第四十段 変若水
話は月読がまだ高天原にいた頃にまで遡る。
月読は天照に頼まれ、保食を迎えに行くため、素戔嗚ともども葦原中国へと天降りした。
そうして降り立ったところが因幡の地だった。
ほぼ黄泉神となっていた保食は、因幡に猛威を振るっていた。
国津神は天津神よりも強い呪力を有していたが、それも黄泉神ほどではなかった。
鬼の黄泉神を滅ぼした八上姫でも手こずり、暴走した保食の力は、因幡の国津神たちを襲った。
その中に白兎もいた。
荒れ狂う保食は腸や蔓を思わせる触手を振るい、白兎はもう助からないと絶望した。
月読が白兎の前に現れたのはその時だった。
月読は文字通り素戔嗚と共に天から舞い降りた。
白兎たちを呑み込まんとしていた保食の呪力を、素戔嗚の呪能が払い除けると、月読が天蠅斫剣で保食の呪力を分解した。
視界の片隅で素戔嗚が、保食の呪力が分解されたことに舌打ちしていたが、白兎の意識は月読にしか向いていなかった。
突如として姿を見せ、自分を窮地から救ってくれた女神。
その鮮烈な印象に白兎は心を奪われた。
だから、保食の触手が月読に背後から襲い掛かると、彼は無我夢中で彼女を助けに走った。
初めて実戦で天蠅斫剣を振るって加減が分からなかったのか、月読は、保食の力を完全に分解できてはいなかったことに気付くのが遅れた。
それゆえ、月読と保食の間に入った白兎は触手を喰らった。
しかし、それに対して月読は直ぐさま呪能を発動し、保食の動きを遅くさせた。
そして、素戔嗚が風を操って触手を切り裂いた。
「大丈夫か!?」
月読は、吹っ飛ばされた白兎に駆け寄って彼を抱き起こした。
「安心しろ。今、治すからな。私のせいですまない……」
懐から竹筒を取り出し、月読は中の水を白兎に注ぐと、触手に吹っ飛ばされて付いた傷が瞬く間に癒えた。
「あれ……?」
「変若水という私の呪具だ。私と同程度の再生能力を得られる。手遅れになる前でほっとした」
表情の乏しい月読の顔が安堵の笑みを浮かべ、それに見惚れて白兎は言った。
「貴方様がご無事で、僕もほっとしました」
熱の籠もった白兎の言葉に月読は面食らった。
◆
保食の呪力を完全に分解すると、月読と素戔嗚は彼女を連れて高天原に帰った。
その際に月読は変若水が入った竹筒をこっそり白兎に手渡した。
返そうとする白兎に月読は言った。
「君の気持ちが嬉しかった。あれが嘘でないのならどうか受け取ってくれ。これは私の気持ちだ」
そのような言い方をされてしまうと、白兎も断ることが出来なかった。
変若水は死者でない限り治癒させられる万能の霊薬だった。
それを私物化するのは恐ろしかったは、八上姫に献上するというのもおかしかった。
そこで、誰にも見付からぬよう隠岐島へ隠すことにした。
そして、そのまま思い出としておくつもりだったが、八十神が因幡に攻めてきたことで状況が変わった。
白兎は変若水によって因幡を守る策を思い付いた。
それを実行に移すため、隠岐島へ渡ろうとし、八十神に捕まって拷問されたが、彼は口を割らなかった。
もし変若水のことを知られて手に入れられたら、月読との思い出が汚される。
その一念で白兎は耐え抜き、隙を見て逃げ出すのに成功した。
しかし、体力を消耗していたために気多岬で倒れ伏した。
そこに穴牟遅が通り掛かった。
◆
白兎と穴牟遅が変若水を取りに隠岐島へ行っていた頃、八上姫は因幡を守るべく八十神と戦っていた。
水稲の力を神として祀る彼女は、水田が水を濾過するように、相手の呪力を無害なものに変えられた。
それは守りに長けていたが、八十神の猛攻に対し、有効な反撃は出来なかった。
そもそも、鬼の黄泉神を滅ぼしたというのも実際は封じただけようなもので、八十神を迎え撃っている間も、封印の方に呪力を割いていなければならなかった。
因幡の国津神たちも八上姫と共に戦っていたが、八十神は空亡の稜威に強く影響されていたので、その勢いを押し止めるのは難しかった。
因幡が八十神に屈するのも時間の問題だった。
(このまま被害を拡大させるより、潔く降伏すべきか?)
亡国の兆しであるかのような暗雲が棚引く中、銀髪を頭の右側で結った八上姫は、その美しい顔に浮かべた憂いの色を更に濃くし、抵抗を続けるべきか迷った。
八十神は傘下に入りたいと思えるような相手ではなかった。
しかし、最後まで抗って負ければ、扱いはより酷いものとなるだろうし、勝ち目が見えないのなら、最善の負け方をしなければならなかった。
「双方とも矛を収めい!」
天から鶴の一声が降ったのは、正に八上姫が降伏しようとした時のことだった。
雲の切れ間から筋状に日が差し、両軍の放っていた呪力が掻き消えた。
そして、光の筋を降ってくるかのように天照が姿を現した。
「お主たちの争いには、わたしが裁定を下す!」
彼女がそう宣言すると、それを拒むかのごとく八十神が呪能を振るった。
だが、天照は自身の呪力を八十神の力と同調させ、自身の呪能を八十神の呪力へ適用させた。
八十神が天照に向けて振るった呪能は、八十神の背後へと瞬時に移動させられて本人たちを薙ぎ払った。
「この案件には我が妹たる月読が絡むゆえ、わたしに刃向かうことは、高天原を敵に回すことと心得よ!」
圧倒的な力を見せ付けた後の啖呵は効果的だった。
八十神は少なくともその場は引き下がることにした。
勢いを削がれた以上、このまま戦い続けても楽しめないと判断したからだ。
九死に一生を得た八上姫は、立て籠もっていた御殿を出て天照を迎えた。
彼女は天照の後ろに二人の神人が控えているのに気付いた。
白兎と穴牟遅の二人だった。
出典は以下の通りです。
月読命が変若水を持っている:『万葉集』




