第四十五段 葦原醜男
須勢理が木の根で出来た洞窟のような道の壁に手を当てると、そこの根っこが伸び、絡まり合って道を塞いだ。
「これであいつらも追ってこれねえだろ」
「通れなくして良いのか?」
「道は一つじゃねえさ。根国に出入りする奴らも、それは知ってる。テメエみたいに一人でやってくる奴の方が稀だよ」
歩き出す須勢理を穴牟遅は慌てて追い掛けた。
道中、須勢理は穴牟遅の呪能や呪力について色々と質問した。
穴牟遅は黄泉神となった者らが根国に駆け込むことを知っていたため、須勢理が根掘り葉掘り訊くのも当然と思い、問いには素直に答え、自分が神人として無能であることも打ち明けた。
しかし、穴牟遅に呪能の才がないと知っても須勢理は彼を軽んじた様子は見せず、能力と関係ない個人的な事情については詮索しなかった。
根国には様々な事情が抱えた者たちがおり、呪能が使えないことも、別に珍しくはないのだろう。
須勢理の態度を穴牟遅はそう解釈した。
だが、己が須勢理にとって注目するほどの存在ではないことに彼はどうしてか胸が痛んだ。
まさか穴牟遅がそのようなことを思っているとは知らず、須勢理は彼から聞き出したことを踏まえ、根国にて気を付けるべきことを教えた。
やがて視界が開け、穴牟遅は初めて根国を目にした。
◆
根国は地底の世界であるにも拘わらず、地表と同じように明るかった。
空と言って差し支えないぐらい高い天井に苔が生え、日月や星のように強弱を付けながら輝いていたからだ。
地熱や大量の地下水によって万物が育まれ、山河や樹海があって動物もおり、家畜さえ飼育されていた。
ただし、それらの動植物は葦原中国の目から見れば異形の存在で、己が根国にいることを穴牟遅に自覚させた。
赤猪と似たものが感じられ、穴牟遅はぞくりとした。
すると、須勢理が穴牟遅の手を握った。
「葦原中国とは違うかも知れねえけど、オレが付いてるから安心しろって」
幼子のように扱われて穴牟遅は両手で顔を覆いたくなった。
元気付けようとするかのような笑みが眩しいだけになおのこと辛かった。
自分もそれなりに苦労してきたはずだったが、まるで子どもに戻ったかのようだった。
「まあ、オレも葦原中国の熊谷ってとこで産まれたんだけどな。でも、物心付く前にこっちへ来たから、何も覚えちゃいねえ。で、あれがオレん家だよ」
須勢理の指差した先には三重の城壁に囲まれた荘厳な城があり、三つの門にはそれぞれ番人がいた。
番人たちも異形の者たちだったが、須勢理は彼らと気軽に挨拶を交わし、穴牟遅を中へ案内した。
広々とした庭には屋敷が幾つも点在して、それらの一つ一つが宮殿のようだった。
それらの内でに取り分け偉容を誇る豪邸に穴牟遅は連れられた。
彼はずっと圧倒されっぱなしで、須勢理が城に着くまでの間と同様、行き交う人々と言葉を交わしてもその内容を聞き取れないほどだった。
八十神が占拠している須賀の宮殿も、こことは比べ物にならなかった。
羨道を通って羨室に入ると、幾間もある部屋が目に飛び込んできた。
その空間は柱によって前室や東西の側室、玄室、回廊など複数の部屋に画され、玄室の奥は腰壁の上部に窓が造られて回廊と隔てられており、石柱・桁・梁・天井の全てが豪華に彩色されていた。
地上と同じ生活を壁画に描いた室内には生大刀や生弓、天詔琴などの宝物が飾られ、素戔嗚が座していた。
◆
剣の柄に両手を乗せた素戔嗚は、穴牟遅に微笑んで言った。
「そう堅くなるな、若いの。手形を持ってきたのだろう? 俺を頼ってきた者をそう邪険にはせんよ」
しかし、穴牟遅の体から力が抜けることはなかった。
確かに素戔嗚の表情はにこやかだったが、その下には荒ぶる力が渦巻いているのが感じられた。
穴牟遅は改めて身を引き締めた。
彼はそれまで素戔嗚の存在をお伽噺のように受け取っていた。
葦原中国では黄泉神にさえ滅多に出会わなくなっており、天津神の方がまだ身近に感じられた。
だが、赤猪に襲われて根国の異形たちとまみえ、素戔嗚を前にし、穴牟遅は全て本当のことであったと今更ながらに悟った。
そのような穴牟遅の思いを余所に素戔嗚が須勢理に問い掛けた。
「お前から見てこいつはどうだ、須勢理?」
「普通じゃねえように思える。ここは黄泉神のうようよいるところだ。その呪力に当てられたら、黄泉神にならなくたって体調を崩すくらいするはずだけど、こいつにそんな様子はねえ」
言われてみれば黄泉神に恐怖を感じさせられることはあっても、それで気分が悪くなることなどはなく、穴牟遅は自分の体を不思議そうに眺めた。
「確かに普通ではないな」
娘の言葉に素戔嗚は目を細めた。
「葦原醜男といったところか」
穴牟遅は首を傾げた。
素戔嗚が彼に下した評価は、「荒削りであるけれども強力な葦原中国の男」というものだった。
何故か黄泉神から悪影響を被っていないとは言え、呪能を振るうことさえ出来ないのに、強力と評するのはどうしたわけか。
「若いの、お前がここまで来たわけを話せ」
素戔嗚に促されて穴牟遅はこれまでの経緯を語った。
それに対して素戔嗚は積極的な発言はしなかった。
相槌を打ってたまに問いを発するくらいだった。
やがて話を聞き終えると、表情や態度に変化を見せることもなく、彼は須勢理の方を向いて告げた。
「須勢理、穴牟遅をお前が作業している部屋で働かせろ。ここに穴牟遅がいつまでいるか分からん。その間をずっと無為に過ごさせるわけにも行かんだろう」
穴牟遅は素戔嗚に鍛え上げられるつもりであったので、面食らった。
典拠は以下の通りです。
素戔嗚尊と奇稲田姫の子どもが熊谷で産まれる:『出雲国風土記』




