第四十八段 大黒天
四方を覆う炎の壁は、穴牟遅の眼前にまで迫っていた。
(炎の中に飛び込んで突っ切るか? ……いや、ぶ厚すぎる。突っ切る前に焼け死ぬのが落ちだ)
熱は既に彼の肌を焦がし始めていた。
(もし助けが来るにしてももう遅いし、根国に変若水のような呪具があってもそれで救ってもらえるとは限らない)
冷静に状況を分析するからこその絶望感が穴牟遅を襲った。
(運に身を委ねる他ないのか?)
これまでのように。八十神に服従しながらいつか来るかも知れない解放の機会を待っていたように。隷属が自分にはお似合いなのか?
(違う)
このような自分を若比売は守り育て、白兎は大国主になるであろうと予言し、須勢理は勇気付けてくれた。
彼ら以外にも多くの人々に穴牟遅は支えられてきた。
それをふいになど出来るものか。
(天に任せるしかないのが運命なら、それを乗り越えてやる!)
その決意に呼応するかのごとく如意宝珠が光輝いた。
穴牟遅はその時も槌と袋を携えていた。
宝珠の光に照らされ、穴牟遅の脳裏に不思議な光景が飛び込んできた。
それは地下に広がる大きな空洞だった。
もしそのようなところに避難できれば、炎をやり過ごすことが出来た。
そう思った次の刹那、穴牟遅はその中にいた。
◆
穴牟遅は驚いて目を丸くした。
いきなり地下の空洞に移動しただけではなく、そこには先客がいた。
奇稲田だった。
「ここに来るのがもう少し遅かったら、こいつらに助けさせるつもりだったが、どうやら要らぬ心配だったようだな」
奇稲田の足下には異形の鼠が何匹もいた。
恐らくその鼠たちが穴を掘ったのだろう。
呆ける穴牟遅に奇稲田はにやりとした。
「十分に仕込んだから後は追い詰めれば開花する。そう判断して素戔嗚は貴様を火に襲わせたわけだが、見事その通りになった。流石は俺様の益荒男だ」
一人で納得してうんうんと頷く奇稲田だったが、混乱する穴牟遅は彼女に尋ねた。
「ここは……?」
「貴様がさっきまでいたところの真下にある洞穴だ。自分の呪能で貴様はここに移動してきたんだよ。穴の力を神として祀る呪能でな」
「穴?」
「正確には抜け穴といったところか。ものがそこにあるということを改竄し、自他を任意の場所に移動させる。この世界に抜け穴を通じさせて」
「そんな無茶苦茶なこと……」
「そうであるからこそ貴様の呪能は開花が遅れたんだよ。摩訶迦羅に祝福された貴様は、神人でありながらもその呪能は法力に基づき、それ故に世界の裏を掻ける。大国主にして大黒天なのさ」
「摩訶迦羅」は「偉大なる暗黒」を意味した。
「さ、呪能を開花させた証に受け取ると良い」
そう言って奇稲田が穴牟遅に手渡したのは、素戔嗚が探してこいと命じた矢だったが、羽はぼろぼろになっていた。
「鼠に咥えてこさせたから、羽が食い千切られているが、俺様の益荒男はそんな細かいことを気にしないさ。そんなことよりも須勢理のところに早く帰ってやれ。貴様を益荒男と慕う女を余り泣かせるな」
開花した呪能で地上を認識してみれば、そこでは須勢理が穴牟遅の求め、焼け野原を探し回っていた。
◆
穴牟遅が須勢理の前に姿を現すと、須勢理は穴牟遅の胸に飛び込み、目に涙を浮かべながら、彼を拳で叩いた。
素戔嗚が須勢理を穴牟遅から引き離すと、穴牟遅は素戔嗚に矢を差し出した。
呪能を開花させて素戔嗚が課した試練も乗り越え、彼は誇らしい気持ちだった。
しかし、素戔嗚は失望したような表情で告げた。
「開花した呪能がそれか。ここから出ていけ。お前には見所がない」
呆気に取られる穴牟遅に彼は続けた。
「ものを余所に動かす。それで八十神とどう戦うと言うんだ? 逃げてばかりのお前に相応しい呪能だな」
「父さん!」
死地から生還した穴牟遅に対する余りの物言いに須勢理が声を荒げたが、素戔嗚は気にしなかった。
「どれだけ喚こうとも現実は変わらん。穴牟遅、お前の呪能は戦うのに向いていない。諦めろ」
素戔嗚の宣告は穴牟遅を打ちのめした。
やっと開花した呪能を出雲の大英雄に全否定されたのは堪えた。
それに、己の呪能がそれだけでは戦いに向かないことを穴牟遅も自覚していた。
それでも、諦めることなど出来なかった。
「……お断りします。貴方のように正面からやり合うばかりが戦い方じゃない。匹夫と帝王は違う」
その発言は素戔嗚を匹夫と言っているようなものであって須勢理は驚き、穴牟遅に同行していた奇稲田は面白がった。
「そうか。なら、どんな手を使ってでも良いから、それを証してみせろ。俺にお前の王道を見せてくれ」
素戔嗚はそう告げて踵を返した。
「まあ、今日はもう疲れたから、寝る前にする髪の手入れをお前がやってくれ、穴牟遅」
髪には呪力が宿り、それに触れさせるのはそうそうあることではなく、素戔嗚が目配せするのを穴牟遅は訝った。
典拠は以下の通りです。
大穴牟遅神が大黒天とも名付けられる:『垂加翁神説』




