第五十七段 常世国
動かない穴牟遅に少年はにやにやしながら言った。
「どうやら打つ手なしって感じだね。やっぱりちょっと期待しすぎだったか。大国主は君に不相応な称号だよ」
「ああ、そうだな」
穴牟遅は少年の皮肉にあっさり首肯した。
「ありゃ、そんな簡単に頷かれても困るんだけど」
「それなら、安心しろ。飽く迄も私だけならという話だ。お前の言い方を借りるらなら、弱さを受け入れた強さが私にもある」
「へえ、どんな強みがあるってのさ?」
少年は信じていなさそうだったが、気にしないで穴牟遅は振り返った。
「外の力を借りるのも恥とは思わん」
そこにいた神人を見て少年が青ざめた。
◆
その人物は慈母のような笑みを浮かべ、穴牟遅や少年に歩み寄っていった。
「常世から勝手に帰ってきたかと思えば、挨拶を寄越すこともせず、挙げ句に国津神の土地で勝手三昧。ああ、これは業腹ですけれども高皇産霊の言ったことを認めなければなりませんね。貴方は悪戯好きの腕白坊主です」
その歩みを止め、青筋を立てて微笑んだのは神皇産霊だった。
「お灸を据えて差し上げましょう、彦名」
「おおおっ、お母さん!?」
彦名と呼ばれた少年はがたがたと震え、呪力の虫が叩き付けられたかのごとく地に落ちて動かなくなった。
「たとえ元が呪力であっても虫などの形を取れば、それに重力の作用を及ぼすことが出来ます」
別天津神である神皇産霊は呪力の虫にだけ重力を働かせ、少しも動けないようにしながら顔色一つ変えなかった。
「ご苦労だったな、久延毘古」
穴牟遅が神皇産霊の後方にいる久延毘古命に対して礼を言った。
久延毘古は案山子に神霊が宿った付喪神の神人で、田畑を見渡すようにあらゆる事物や事象を見知っていた。
穴牟遅は常世神の居所だけではなく、その正体についても探らせていた。
「うちの子が本当にご迷惑をお掛けしました」
神皇産霊は彦名をぶら下げながら穴牟遅たちに謝った。
彦名は見事に尻が腫れていた。
呪能で重みの増した平手で尻を叩かれたのだから無理もあるまい。
「いや、こちらこそ出雲の問題に助力を願って申し訳ない」
「そのようなことはお気になさらず。高天原も葦原中国も父上の創られた天地ですから。決して他人事ではありません」
寂しげな神皇産霊の表情を訝しみ、穴牟遅は首を傾げた。
◆
高皇産霊と神皇産霊の息子である彦名は天津神だったが、事情があって常世の一つたる曽尸茂梨に預けられていた。
医療の技術はそこで学んだものだった。
神人たちは技術を持たなくとも何とか出来なくもなかったが、効率性という点では分が悪かった。
「彦名を出雲に迎え入れたい?」
穴牟遅の申し出に神皇産霊は驚いた。
「ここを散々に騒がせたのですよ?」
「それはこちらの統治に不備があったことも関係している。彦名はその穴を気付かせてくれたし、それを埋める才もある。周囲の者には私が説得に当たる」
神皇産霊が傍らの彦名に問うた。
「私は異存がありません。貴方としてはどうなのです、彦名? 騒動の責任を取るのが道理であるとは言え、意志を確かめておかなくてはなりません」
彦名は膨れっ面で答えた。
「脇の甘いのが悪いんだよ。でも、負けちゃったんだから仕方ない。好きにやらせてもらったからには付けも支払うさ」
「そう後ろ向きに捉えてもらっては困る」
苦笑しながら穴牟遅は彦名を窘めた。
「お前は自分のしたことに一抹の正しさはあったと思っているのだろう?」
彦名の主張は穴牟遅に自らを省みさせた。
確かに自分は己が運を我が手で活かした。
しかし、その幸運は自己の力のみで獲得したものではなく、他者の助けがなければ、得られたかどうかも怪しい。
「お前も正しいことがしたかったのだ。表向きはどれだけ悪ぶろうとも。いや、認められたかったと言った方が適切か」
穴牟遅の指摘を聞いて神皇産霊ははっとした。
元はと言えば彦名は両親らの都合で曽尸茂梨に差し出されたようなものだ。
国津神の御祖たらんと努める余り彦名の実母であるのを疎かにしていた。
「親として私たちの方が成長していなかったのかも知れませんね、彦名」
神皇産霊が彦名の手を取り、それに自身の額を当てた。
「私こそ貴方に尻を蹴飛ばされても仕方なかった」
「……気にしてないよ」
尻を叩く時、叩くのとは別の手で神皇産霊は彦名の手を強く握り締めていた。
それは無意識の行為であるかも知れなかった。
帰国を報せなかった自分にも非はあり、無断で帰って騒ぎを起こしたのだから、どれだけの心労を掛けさせたか。
驚かせたかった。
そうして能う限り褒めてほしかった。
生き別れた両親に振り向いてもらいたかった。
彦名が穴牟遅の方を向いて言った。
「臣下ではなく客人としてなら協力しても良いよ」
穴牟遅はそれに頷いてみせた。
彼は結果的に神皇産霊と彦名の橋渡しをしてくれた。
それに報いぬほど彦名も身勝手ではなかった。
典拠は以下の通りです。
神皇産霊尊の息子である少彦名命が高皇産霊尊の子でもあり、腕白であって悪戯が過ぎるとされる:『日本書紀』




