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日本神紀  作者: flat face
巻第二 神祇本紀 天照と素戔嗚
37/228

第三十六段 八岐大蛇

 大蛇の多頭が素戔嗚を襲った。

 素戔嗚は風の流れを操り、襲い掛かる大蛇をいなした。

 足名椎が背後から叫んだ。


「後ろから尾が来る!」


 その言葉通り大蛇の尾が迫ってきた。

 彼はそれを躱したが、尾から根っこが槍のように生えた。

 根っこの槍は素戔嗚の腹を貫き、そこから湧き出た蛇や百足、鼠などが臓腑を食い破ろうとした。


「見た目に惑わされるんじゃない」


 手摩乳がそう言うと、素戔嗚は彼女のところへ瞬時に移動させられ、毒虫の餌食にならないで済んだ。


「奇稲田は稲田の力を神として祀る。田んぼが多様な生き物を育むようにあの子は色んな生命を生み出せる。こんなことを頼める義理じゃないけど、私たちも手を貸すから、叶う限り苦しませずにあの子を……」


 確かに虫の良い話だった。

 しかし、素戔嗚がそれに怒ることはなかった。

 なぜなら、それ以上に素戔嗚の怒りを掻き立てることがあったからだ。




 全く以て気に喰わなかった。

 怒りを募らせる素戔嗚に対し、奇稲田の方は楽しげな様子を見せていた。

 蛇頭や姉たちは酒に酔い潰れており、意思の衝突することがないからか、大蛇の頭や尾を奇稲田は自在に操った。


「さあ、大蛇の物語に幕を下ろしてくれ、三貴子よ! 俺様が認めた益荒男なんだからな!!」


 八つの頭と尾が振るわれるばかりか、それらから木の根が生え、小さな根っこを幾重にも伸ばして虫などを放った。

 蜂も放たれていたので、根っこに触れなくても安全ではなかった。

 避けられない時は手摩乳が素戔嗚を安全なところに移動させ、足名椎がその素速さで囮になってもくれた。


 それでも、手摩乳と足名椎はどちらも戦闘に向いておらず、時間が経つに連れ、夫妻は疲労の色が濃くなっていった。

 素戔嗚を頭や尾が殴って牙や爪が抉り、根っこや虫が切り刻んだ。

 奇稲田の力は、前よりも遙かに増していた。


「貴様でなければ笑って死ねない! 満足の行く最期を遂げさせてくれよ!!」


 確かにそれは本音なのだろう。

 手摩乳が感情を押し殺したように、足名椎が道化たように奇稲田は生け贄の姫という役に酔うことで、悲劇に耐えようとしたのだ。

 しかし、それが素戔嗚を怒らせた。


 酔い痴れた奇稲田の目に素戔嗚という個人は映っていなかった。

 奇稲田にとって素戔嗚は、益荒男という役割が実体をなしているに過ぎなかった。

 それが素戔嗚には酷く腹立たしかった。


「舐めるなと言ったはずだ、奇稲田」


 この女に自分という存在を叩き付けてやらなければ気が済まなかった。

 素戔嗚は呪詞で術式を練り、負荷に耐えながら呪能を存分に振るった。

 だが、渾身の竜巻を大蛇の鱗はいとも容易く弾いた。


 奇稲田と融合した蛇頭が口を開け、素戔嗚を呑み込まんとした。

 手摩乳と足名椎は疲れ果て、彼を助けられそうになかった。

 けれども、素戔嗚は自身の方へ突風が吹き寄せるように風を操作した。


 急に追い風が吹いて大蛇はつんのめり、その大きく開いた口に素戔嗚が飛び込んだ。

 素戔嗚は韓鋤剣を抜くと、それを頬の柔らかい内側に突き立てた。

 すると、短剣に込められた天王の幻力が大蛇の毒素を増幅させ、我が身すら痛め付ける己の毒に蛇頭ばかりか奇稲田と姉たちも絶叫した。


「痛いだろう。誰でもない自分が現に痛め付けられたんだからな。恋に恋した阿呆の夢舞台も、これで幕引きだ」


 大蛇の舌に降り立ち、彼は天蠅斫剣を構えた。

 ところが、舌を跳ねさせて大蛇は素戔嗚を弾き飛ばし、彼の手から離れた天蠅斫剣を呑み込んだ。

 それから、宙に飛ばされた素戔嗚に再び牙を剥いた。


「……何度も言わせるんじゃない」


 己に追い風を吹かせ、素戔嗚が自身の落下する速度に更なる勢いを付けた。

 そして、大蛇の牙をかいくぐってまたその口内に飛び込むと、頬の内側に突き立てられたままの韓鋤剣を掴み、呪詞を唱えて限界まで呪力を振り絞った。

 骨が軋んで肉が裂け、血潮が火花のように飛び散った。


 素戔嗚の呪能を制限する呪紋が熱く輝き、黒い煙を上げ、激痛が彼を責め苛んだ。

 それでも、素戔嗚は韓鋤剣を介し、大蛇に呑み込まれた天蠅斫剣に呪力を送り込んだ。

 伊邪那岐の呪能が大蛇の体内で発動した。


「舐めるな」


 大蛇が四散し、素戔嗚も吹き飛ばされて地面に叩き付けられた。

 その衝撃により直ぐには起き上がることが出来ず、素戔嗚は仰向けに倒れた。

 彼は天を仰ぎながらぽつりと呟いた。


「父者……」


 神人を取り込む黄泉神の性質に三貴子として同調したからか、天蠅斫剣で伊邪那岐の呪能を振るった素戔嗚は、父のことが偲ばれた。

 素戔嗚が空を仰ぎ見ていると、そこに雲が掛かり、雨が降ってきた。

 暫くして彼は何とか身を起こした。



 辺りは血が流れ、肥河も真っ赤に染まっていた。

 乙女たちは気絶していたが、その裸身に傷はなく、呼吸も確認できた。

 素戔嗚が奇稲田を抱き上げると、その体には温もりがあった。


 やがて奇稲田が目を覚まし、戸惑ったような表情で素戔嗚に問うた。


「どう、して……?」


 俺様は助かったのか?

 貴様は俺様を助けたのか?

 瞳はもう赤くはなく、奇稲田の呪力は安定していた。


「現実は茶番で終わることの方が多い。感動の再会もなければ、悲劇的な最期もなく、夢破れた男と女が馬鹿面を晒して終わる。茶番だろう?」


 苦笑する素戔嗚に奇稲田は泣きそうな笑みを浮かべ、二人は揃って馬鹿笑いをした。


典拠は以下の通りです。


素戔嗚尊が韓鋤剣で八岐大蛇を退治する:『日本書紀』

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