第六十段 東大神族
曽尸茂梨の範囲は狭まっていた。
韓郷が整序されて八洲でも出雲の国造りが進み、韓郷と八洲の狭間にある常世の曽尸茂梨は狭まらざるを得なかった。
それゆえ、天王ら曽尸茂梨の他神たちも身の振り方を考えなければならなかった。
そうした時に薬師は天王たちの前へと現れた。
「東大神族が八洲に渡りました」
その一言によって天王は全てが察せられた。
「……空亡の差し金とは考えすぎですかね」
「東大神族は勢いが盛んすぎます。整序により韓郷から弾き出されたとも考えられます。そして、それを空亡が引き寄せたのかも知れません」
「それで、俺にそのことを語ったってことはいよいよ?」
「ええ、その時が来ました」
薬師は天王を眷属としており、いずれ彼を八洲に遣わすつもりでいた。
それは釈迦との約諾を果たすためだった。
空亡への懸念を釈迦と共有した薬師は、天王を八洲へと送り込む機会を窺い、彼を曽尸茂梨で八洲の空気に触れさせ、空亡に気付かれぬよう仕込んでいた。
「弥五郎殿なる者に瑠璃所を八洲の津島に設けてもらいました」
瑠璃所は薬師が力を十全に発揮するための場所だった。
如来は普遍的な存在なので、どこでも一定の力は振るえたが、空亡のような造物主に対しては、その根拠地では遅れを取った。
薬師だけではなく釈迦や大日も、その差を埋めようとしていた。
「正直、葦の葉を支えとするような綱渡りに思えますが、やってみるとしましょう」
天王は自身や妻が病に苦しめられてきたため、薬師への帰依が篤かった。
◆
国境の砦を落とした日槍たちは吉備へも侵入し、鉄を手中にした。
日槍は震旦の風水も修めていたので、土地の龍脈を巧みに抑えられた。
穴牟遅が派遣した代官は、退却を余儀なくされ、出雲は吉備も占領された。
本来ならば出雲と同盟国で日槍を東西から挟撃できるはずだった。
しかし、穴牟遅が彦名の献策で民政に力を入れ、同盟国に高圧的な態度を控えるよう努めていた。
その治世が上手く行った結果、確かに出雲の勢力圏は栄えたのだが、贅沢に溺れて怠惰になる者が続出し、同盟国も弛緩して危機に素速く対処できなかった。
それどころか日槍に乗り換える国々もあり、三丹の代官であった火明は現地の王たちに追い出され、出雲に戻ってきた。
「やはり保守的な老人どもは当てにならん」
穴牟遅の屋敷で回廊を進みながら、建御名方が隣の事代主に言った。
「結局、奴らが守りたいのはこれまでの利権だ。大義のために今の苦境を堪えようという気が更々ない。だから、日槍の吊した餌に容易く釣られる」
日槍が播磨や吉備へ進出したことで出雲の閥は再び亀裂が深まっていた。
「常世神も出雲の門戸を開かせすぎたね。戸締まりが不用心だから今回のようなことになった。これを機に同盟国への締め付けもなされたら良いんだけど」
事代主の言葉に建御名方が頷いた。
出雲で教育を受けた穴牟遅の養子たちは、彼の思想に共鳴し、故郷よりも葦原中国の規模で物事を見るようになっていた。
建御名方も急激に視野が開けたせいか、出雲による葦原中国の統一こそが母の憂いを断つと信じた。
「お頭を邪魔する奴らなんて配慮しなければ良いのに」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
横合いからの叱責に事代主と建御名方が足を止めた。
振り向けば須勢理が腕組みをして憤然たる面持ちで立っていた。
そのような養母の姿に二人はばつの悪い顔をした。
「この非常時に仲間割れたあふざけんのも大概にしやがれ」
養子たちが出雲を祖国とするようになったのは、穴牟遅の思想を除けば、須勢理の存在が大きかった。
夫である穴牟遅との間に子はいなかったが、須勢理は実子のごとく養子たちに分け隔てなく接した。
実母への想いが強い建御名方も出雲へ来た当初から須勢理に何かと世話を焼かれ、沼河姫の面影を感じさせる彼女に頭が上がらなかった。
だが、それらは飽く迄も心情的なもので、事代主と建御名方の信条は揺らがなかった。
「女将、そうは言っても出雲は既に割れてます」
「利権が保たれるなら誰にでも従う老人たちや帰属意識の薄い余所者たちによってな。オレたちは口先でなく実際に自身の手で出雲の亀裂を修復したいだけだ。和を保つという言い訳で問題を先送りにしたくない」
真剣な様子の二人を須勢理は頭ごなしに叱れなかった。
彼らの言うこともまた事実で、それに対して彼女は代案を持っていなかった。
その状態でただ相手を否定しても説得できるはずがなかった。
◆
独断専行はするなとだけ注意し、須勢理は事代主および建御名方と別れた。
彼女は自分の不甲斐なさに歯噛みした。
すると、同じように浮かぬ顔の彦名がやってきた。
「どうしたんだよ? 元気なさそうだぜ」
「お妃さまだって似たようなもんじゃないか。私は元気が取り柄だけど、ない袖は振れないさ」
日槍たちとの争いが続く中、穴牟遅を除いて出雲で最も多忙なのは彦名だった。
大国主の参謀として彦名はあらゆる課題に対処しなければならなかったが、何か不具合が発生する度に彼の責任を問う声が上がった。
しかも、最近は穴牟遅とすら意見の対立が目立つようになり、彦名の疲労に拍車を掛けた。
「同盟国の王たちへ伝令を発するよう穴牟遅に言われたよ。詳細は教えてくれなかった。私は信頼を欠いたのかな?」
珍しく落ち込む彦名に須勢理は寂しげな微笑みを浮かべ、膝を突いて彼を抱き締めた。
「単に疲れて気遣いが出来ないだけさ。戦いに明け暮れてみんなちょっと変になってんだよ。もう少しだけで良いから、穴牟遅を支えてやっちゃくれねえか?」
「あれだけ上手く行ってたのに、どうしてこうなっちゃったんだろ……」
「……曇ってもまた晴れるさ」
父の昔語りを思い出しながら、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
典拠は以下の通りです。
瑠璃所となったところに牛頭天王が棲み着く:『簠簋抄』
薬師如来が本地である牛頭天王が弥五郎殿から津島を譲られる:『牛頭天王講式』




