけで済むなら、まだ良い方であったのかも知れなかった。
小川が大海に流れ込むがごとく自我を呑み込まれてしまいかねないとさえ思えたからだ。
名状しがたい恐怖が千々姫の背を震わせた。
しかし、無事であったからこそ千々姫は月日が経つに連れ、その黒い水についても知りたいという欲を抑えられなかった。
彼女は網を張り巡らし、黒い水がどこから染み込んできたのかを探った。
だが、あれほど強烈であったものが痕跡さえ見付けることが出来なかった。
それゆえ、天災のごとくたまたま高天原の呪力に狂いが生じてしまったということで処理された。
「得られた情報から判断するに、直接の繋がりはないけど、間接的な原因にはなってると思う」
そう答えて千々姫も煙草に火を点けた。
「もしそうならこれも何かの縁だし、ちょっくら葦原中国へ調べに行くのも悪くはねえだろ」
「あたしの糸が空中を伝えたらね」
「なあに、たまの外出も乙なもんだ」
忍穂耳は千々姫の額に口付けし、部屋を出ていった。
典拠は以下の通りです。
高天原の地下に穴宮という都がある:『富士宮下文書』




