第四十四段 木国
黄泉神が荒れ狂う呪力を鎮めている関係上、根国がどこにあるかは伏せられていた。
素戔嗚の子分であった若比売が知っているのも、木国が根国と繋がっているということだけだった。
いつ八十神が穴牟遅の生存に気付くか分からない以上、葦原中国と根国を行き来する他神を探し出す暇はなかった。
そこで、ひとまず穴牟遅は木国に赴くこととなった。
木国なら若比売もどこにあるか知っていた。
森林に覆われたその国には同じく素戔嗚の子分であった五十猛がいた。
穴牟遅が木国に出立するのを見送ると、神皇産霊が若比売に尋ねた。
「穴牟遅くんの呪能が開花しない理由に心当たりはありませんか?」
「藪から棒に何だってんだい?」
「呪力の暴走を鎮める蚶貝比売と蛤貝比売の薬は、力の流れも改善するのですが、それでも、穴牟遅くんは呪能を満足に振るえません。まさか力を荒れ狂わせることはないでしょうが、気になるところです。これまで穴牟遅くんのような神人を見たことがありません」
そう言われて若比売は暫し考え込み、やがて過去のとある出来事を話した。
それはまだ出雲の国が八十神に奪われておらず、素戔嗚もいた時のことで、山が浪の上を漂って海の彼方からやってきたのだ。
素戔嗚はその山を出雲の土地に繋ぎ止めた。
山は天竺にある霊鷲山の東南の一角が欠け、長い間、波風に浮かんで漂って出雲へ流れ着いたのだ。
浮浪山と名付けられたその山には一人の天人がいた。
摩訶伽羅天と名乗ったその天人は、漂流から助けてくれた出雲の国津神たちに感謝し、穴牟遅を身籠もっていた若比売の母胎をお礼として法力で祝福した。
「余所の水が体に合わないのと同じようにそれが悪かったのかね」
「それから、その摩訶伽羅さんはどうなさったのですか?」
「普通に天竺へ帰ったよ。それなら、最初からそうすりゃ良かったのにねえ。欠けた山の一角にしがみついて出雲に来なくても良いだろうに」
そう述懐して若比売は溜め息を吐いたが、神皇産霊は口に手を当てて黙考した。
◆
穴牟遅が木国に着くまでの間に、彼の生存は八十神の知るところとなった。
八十神は大いに喜んだ。
期待外れと思っていたのがそうではなかったからだ。
やはり穴牟遅には何かがある。
是が非でもそれを見出さねばならぬ。
なぜなら、我らは稜威なるものを愛でたいのだから。
木国に辿り着いた穴牟遅は、五十猛や大屋毘古神に迎え入れられた。
大屋毘古は伊邪那岐と伊邪那美の神産みによって産まれた息子で、両親の国産みを無為に帰しかねない八十神を厭っていた。
素戔嗚の子分であった五十猛も当然ながら八十神を嫌った。
それゆえ、八十神が木国まで追い掛けていき、矢を弓に番えながら、穴牟遅を出せと迫っても五十猛や大屋毘古は彼を保護した。
彼らは木の俣に空いた洞から穴牟遅をこっそり逃がし、そこを進めば根国に至ると教え、そのために手形も渡した。
ところが、その道を八十神も別口から見付けて穴牟遅を追った。
◆
根っこで出来た洞窟のような道を穴牟遅は必死に下った。
背後からは八十神の迫る気配が感じられた。
それは段々と近付いていた。
八十神は穴牟遅に向かって呪能を振るいもした。
それは穴牟遅に当たらなくとも彼の動きを遅らせるのには十分だった。
穴牟遅と八十神の距離は段々と縮まっていき、このままでは追い付かれそうだった。
(どこかに逃げ道はないのか?)
未だ呪能の開花せぬ穴牟遅では八十神と戦えなかった。
当然ながら無謀な抵抗で玉砕するつもりもなかった。
ならば、たとえ生き汚かろうともどうにかして逃げ果せねばならない。
自分の無力さは骨身に染みていたが、力がないからと言って最初から諦めるなど出来ない。
まだそうするには早すぎる。
穴牟遅が走りながら打開策を模索していると、不意に肌がひりついた。
「おい、テメエら!」
威勢の良い声が前方から響いてきた。
声から察するに若い女の子が発したと思われた。
それから、言葉遣いと同じように荒々しい衝撃が押し寄せた。
「人んところで何してんだ!?」
穴牟遅と八十神は吹き飛ばされ、倒れる彼らの前に一人の娘が現れた。
つんつんした赤髪を長く伸ばし、その吊り目や堂々とした態度は如何にも強気そうだった。
娘は穴牟遅の持つ手形を見て言った。
「何だ、うちに用があるのかよ。危ねえからオレの後ろにいてろ」
穴牟遅の手を取って娘が彼を立たせていると、八十神が二人に襲い掛かって呪能を振るった。
それに向かって娘が拳を突き出した。
すると、また衝撃が発生し、八十神をその呪能もろとも吹き飛ばした。
「テメエらは手形を持ってねえようだな。だったら……」
娘が八十神に対し、片脚を上げて構えた。
「とっとと出てけ!」
そして、鋭い蹴りを繰り出し、これまでで最も強い衝撃によって八十神を蹴散らした。
洞窟のように閉鎖的な空間で娘の放つ衝撃を避けるのは不可能だった。
不利を悟った八十神は、万全の状態で稜威を愛でるため、地上へと退却していった。
「これでもう大丈夫だぞ」
「ありがとう、俺は穴牟遅と言うけど……」
穴牟遅を振り返る娘に彼は礼を述べようとしたが、相手の名前が分からなかった。
「須勢理毘売命。素戔嗚と奇稲田の娘だ。須勢理とでも呼んでくれ」
その名乗りに穴牟遅は驚いた。
「宜しくな」
それが須勢理の身分に面食らったからなのか、彼女の男前な笑顔に胸が高鳴ったからなのかは、穴牟遅には判別できなかった。
典拠は以下の通りです。
霊鷲山の東南が欠けて出雲国に流れ着き、素戔嗚に繋ぎ止められて浮浪山と言われる:『懐橘談』
摩訶伽羅天が大穴牟遅神と深い縁を持っている:『三輪山縁起』
五十猛神が大屋毘古神と縁がある:『先代旧事本紀』
須勢理毘売命が素戔嗚尊と奇稲田姫の間に産まれる:「老いたる素戔嗚尊」




