第三十七段 祓え
素戔嗚と奇稲田の笑いが収まると、二人に声が掛けられた。
「風邪を引いても知らないよ?」
声の方を振り向けば、足名椎と手摩乳は奇稲田の姉たちを保護していた。
彼らはほっとしている様子だったが、その表情には寂しさも見て取れた。
娘たちが無事に帰ってきた喜びも、罪悪感を拭い去るには至らなかったようだ。
素戔嗚は奇稲田を立たせ、その背中を押した。
奇稲田は不安そうに素戔嗚を振り返ったが、彼が首を縦に振ると、覚悟を決めたように頷き、前を向いて駆け出した。
そして、飛び込むように足名椎と手摩乳に抱き付いた。
「離すんだ」
手摩乳が娘から逃れようとしたが、それを奇稲田は許さなかった。
「ありがとう……」
両親の胸に顔を埋めた彼女は、どのような顔をしているか分からなかった。
「俺様のために苦しんでくれて……」
「奇稲田……」
足名椎と手摩乳は驚いたが、やがて涙を流し、泣いて微笑みながら奇稲田の背に手を回した。
それを見守っていた素戔嗚は、一本の剣が落ちているのに気付いた。
それは天蠅斫剣と韓鋤剣のどちらでもなかったが、どうしてかその二つを連想させた。
◆
素戔嗚が祓えのために高天原へ昇ってくると報され、天津神たちは騒然となった。
来てほしくはなかったが、祓えを素戔嗚に課したのは天津神たちだったので、拒むことも出来なかった。
それゆえ、厳重な警戒態勢を敷いて素戔嗚を迎え入れた。
ところが、素戔嗚は奇稲田を同伴して姿を見せたので、高天原は別の意味で騒がしくなった。
奴隷娘を献上しに素戔嗚が現れたという噂さえ流れた。
それを聞いた天照は、大慌てで素戔嗚と会った。
「一体どうしたんじゃ、素戔嗚!? 確かにお主は祓えを課せられておるが、気長にやって良いんじゃぞ! 余り思い詰めてくれるな!!」
「どうやら元気そうで何よりだ、天照姉」
穏やかに対応されて彼女は更に混乱した。
「奇稲田と言ったな、そこの娘! 素戔嗚は決して悪い奴ではないんじゃ!! これは何かの手違いであって、ええっと……!!!」
「弟思いの面白い御仁だな、素戔嗚」
「俺にとって自慢の姉だ」
奇稲田が素戔嗚とにこやかに会話し、天照はぽかんとなった。
「落ち着け、天照姉。確かに俺は祓えのために来た。だが、献上するのはこの剣だ」
そう言って素戔嗚は血の海で見付けた剣を天照に差し出した。
「元は天照姉から借りた月読姉の剣だったが、他の剣とも混じってこうなった。それを祓えの品にするのも厚かましい話だが、見事な代物であるのは天照姉も分かるだろう」
どうやら神人を取り込む黄泉神の体内で繋がりを持ち、天蠅斫剣と韓鋤剣は一つの剣になってしまったようで、呪具でありながらも幻力を兼ね備えていた。
「別物になってしまったゆえ、そのまま月読姉に渡すわけにも行かん。天叢雲剣と名付けたが、受け取ってくれるか?」
「ああ、天蠅斫剣は飽く迄も私とお主の私的な貸し借りじゃし、これほどの品ならば祓えに不足ない。お主に施された呪紋も解除されるじゃろう。して、これからどうするつもりじゃ?」
まさかまだ妣国に往くのを諦めていないのではないかと思い、天照は恐る恐る素戔嗚に尋ねた。
「国を創って、そこに住む」
けれども素戔嗚の返答は、天照が予想だにせぬものだった。
◆
結局、大蛇の本体となった神蛇の行方は分からずじまいだった。
恐らくは古巣の伊吹山に逃げ帰ったのだろうが、追い掛けている暇はなかった。
解決しなければならぬ問題が目の前に山積みされていたからだ。
奇稲田と姉たちの呪力は安定したが、村人たちとの間に生じた溝は埋められなかった。
そこで、彼女たちに同情的な有志を引き連れ、村を出ていくこととなった。
素戔嗚は彼らを率い、新しい村に相応しい土地を求めて出雲を捜し歩いた。そして、須賀の地に宮を造り、そこを新たな村の拠点とした。
「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
「何を言ってるんだ?」
完成した宮殿を眺め、素戔嗚が歌を詠むと、奇稲田がその意味を訊いてきた。
「呪詞だ。新しい命が安らかに生まれ育つようにな」
「ほほお~、それは良い心掛けだ。男たる者は妻や子に尽くさんとな」
口に手を当てて奇稲田はにやにやした。
「どうしてお前がにやつく?」
「それよりいつ俺様を組み伏せてくれる、素戔嗚? 俺様は貴様でなければ嫌だぞ」
急に奇稲田の表情が真面目なものとなり、彼女は素戔嗚の胸に縋った。
「……いや、頼む。貴様と是が非でもしたいんだ」
奇稲田から上目遣いに見詰められて素戔嗚は面食らい、そのような二人を遠くから眺めつつ、足名椎が手摩乳に漏らした。
「孫を見られるのもそう先の話じゃないかもね……」
「……尚更に頑張らないといけないね」
宮を拠点に作られた須賀の村は、稲田宮主神と呼ばれるようになった足名椎に委ねられ、素戔嗚は奇稲田と姉たちを連れて去った。
呪力が安定したとは言え、彼女たちは黄泉神のままで、国津神たちと一緒に暮らすのは難しかった。
それに、葦原中国には大蛇のごとく呪力の暴走した者たちがまだまだいると思われた。
そのような者たちのため、素戔嗚は新たに国を創ろうとした。
合流した五十猛たちもそれに協力した。
最終的に素戔嗚たちは熊成峰で根国へと降る道を見付け、そこに黄泉神たちの避難所を築いた。
典拠は以下の通りです。
天叢雲剣が高天原に由来する:『太平記』
八岐大蛇が伊吹山に逃れる:『酒典童子』
素戔嗚尊が熊成峰から根之堅州国へ入る:『日本書紀』




